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第1話 受付嬢は笑顔で秘密を守る

 死を覚悟したのは、あの巨大な影を見た瞬間だった。


 牙を剥いたのは、亜種オーガ――《赤銅の皮膚》を持つBランクの魔物。とてもじゃないが、駆け出し冒険者三人で太刀打ちできる相手ではない。


「く、来るなぁぁぁぁ!」


 剣士のライオは震える手で剣を握り、魔導士志望の少女ティナは呪文を途中で噛み、盾役のリゼルはすでに脚を負傷していた。


 逃げ道は、ない。

 叫びは、届かない。

 生き延びる術も――なかった。


 ――あの声が聞こえるまでは。


「……ご案内、遅れて申し訳ありません」


 淡い紅光が空間を裂き、そこから現れたのは、見知った顔だった。いや、見知ってはいるが、その光景が現実とはとても思えなかった。


「エ、エリシアさん……!?」


 ティナが声を上げた。彼女にとって、受付嬢は優しくて丁寧で、美しくて、でもちょっと近寄りがたくて――要するに“窓口の人”だった。


 だが、今目の前にいるのはどうだ。


 制服のまま空間転移を果たし、紅の封呪札を宙に浮かべ、魔物の群れを前にして一歩も引かぬその姿。風にたなびく銀髪、微動だにしない足取り、そして――


 微笑。


「こちらでお待ちくださいね。……あまり、目を開けて見ない方がいいかもしれませんよ」


 その声に込められた“確信”が、むしろ恐ろしかった。


 次の瞬間。


 紅の封呪札が風を裂くように飛び、魔物の足元に突き刺さる。


 一枚。二枚。三枚。


 炸裂。


 火と風と雷の三属性が連鎖し、爆炎の花が咲く。《赤銅の皮膚》を誇る亜種オーガすら膝をつき、うめき声を上げる。


 だが、それは終わりではなかった。


 「三番、拘束術式――《紅蓮の輪》」


 エリシアが指を鳴らすと、地面から魔法陣が浮かび上がる。亜種オーガの両足が赤い鎖で地面に縫い付けられ、動きを封じられた。


「……ギルド登録における基準に照らし、魔物等級B《赤銅皮膚種》、無許可接触および街道侵犯による討伐処分を実施します」


 完全に、受付嬢の台詞じゃない。


 誰かが呟こうとしたその瞬間、風が鳴った。


 一閃。


 動いたのは、エリシアの手でも、魔法でもなかった。封呪札から解き放たれた純魔力が具現化し、彼女の腕の先に“剣”として現れた。


 赤く燃えるその刃が、静かに――魔物の首を断ち切った。


 倒れ込む巨体。大地が揺れる。


 そして、静寂。


 リゼルも、ティナも、ライオも――声を出せずにいた。


 エリシアは、制服の皺を軽く整えると、何事もなかったかのように彼らに向き直った。


「……全員、ご無事ですね。よかった」


 淡い微笑が、まるで幻のように優しい。


 青年たちは、やっと震える声で言葉を紡いだ。


「え、えっと……その……エリシアさんって、もしかして、すごく……」


「ふふっ、そんなことありませんよ。ただの受付嬢です。……皆さん、ここから先は本部の回収班が来ますから、動かずにいてくださいね」


 にっこりと微笑む彼女に、三人はうなずくことしかできなかった。


 ――けれど。


 その背後で、魔物の死骸が赤い光に包まれ、跡形もなく消えていく様子を見たとき、ライオはふと気づいた。


 “あのオーガを倒した証拠が、残っていない”ことに。


 その事実に、エリシアは軽く頬に指を当てて言った。


「……これは、ギルドの規約上“内密”の案件になります。ね? 三人だけの秘密にしておきましょう?」


 笑顔のまま、けれど絶対に逆らえない“圧”があった。

 ライオたちは何も言えず、ただ黙って頷いた。


 こうして、新人三人組は命を拾い、そして“ギルドのもうひとつの顔”をほんの少しだけ垣間見たのだった。


 だが、彼らはまだ知らない。


 エリシア・フローレスという“存在”が、この国のいくつもの戦火を未然に防ぎ、数えきれない陰謀を“裏から”潰してきたことを――


 そして、その日の夜。


 ギルド本部の奥、選ばれた者しか入れない《禁書室》の前で、彼女は静かに呟いた。


「……まさか、この時代に“黒の印章”が現れるなんて。面倒なことになりそうですね」


 封呪札が赤く光を灯す。


 受付嬢は、明日も変わらぬ笑顔で窓口に立つ。


 だがその裏で、世界の均衡は、ほんの少しだけ傾き始めていた――。

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