――音が、ない。
夕暮れの高速道路。車内のラジオがいつの間にか沈黙し、イヤホン越しの音楽もふいにノイズだけを吐き出して止まった。
「……電波、死んだ?」
助手席の女子大生、九重アイが眉をひそめ、スマホを見下ろす。圏外。再起動しても変わらない。
「なあ綴、ほんとにこんな山奥に村があるのか? 地図にも載ってねえぞ」
後部座席で足を投げ出しているのは、弟の九重 蓮。チャラい雰囲気にイヤホン片耳、いつもの調子で話しかけてくるが、アイは視線を外したまま、答えない。
「今の独り言は、ちゃんと人間相手だよ?」
「うるさい」
ひとことだけ冷たく返す。蓮は大げさに肩をすくめると、また独り言のように話し始めた。
運転席の男――九重 綴は、二人のやり取りを黙って聞いていた。
いや、正確には“聴いていない”。
彼には、音は届かない。ただ、視線と空気の動きだけで充分だった。
綴には、生まれつき音が届かない。
医者には「異常なし」と言われた。彼の世界には、“音”だけがなかった。静寂ではない。ただ、すべての音が、彼を避けるように存在していなかった
視えてしまう代わりに、聴くことを許されなかった――それが、彼の“生まれ”だった。
それでも彼は、会話をする。
相手の唇の動き、表情、喉の振動――すべてを“視る”ことで、言葉の意味を読み取ってきた。
そして、自分の発声は、幼い頃からの訓練で身につけた。
音を知らぬまま、発音だけを真似して積み上げた“視覚の会話術”。
「到着まであと15分くらいだ」
彼の口元が僅かに動き、低く抑えられた声が発された。
抑揚はほとんどなく、どこか無機質。音を知らず、発声を“視覚”で学んだ綴の声は、まるで機械の読み上げのように一定だった。
だが、蓮もアイも、その話し方に慣れていた。
蓮は兄の“口の動き”と“発する気配”を自然に読み取っていたし、アイは声の奥にある“無音の言葉”を感じ取れる。
「お、マジか。じゃあもうすぐかー」
蓮は窓の外を見ながら軽く返す。まるで“普通の会話”のように。
三人の会話は、常とは違うかたちだった。
けれどそこに迷いはなく、互いの言葉は正確に届いていた。
アイは彼の横顔を見て、小さく頷いた。
***
九重家の三兄妹には、それぞれ“奇妙な力”があった。
長男・綴(つづる)――《見猿(みざる)》
視える。常人には捉えられない“存在”の姿が、はっきりと目に映る。その代償として、彼の耳は、生まれたときから音を閉ざされていた。
視るだけで、聞けない。だからこそ、真実に最も近く、最も孤独な“目”。
長女・アイ――《聞猿(きかざる)》
聴こえる。音ではなく、“心の音”や“声なき言葉”を感じ取る。感情や怨念すら、耳を通して流れ込んでくる。
だからこそ、聴こえないふりを覚えた。無表情に、静かに。自分を守るために。
次男・蓮(れん)――《言猿(いわざる)》
語れる。彼の声は、時に死者に届き、命なきものにまで届く“鍵”となる。けれどそれは、呪いもまた呼び込む扉。
だからこそ、蓮は笑って喋り続ける。本当の意図を濁すため、誰かと話している“ふり”をして。
三人は、互いの異常を隠さず、特別とも思わず、ただ「それが自分たち」であるように生きてきた。
そんな三人が依頼を受けるときに使う名がある。
――《三忌(さんき)》。
日光東照宮の“三猿”を逆手に取った呼び名だ。
「見ざる」「聞かざる」「言わざる」――本来は“悪事を見聞きせず、語らず”の戒め。
だが、彼らはその逆を行く。
視てしまう者。聴いてしまう者。語ってしまう者。
その三つの“忌み”を抱えた者たち。だから《三忌》。
名乗れば笑われることもある。だが、それでも構わなかった。
三人は、笑われるより、知られぬまま壊れることのほうが怖かった。
