久呂見村へ続く道は一本きり。
山奥の旧道を抜け、鬱蒼とした林を抜けると、突然、視界が開けた。
「これ……村?」
蓮が、いつものように片耳に差していたイヤホンを外し、視線を上げる。
谷に沿って並ぶ家々。けれどどこか、風景が“古すぎる”。電柱も少なく、瓦屋根の古民家ばかりだ。
村人の姿も見える。だが、こちらに気づいても、誰一人、挨拶を返さない。
ひそひそと聲が動く。だが聞き取れない。
視線だけが、こちらを刺すように追っていた。
「歓迎されてねぇのは、ひしひし伝わってくるな」
綴が言いながら、手に持った地図を丸める。
「“祠の崩落調査”って、名目のはずだったけど……この空気、普通じゃないわね」
アイは小声で呟いた。耳を澄ますと、遠くから、何かの“音”が聞こえてくる。風鈴のようで、喉を鳴らすようで、言葉のような、違うような。
胸がざわつく。耳の奥に、小さな針のような痛みが走る――あの感覚。“死者の聲”が動いている。
「とりあえず、宿ってる古民家に荷物置いてから、祠だな」
綴が言い、3人は指定された“来訪者用の家屋”へ向かう。
誰が用意したのかは分からない。だが、鍵は開いていた。
「……歓迎されてない割には、準備いいじゃん」
蓮が皮肉っぽく笑う。
「逆よ。こういうのがいちばん気持ち悪いの」
アイは眉をひそめた。
「来ることは“知ってた”。でも、“歓迎する気はない”――そういうことよ」
古びた家に入る直前、蓮はふと空を見上げてつぶやいた。
「なあ姉ちゃん……俺たちってさ、ほんとに普通じゃねーよな。俺なんか最近さ、自分の声が、自分のじゃない気がすることがあるんだ」
「……またそれ?」
「いやマジでさ。声って、気づかないうちに何か“混じる”んだよ。知らねー言葉が口から出る。録音にも残らない。怖えよ……」
アイは視線をそらしながら、静かに答えた。
「私もよ。耳、痛くてたまらない。……感情だけの声、毎日、頭の中に流れ込んでくる。怨嗟、妄執、愛、嘆き……まるで“聲じゃない聲”」
二人の表情と空気の揺らぎを“読み取って”、綴は小さく息を吐く。
兄妹三人に流れるこの“呪いのような力”――それは偶然ではない。
彼らの母方の祖母は、東北の山奥に生まれ育った「盲目の口寄せ(イタコ)」だった。 すでに亡くなって久しいが、三人が幼い頃にこう言い残していたという。
「この子たちは、“声”に喰われる。気をつけなさい」
綴は祖母の目を覚えている。見えていないはずなのに、彼の顔をまっすぐに見つめ、声なき何かを言い当ててくる、あの人を。
そして今、彼らの力は“ここ”で呼び起こされた。血に刻まれた力が――村の“何か”に共鳴している。
「……そういやさ」
蓮がぼそっとつぶやいた。
「俺たちの力って、ばあちゃん譲りなんだろ?親は普通だもんな」
アイが頷く。
「うん。何も視えないし、聴こえない。たぶん、遺伝的には“隔世”なんだと思う」
「でも普通の人だからこそ、俺たちの異常にはずっと困ってたよな」
綴は答えず、窓の外を見ていた。
子供の頃、両親が“どこにも相談できずに黙っていた”ことを、彼は知っていた。
(だからこそ、俺たちは“自分の力は自分で制御する”って、いつの間にか決めてたのかもしれない)
***
夕刻。
村の中心――山肌に食い込むように建てられた、小さな祠。
木々に覆われた坂道を登ると、急に空気が変わった。
鳥の声が止んでいた。
風も吹いていないのに、木々の葉がわずかに震えていた。
耳の奥で、何かが囁くような錯覚――その気配に、アイは足を止めた。
名は《封火祠(ふうかし)》。
かつて山火事を鎮めた“神”を祀る場所とされていたが、その佇まいはどこか“祀っている”というより、“封じている”という印象を与えた。
祠の脇には、苔むした小さな石板が立っていた。
綴が目を細め、指でなぞるように文字を追う。
「『名は、火にくべて、忘れること』……?」
「七歳の子が、“名を捨てる儀式”をやるってことかしら」
アイの声に、蓮が肩をすくめる。
「物騒な儀式だな……。名前を捨てるなんて、正気かよ」
石段は苔に覆われ、ところどころ欠けていた。
屋根は歪み、瓦が崩れている。
それでも、空間そのものが「ここに近づくな」と言っているかのような、目に見えぬ圧力があった。
「……気持ち悪い」
アイが足を止め、耳を押さえた。
空気が、どこか“裂けている”。音でも風でもなく、見えない何かが軋んでいた。
聴覚ではなく、心の内側が擦れるような音――いや、“聲”。
「ここが崩れたって通達だったんだよな」
綴が祠を見上げる。
彼の目には、見えてはいけない“何か”が、一瞬揺れた気がした。
無言で蓮が近づく。
「中、見ていいの? あ、鍵かかってないじゃん」
蓮が悪びれずに石扉に手をかける。
「ちょっと待っ――」
アイが制止するより早く、蓮が扉を押す。
祠の扉が開いた瞬間、遠くにいた村人たちが、一斉にこちらを向いた。まるで、同じ合図を受けたかのように。
無表情のまま、音もなく。
次の瞬間には、また何事もなかったように背を向けていた。
それと同時に――村全体が、震えた。
空気の“音”が、弾けたようにアイの耳を打つ。
**ぴぃぃぃぃ――――**ッという耳鳴りが響き、アイの視界が白く染まった。
綴の瞳が、異様な揺らぎを捉える。
祠の奥――朽ちた石室の中央に、人形のようなものが見えた。
顔のない、布を巻いた小さな木偶(でく)。
それが――綴を見ていた。
「おい、あれ……」
綴が言うのと同時に、背後から蓮の声が届いた。
「ねえ……今、中で誰かが、しゃべってたよね?」
蓮の顔は、冗談ではなかった。
だが、それは“誰かが話した”のではない。蓮自身が話した言葉だった。
「……嘘、だろ」
蓮の口元が、勝手に動いていた。
喋っていないのに、“誰か”の言葉を――いや、“名”を、繰り返していた。
「ヒナノ……ヒナノ……ヒナノ……」
空気が反転する。
祠の奥から、圧し寄せるように“聲なき聲”が噴き出した。
それは名前。呼び声。呼ばれたいのに、呼ばれなかった名たち。
それらが一気に解き放たれ、村全体に広がった。
アイの耳には、村人の叫びが届かない。
代わりに、子供の泣き声が押し寄せてくる。
綴の目には、村のあちこちに現れはじめた“白い影”が映る。
蓮の口元は、まだ止まらない。
そして、遠くからサイレンのような音が、聞こえた。
その夜。
3人は、村の外に出られなくなった。
携帯は圏外、GPSも狂い、山道も霧に覆われ、声すら遮断される。
まるで、“何か”が三人を閉じ込めたかのように――
夜は明けなかった。
時計は動いているのに、空の色が変わらない。朝を告げる鳥の声も、光の兆しも、どこにもなかった。
“日付の概念”すら、村の外に置いてきたかのようだった。
3人は来訪者用の古民家に身を寄せ、交代で眠ることにした。
何が起きているのか、わからない。
だが、ひとつだけ確かなことがあった。
――封火祠の封印は、壊れた。