風がないのに、障子が鳴った。
夜の久呂見村は、音を吞み込んだまま沈黙していた。月は雲に覆われ、あたりはまるで「時間ごと凍りついた」かのように動きを止めていた。
しかし――夜は終わらなかった。
空が白むことはなく、朝の気配はどこにもなかった。時計の針は進むのに、空だけが黒く、夜だけが続いていた。
寝具を抜け出したアイは、障子を少し開けて外を覗く。
――誰もいない。
はずなのに、耳の奥には確かに“聲”が響いていた。擦れた紙を破くような、小さな囁き。名前とも呼べぬ断片が、意識の縁を這うように侵入してくる。
「……また来てる」
アイはペンダントをぎゅっと握った。鼓動が、胸の内側から乱れる。
「……おかあさん……おかあさん……」
小さな子供の聲。甘えではない。
哀しみと怨みが、渇いた喉から滲み出るような――呼びかけ。
耳を押さえても止まらない。“音”ではない。“心の音”――それが、アイの意識に食い込んでくる。
呼びかけてくる“何か”がいる。
けれど、それが“誰”なのか――いや、“何”なのかさえ、わからなかった。
この村では、“夜”は静寂ではなかった。
聲にならない何かが、夜に巣食っていた。
***
一方その頃、蓮は別の異常に気づいていた。
「……え? 俺、これ……打ったっけ?」
敷きっぱなしの布団の上でスマホを手にしていた蓮は、眉をひそめる。SNSアプリの「下書き」欄には、見覚えのない文が残っていた。
『たすけて なまえをかえして』
投稿された時間は数分前。だが、蓮はスマホを触っていない。音声入力が作動していた痕跡だけが残っていた。
「いやいや、マジでやってねーって」
笑って誤魔化そうとした瞬間、インカメラが勝手に起動した。
そこに映る“自分”が、笑っていた。
――蓮自身は笑っていなかった。
画面の中の“自分”が、勝手に口を開き、動かし、こう呟いた。
「なまえ……かえして」
ゾクリと背筋が凍る。蓮は、スマホを手から放った。
***
その頃、綴は古民家を出て、村の外れに続く山道を歩いていた。
本来は交代で宿を見張るはずだったが、彼はあえて離れた。
気になる“揺らぎ”が、外から近づいてくる気がしたのだ。
村の端――通行禁止の吊り橋の前に立つ。
風もないのに、木の板が微かに軋む。
その上を、誰かが歩いていた。
いや、正確には、“何か”が歩いていた。
白装束の子供たち。
ひとり、またひとりと、音もなく橋を渡る。その姿は“人間”というにはあまりに淡く、目だけが異様な光を放っていた。
――見たならば、背負え。
綴は無言で睨み返す。だが、その“視線”に込められた怨嗟は、彼の目にすら焼き付くようだった。
封火祠で起きた異常は、すでに村の結界を越えて広がりつつある。
だからこそ、綴は確かめに来たのだ――“出口”が、まだあるのかどうかを。
***
いつの間にか、時計の針は午前七時を指していた。
けれど空は、まだ夜のままだ。
まるで“朝”という現象だけが、世界から抜け落ちたかのように。
それでも、時間は進んでいる。
腹が減り、喉が渇き、体は確かに「目覚め」を求めているのに――
光だけが、来ない。
アイは布団から体を起こし、居間へと向かうと、すでに綴と蓮が身支度を終えていた。
「少し、村の様子を見に行こう」
綴の短い言葉に、ふたりは黙ってうなずいた。
古民家の戸を開けると、相変わらず夜のままの空が広がっていた。
道には誰の姿もない。だが、風だけが静かに吹いていた。
小道を抜け、村の中央にある小さな掲示板に差しかかる。
その表面に、一枚の紙が貼られていた。
【注意】
・名前を問われても、答えないこと
・夜の外出は厳禁
・祠には近づくな
三人はその前で立ち止まり、紙を見つめた。
「……誰が書いたの? これ」
アイが思わず呟く。
「人じゃない。けど、“伝えようとした存在”がいる」
