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第4話 御聲様が呼んでいる

 久呂見村の空は、まだ風が吹かない。

 息をひそめるように沈む闇の中で、“聲なき声”が広がり始めていた。


 祠の封印が揺らいでから、まだ一日も経っていない。

 けれど村の空気は、すでに“何か”に支配され始めていた。


 子供たちは笑わなくなった。

 大人たちは、名を呼ばなくなった。


 「お前……誰だったっけ?」


 それは冗談ではない。けれど、誰も本気で気にしていない風に、それを口にする。


 三忌の三人だけが、確実に“それ”を感じ取っていた。



***



 「……これ、聞こえる?」



 アイは、綴と蓮を前にして、小さなICレコーダーを差し出した。

 前夜、寝室の窓辺で自動録音されていた“音”。


 再生ボタンを押すと、ノイズ混じりの聲が、無機質な機械音に乗って流れた。


 > 「かえして……かえして……ぼくの、なまえ……」


 その聲は途切れることなく、同じ言葉を延々と繰り返していた。

 耳で聴くというより、“脳の奥”に直接こすれるような感覚。

 じわじわと頭に圧がかかり、奥から鈍痛が這い出してくる。


 「……あたしの能力でも、これは聞いちゃダメなやつよ」


 アイは額を押さえながら、わずかに震えた声で言った。


 「音じゃないの。これは、“記憶の叫び”。……頭の奥がきしむの。“聞こえる”というより、思い出させられる感覚。誰かの記憶が、私の中で暴れてる」



***



 「なあ、ちょっと前から俺の口、勝手に動くんだけどさ……」


 蓮はイヤホンを外しながら、顔をしかめた。


 「言ってること、自分じゃ止められない。喉の奥が勝手に震えるんだ。言いたくもないのに、言葉が出てくる。俺の声なのに、俺じゃないんだよ」


 「内容は?」


 「……子供の名前。古いのばっか。さっきは“しの”って言ってた」


 綴は、黙ったまま視線を落とす。

 ――それは、さっき、祠で見た“何か”と繋がっていた。


 綴の脳裏に、あのとき触れた壁の感触と、目の前に広がった光景が、鮮明に甦る。

 ――視えたのは、祠に封じられた“過去”だった。


 布に包まれた、動かぬ赤子。

 泣かない。動かない。

 産婆が震える手で抱き上げ、血に濡れた母親らしき人物が腕をのばして泣き崩れる。

 聲にならない言葉が、喉の奥で震えていた。


 ――名前を、呼ぼうとしていた。


 けれどその声は、誰にも届かず。

 赤子は白布に包まれたまま、黙って祠へと運ばれていく。

 生まれた命としてではなく、ただの“何か”として。


 (この村では、“いなかったこと”にするために、名を与えられなかった)


 綴の胸に、重く深い痛みが走った。



***



 「……視たの?」


 アイが小さく尋ねる。


 綴は、黙ってうなずいた。


 その瞬間、アイの耳にも何かが届いた。


 > 「……なまえ つけて ほしかった……」

  「よんで ほしかった……」

 「わすれないで……」



 音ではない。

 聲でもない。

 それは、想いそのもの――祈りだった。




***




 その夜、三人は再び、封火祠へと向かった。

 苔むした石段を登ると、山肌に沿って建つ小さな祠の扉が、わずかに開いている。


 中は薄暗く、土と苔と、焦げた匂いが混ざる空気。

 五角形に削られた床の中央には石の祭壇。

 その周囲に、人形――小さな木偶たちが五芒星を描くように並んでいた。


 綴が奥の壁を見つめる。

 普通の目にはただの岩肌にしか見えないそこに、彼の目は“歪み”を捉えていた。


 「……あるな、ここ、扉だ。岩で隠してあるけど……押せば開く」


 ごり、と重い音を立てて、岩壁の一部が内側にわずかに傾いた。

 押し込んだ瞬間、奥から冷たい風が流れ出した。



***



 三人がその先に足を踏み入れると、そこは思いのほか広い天然の石室だった。

 天井には煤の跡、壁には古代呪術のような刻印。

 天井の高所には、今は塞がれた“煙抜き”の縦穴のようなものもある。


 「……ここで、何かを……燃やしてた」


 アイが、小さく震える声で言った。


 「これは……“祀る”ためじゃない。“消す”ための火だ」


 綴は床の灰を見つめ、苦々しく吐き出した。


 「……こんな場所があったのね」


 「気づかせたんだよ、“あいつら”が」


 蓮の声が低く響いた。


 綴がさらに踏み込むと、空間の奥から聲がした。


 > 「……わたしたちは、御聲様……」


 アイは一瞬、息を詰めた。


 「いま……“御聲様”って言ったよね?」


 「聞こえた。確かに言った」

 蓮も頷いた。


 > 「でも……ほんとうは……しの、って……おかあさんが……よんだの……」


 三人は凍りついたように沈黙した。

 アイの耳には、別の聲も届いていた。


>   「さむい」

  「こわい」

 「うまれてないのに」

「つれていかないで……」


 その聲は、怒りではなく、ひたすらに哀しみに満ちていた。


 綴は、低く言った。


 「あれは……怒りじゃない。ずっと待ってたんだ。“誰かが、自分の名前を呼んでくれること”を――」


 三人は、黙って頷いた。


 その瞬間、蓮の唇がわずかに開いた――が、彼は何も言わなかった。

 “呼ぶ”という行為が、どれだけの意味を持つかを、彼はもう理解していた。


 声をかけるのは、今ではない。

 名を返すその時まで、まだ――準備が必要だった。


 ――御声様は、“応えてくれる誰か”を待っていた。

 呼ばれるその時を、静かに、ずっと。


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