車内で沈黙が続いたあと、ぽつりと蓮が言った。
「……なあ姉ちゃん、また“三忌”って名乗ったのか?」
綴がミラー越しに、眉をひそめる。
「だって他にないじゃない。私たち、視えて、聴こえて、語れる。三猿の逆よ。“忌むべき力”を持った兄妹って意味で」
アイが淡々と答えると、蓮は笑いながら肩をすくめた。
「でもさ、逆手にとるって案外いいでしょ。“見ざる聞かざる言わざる”じゃ、何も助けられない。だから俺たちは“視る聴く語る”。――ちゃんと向き合って、終わらせるんだよ」
そう言って、蓮はイヤホンを耳に差し込んだ。
そのイヤホンは、アイとお揃いのものだった。数年前、両親が「二人で支え合っていけ」と渡してくれた記念の品だ。
左耳だけに差して“誰かと通話中のフリ”をするのが蓮のやり方。
一方、アイは両耳を塞ぎ、外の音を遮断するように装着する。聴こえる“死者の聲”を拒むためだ。
同じイヤホンでも、二人はまったく違う理由でそれを使っていた。
けれど、それが“音の届かない兄”と“聲に悩まされる妹弟”を、互いに補い合う存在として繋いでいた。
それが、三人にとっての、静かな絆のかたちだった。
それぞれの力は、“呪い”であり、“救い”でもある。
それを選んだのは、他でもない自分たちなのだから。
***
今回の目的地は――地図に載らぬ村。
久呂見村(くろみむら)――“黒くて視てはならないもの”を、ひそかに包み隠すような名。
依頼主は、綴の勤める出版社が立ち上げた地方文化特集企画だった。
テーマは『地図に載らない神域』。古文書に記されたまま忘れられていた祠――「封火祠(ふうかし)」の存在が、現地の郷土誌を通じて再発見され、記事の中核素材として現地取材が決まったのだ。
「今回も“出版社ルート”か」
アイがスマホを見ながらぼそっと言う。
綴は運転中の手元でうなずいた。
「ああ、地方文化特集の依頼。表向きはな。……けど、提出された資料の中に“何か変な痕跡”があった」
「記録が途切れてて、誰も語りたがらない場所……ってこと?」
「そう。話を濁してるわりに、誰かが“そこに何かいた”形跡だけ残してる。そういうの、前にもあったろ」
「……ああ、“あいつら”か」
それが、綴にとっての「嗅覚」だった。
表の仕事のふりをして、“裏”の異常に踏み込む。それが三忌のやり方。
「どうせろくに保存もされてねえ祠だろ? 写真撮って終わりでよくね?」
蓮が軽く口を開いた。
「……そのはずだったんだけど、ね」
アイがスマホを見下ろしながら、声を低くする。
「出発直前に、村からこんな一報が届いたの。『封火祠、崩れかけている。今のうちに記録すべし』って。差出人の名前もないわ」
本来なら、そこまで深く踏み込む予定じゃなかった。
「へぇ……ヤバそう。こりゃ、燃えてくるなあ」
綴は運転席で、ふっと息を吐いた。視線は変わらず前方を見据えたまま、口の動きだけで言う。
「……本来なら俺ひとりで行く予定だった。でも、気になったんだ。“封火祠(ふうかし)には、音と名を封じる術式がある”って書かれてた」
「音と名……」とアイが小さく繰り返す。
「見るだけじゃ足りない。聴く奴と、話す奴が必要だ。だから、お前たちを連れてきた」
「俺たちを“呪いの三点セット”みたいに言うなよ、兄貴」
蓮は苦笑しながらイヤホンを耳にかけ、軽く肩をすくめた。
「……ま、行くだけならいいさ。どうせまた、何かに巻き込まれるんだろ?」
「だからこそ、三人で行く」
綴は視線を前方に向けたまま、口の動きで告げた。
「気を引き締めろ。あの祠は“触れたら終わり”って噂がある」
アイの耳に、微かに風の音が入った。山を越える、重い音。嫌な感覚がする。
久呂見村――そこは、“何か”を封じた村だった。