綴が紙に目を凝らしながら、答えた。
通りの先から、ぽつぽつと村人の姿が見え始めた。
だが、不思議なことに――彼らは誰ひとり、この紙に目を留めない。
まるで紙がそこに“存在していない”かのように、虚ろな目で前を通り過ぎていく。
こちらが話しかけても、返ってくるのは「ああ……」という、生気のない反応だけ。
まるで――“言葉”そのものが、村から抜け落ちているかのようだった。
そのとき、背後から――石がずれるような、きしむような音が響いた。
綴が反応する。
「……祠だ」
綴の低い声に導かれ、三人は掲示板のすぐ裏手――山肌に張りつくように建てられた封火祠へと駆け寄った。
そして目にしたのは――石畳が、ゆっくりと、音を立ててずれていく光景だった。
その下に見えたのは、“人形”たち。
ぼろぼろの布で巻かれた木偶人形。顔はない。
その胴体には、墨で書かれた名前のようなものが刻まれている。
だが、そのほとんどは滲み、読めなくなっていた。
そのうちの一体が、アイの方を向いた。
「……あい……」
顔のないはずの“布”の下で、何かが微かに蠢いた。
それは、まるで“口”が動いているようだった。
その瞬間、アイの胸元でペンダントが熱を帯びた。
母から受け継いだそれは、黒く、じわりと染まっていく。
アイはそれを見下ろしながら、幼い頃の記憶を思い出していた。
――これは、家の女だけが持つもの。
「昔から、うちでは“声を守る”って言ってね。言葉や名前が乱れる場所では、これが助けになると伝えられているの」
母がそう言って、何気ないようにアイに渡してくれたもの。
お守りのようでいて、根拠も意味もわからなかった。ただの言い伝え。
けれど今、確かに反応している。
「……“名”を刻まれたな」
綴が低く呟いた
アイはペンダントを見つめながら、息を呑む。
村の空気が、名を喰っている。誰かの“呼び声”が、形を持ちはじめている。
蓮が背後で囁いた。
「……これ、もう“戻れない”ってことだよな」
名を失い、聲を忘れ、夜が終わらない。
そして、三人は気づいた。
石畳の下に埋まっていたのは、名前を与えられず、あるいは取り上げられ、誰にも呼ばれなかった存在たち。
封火祠がそれを封じていたのなら――その扉を開いたのは、他でもない、自分たちだ。
「……俺が、あれを開けたから?」
蓮の問いに、アイはすぐに答えられなかった。
だが否定する言葉も、綴の口からは出なかった。
「封印が壊れたとき、結界の歪みが広がりはじめた。……村の連中、見ただろ。“言葉”がなくなってる。名が、抜け落ちてる。……原因は、あの祠だ。なら、壊したのは、俺たちしかいない」
アイが口を開いた。
「……あの聲、“私たちを通して”出てきたの。あんなに必死に、何年も……待ってたのよ。誰かが封を解くのを」
風のない闇夜に、木々が静かに揺れた。
三人は、ようやくはっきりと理解した。
――この異常を引き起こしたのは、自分たち自身だということを。
だがそれは、偶然でも過失でもなかった。
導かれるようにして、三つの行為が重なってしまったのだ。
綴が“視た”。
封じられた祠の奥、名もなき存在の姿を、瞳に刻んだ。その瞬間、封の向こうにいた何かが、“気づいた”。
アイが“聴いた”。
囁き声が、彼女の内面に入り込んだ。心の扉が、わずかに開いた。
そして――蓮が“呼んだ”。
無意識に、その聲を受け入れ、言葉としてこの世界に“呼び戻した”。
その瞬間、封火祠は完全に開いたのだ。
祠が壊れたのではない。
封じられた“聲”の方が、自らの意志で“開かせた”のだ。
この村は、夜のまま。
声を失い、名を失い、記憶を失っていく。
けれど、まだ終わってはいない。
終わらせなければならない。
封じられた“聲”に、もう一度――名前を。
そのためには――誰の声を、誰が、呼び戻すのか。