久呂見村の空は、まだ風が吹かない。
息をひそめるように沈む闇の中で、“聲なき声”が広がり始めていた。
祠の封印が揺らいでから、まだ一日も経っていない。
けれど村の空気は、すでに“何か”に支配され始めていた。
子供たちは笑わなくなった。
大人たちは、名を呼ばなくなった。
「お前……誰だったっけ?」
それは冗談ではない。けれど、誰も本気で気にしていない風に、それを口にする。
三忌の三人だけが、確実に“それ”を感じ取っていた。
***
「……これ、聞こえる?」
アイは、綴と蓮を前にして、小さなICレコーダーを差し出した。
前夜、寝室の窓辺で自動録音されていた“音”。
再生ボタンを押すと、ノイズ混じりの聲が、無機質な機械音に乗って流れた。
> 「かえして……かえして……ぼくの、なまえ……」
その聲は途切れることなく、同じ言葉を延々と繰り返していた。
耳で聴くというより、“脳の奥”に直接こすれるような感覚。
じわじわと頭に圧がかかり、奥から鈍痛が這い出してくる。
「……あたしの能力でも、これは聞いちゃダメなやつよ」
アイは額を押さえながら、わずかに震えた声で言った。
「音じゃないの。これは、“記憶の叫び”。……頭の奥がきしむの。“聞こえる”というより、思い出させられる感覚。誰かの記憶が、私の中で暴れてる」
***
「なあ、ちょっと前から俺の口、勝手に動くんだけどさ……」
蓮はイヤホンを外しながら、顔をしかめた。
「言ってること、自分じゃ止められない。喉の奥が勝手に震えるんだ。言いたくもないのに、言葉が出てくる。俺の声なのに、俺じゃないんだよ」
「内容は?」
「……子供の名前。古いのばっか。さっきは“しの”って言ってた」
綴は、黙ったまま視線を落とす。
――それは、さっき、祠で見た“何か”と繋がっていた。
綴の脳裏に、あのとき触れた壁の感触と、目の前に広がった光景が、鮮明に甦る。
――視えたのは、祠に封じられた“過去”だった。
布に包まれた、動かぬ赤子。
泣かない。動かない。
産婆が震える手で抱き上げ、血に濡れた母親らしき人物が腕をのばして泣き崩れる。
聲にならない言葉が、喉の奥で震えていた。
――名前を、呼ぼうとしていた。
けれどその声は、誰にも届かず。
赤子は白布に包まれたまま、黙って祠へと運ばれていく。
生まれた命としてではなく、ただの“何か”として。
(この村では、“いなかったこと”にするために、名を与えられなかった)
綴の胸に、重く深い痛みが走った。
***
「……視たの?」
アイが小さく尋ねる。
綴は、黙ってうなずいた。
その瞬間、アイの耳にも何かが届いた。
> 「……なまえ つけて ほしかった……」
「よんで ほしかった……」
「わすれないで……」
音ではない。
聲でもない。
それは、想いそのもの――祈りだった。
***
その夜、三人は再び、封火祠へと向かった。
苔むした石段を登ると、山肌に沿って建つ小さな祠の扉が、わずかに開いている。
中は薄暗く、土と苔と、焦げた匂いが混ざる空気。
五角形に削られた床の中央には石の祭壇。
その周囲に、人形――小さな木偶たちが五芒星を描くように並んでいた。
綴が奥の壁を見つめる。
普通の目にはただの岩肌にしか見えないそこに、彼の目は“歪み”を捉えていた。
「……あるな、ここ、扉だ。岩で隠してあるけど……押せば開く」
ごり、と重い音を立てて、岩壁の一部が内側にわずかに傾いた。
押し込んだ瞬間、奥から冷たい風が流れ出した。
***
三人がその先に足を踏み入れると、そこは思いのほか広い天然の石室だった。
天井には煤の跡、壁には古代呪術のような刻印。
天井の高所には、今は塞がれた“煙抜き”の縦穴のようなものもある。
「……ここで、何かを……燃やしてた」
アイが、小さく震える声で言った。
「これは……“祀る”ためじゃない。“消す”ための火だ」
綴は床の灰を見つめ、苦々しく吐き出した。
「……こんな場所があったのね」
「気づかせたんだよ、“あいつら”が」
蓮の声が低く響いた。
綴がさらに踏み込むと、空間の奥から聲がした。
> 「……わたしたちは、御聲様……」
アイは一瞬、息を詰めた。
「いま……“御聲様”って言ったよね?」
「聞こえた。確かに言った」
蓮も頷いた。
> 「でも……ほんとうは……しの、って……おかあさんが……よんだの……」
三人は凍りついたように沈黙した。
アイの耳には、別の聲も届いていた。
> 「さむい」
「こわい」
「うまれてないのに」
「つれていかないで……」
その聲は、怒りではなく、ひたすらに哀しみに満ちていた。
綴は、低く言った。
「あれは……怒りじゃない。ずっと待ってたんだ。“誰かが、自分の名前を呼んでくれること”を――」
三人は、黙って頷いた。
その瞬間、蓮の唇がわずかに開いた――が、彼は何も言わなかった。
“呼ぶ”という行為が、どれだけの意味を持つかを、彼はもう理解していた。
声をかけるのは、今ではない。
名を返すその時まで、まだ――準備が必要だった。
――御声様は、“応えてくれる誰か”を待っていた。
呼ばれるその時を、静かに、ずっと。