クラブの合宿での、三日目の真夜中のことだった。部員とコーチは公営の宿泊施設に泊まっていた。寝付けなかった安達英子は誰もいない小さなラウンジと受付を通りぬけ、玄関の重いガラスのドアを押して開けた。他の部員は昼間の稽古の疲れでぐっすり眠っているようで、英子が外に出たことに気づくものはいなかった。
真夏の八月にしては、心地よい風がそよそよと吹いている。昼間の暑さが嘘のようだった。高く上がった満月の明かりであたりの様子がわかる。
英子はどこか行くあてがあって外に出たわけではない。少し考え事をしたかっただけだ。このクラブ、「鈴之森総合格闘技クラブ」での活動を続けるべきか辞めるべきかを迷っていた。
「総合格闘技クラブ」という物々しい部名は、もともと部員数が減少した柔道部と空手部を統合した際につけられたものだ。しかも今年からは鈴之森高校での部活動の廃止により、「鈴之森」の名前を追加して地域のスポーツクラブとして活動を続けていた。
普段は柔道と空手を日替わりで稽古している。英子が得意なレスリングの稽古は、月に二回ほど外部から専門のコーチが呼ばれたときだけだった。
レスリングで全国大会を目指していたころの情熱はもうない。だがクラブをやめたとして、自分はどこへ行けばよいのだろう。何をすればよいのだろう。子供のころから通っていたレスリングの道場にはもう戻れない。総合格闘技と聞いて顔をしかめた師匠の顔を思い出す。
だが毎日授業を受けるためだけに高校に通う自分をイメージできない。
宿泊施設の隣の敷地は公園だった。芝生の広場があり、朝食前のジョギングの集合場所にしている。英子はまとまらない考えを行きつ戻りつさせながら、たしか公園の奥にベンチがあったはずだ、と思い出しながら芝生の上を歩いた。
並木の陰にベンチが見えたとき、英子はぎくりとして立ち止まった。子供が一人、ベンチに座っている。こんな人里離れた真夜中の公園に子供が一人でいるなんてありえない。背中にゾクリと冷たいものが走った。
子供は英子の気配に気が付いたのだろうか、うつむいていた顔を上げた。英子は知った顔であることに気が付いてほっとした。近づいて声をかけた。「弘樹、ここで何しているの?」