死を覚悟したのは、あの巨大な影を見た瞬間だった。
牙を剥いたのは、亜種オーガ――《赤銅の皮膚》を持つBランクの魔物。とてもじゃないが、駆け出し冒険者三人で太刀打ちできる相手ではない。
「く、来るなぁぁぁぁ!」
剣士のライオは震える手で剣を握り、魔導士志望の少女ティナは呪文を途中で噛み、盾役のリゼルはすでに脚を負傷していた。
逃げ道は、ない。
叫びは、届かない。
生き延びる術も――なかった。
――あの声が聞こえるまでは。
「……ご案内、遅れて申し訳ありません」
淡い紅光が空間を裂き、そこから現れたのは、見知った顔だった。いや、見知ってはいるが、その光景が現実とはとても思えなかった。
「エ、エリシアさん……!?」
ティナが声を上げた。彼女にとって、受付嬢は優しくて丁寧で、美しくて、でもちょっと近寄りがたくて――要するに“窓口の人”だった。
だが、今目の前にいるのはどうだ。
制服のまま空間転移を果たし、紅の封呪札を宙に浮かべ、魔物の群れを前にして一歩も引かぬその姿。風にたなびく銀髪、微動だにしない足取り、そして――
微笑。
「こちらでお待ちくださいね。……あまり、目を開けて見ない方がいいかもしれませんよ」
その声に込められた“確信”が、むしろ恐ろしかった。
次の瞬間。
紅の封呪札が風を裂くように飛び、魔物の足元に突き刺さる。
一枚。二枚。三枚。
炸裂。
火と風と雷の三属性が連鎖し、爆炎の花が咲く。《赤銅の皮膚》を誇る亜種オーガすら膝をつき、うめき声を上げる。
だが、それは終わりではなかった。
「三番、拘束術式――《紅蓮の輪》」
エリシアが指を鳴らすと、地面から魔法陣が浮かび上がる。亜種オーガの両足が赤い鎖で地面に縫い付けられ、動きを封じられた。
「……ギルド登録における基準に照らし、魔物等級B《赤銅皮膚種》、無許可接触および街道侵犯による討伐処分を実施します」
完全に、受付嬢の台詞じゃない。
誰かが呟こうとしたその瞬間、風が鳴った。
一閃。
動いたのは、エリシアの手でも、魔法でもなかった。封呪札から解き放たれた純魔力が具現化し、彼女の腕の先に“剣”として現れた。
赤く燃えるその刃が、静かに――魔物の首を断ち切った。
倒れ込む巨体。大地が揺れる。
そして、静寂。
リゼルも、ティナも、ライオも――声を出せずにいた。
エリシアは、制服の皺を軽く整えると、何事もなかったかのように彼らに向き直った。
「……全員、ご無事ですね。よかった」
淡い微笑が、まるで幻のように優しい。
青年たちは、やっと震える声で言葉を紡いだ。
「え、えっと……その……エリシアさんって、もしかして、すごく……」
「ふふっ、そんなことありませんよ。ただの受付嬢です。……皆さん、ここから先は本部の回収班が来ますから、動かずにいてくださいね」
にっこりと微笑む彼女に、三人はうなずくことしかできなかった。
――けれど。
その背後で、魔物の死骸が赤い光に包まれ、跡形もなく消えていく様子を見たとき、ライオはふと気づいた。
“あのオーガを倒した証拠が、残っていない”ことに。
その事実に、エリシアは軽く頬に指を当てて言った。
「……これは、ギルドの規約上“内密”の案件になります。ね? 三人だけの秘密にしておきましょう?」
笑顔のまま、けれど絶対に逆らえない“圧”があった。
ライオたちは何も言えず、ただ黙って頷いた。
こうして、新人三人組は命を拾い、そして“ギルドのもうひとつの顔”をほんの少しだけ垣間見たのだった。
だが、彼らはまだ知らない。
エリシア・フローレスという“存在”が、この国のいくつもの戦火を未然に防ぎ、数えきれない陰謀を“裏から”潰してきたことを――
そして、その日の夜。
ギルド本部の奥、選ばれた者しか入れない《禁書室》の前で、彼女は静かに呟いた。
「……まさか、この時代に“黒の印章”が現れるなんて。面倒なことになりそうですね」
封呪札が赤く光を灯す。
受付嬢は、明日も変わらぬ笑顔で窓口に立つ。
だがその裏で、世界の均衡は、ほんの少しだけ傾き始めていた――。