村の空に、黒い聲が降っていた。
風も雨もなく、ただ“聲”だけが満ちている。
御聲様――
かつて「名も、聲も持たずに祠に捧げられた子供たち」の祟りが、解放された今。
久呂見村は聲の渦に沈みつつあった。
日が経つほどに、村人たちの口数は減った。
最初は誰も気づかなかった。だが、とうとう誰もが「名前」を呼ばれなくなった。
互いの顔を見ても、「誰だっけ」という表情になる。
それでも村は崩壊しない。ただ、“言葉”を失っていく。
祟りは、静かに、人のかたちを奪っていく。
けれどその奥底には、名を呼ばれたい祈りが、まだ微かに灯っていた。
誰にも呼ばれなかった名。
誰にも届かなかった聲。
御聲様たちは、今もなお「呼んでほしい」と、この世にとどまり続けていた。
***
綴が“視た”異様な歪み。アイが聴き取った名もなき囁き。蓮が受け止めた重さ。
それは怒りや怨念ではなかった。
積み重なった苦しみの果てに、それでもなお誰かに届くことを願う、微かな祈りだった。
――すべてが、ようやく繋がった。
封じられていた想いは、呼ばれるその時を待っている。
いまなら、名を返す儀式を始められる。
***
祠の前に、九重三兄妹が立っていた。
綴が祠の石段に腰を下ろし、アイがそっと目を閉じ、蓮は両手をポケットに突っ込んだまま、空を見ている。
蓮がぽつりとつぶやく。
「……やれるの?」
アイが短く返す。
「やらなきゃ、村が終わる」
名を返す儀式ーー
それは、御聲様たちの“名”をひとつずつ思い出し、呼び、聲を届けることで、彼らを「この世界にいた」と証明する行為。
だがそのためには、封印の三要素――“視る”“聴く”“語る”の三つが完全に揃い、ひとつの意志で作用しなければならない。
「これで終わらせる」
綴は、地面を見つめながら言った。
「昨夜、祠の周りに五つの“印”が浮かんでた。見えるのは……多分、俺だけだろうな」
「“印”?」
アイが眉をひそめる。
「結び目だ。術式の支柱みたいなもの。あれが“完全に解ける”前に――俺たちの手で“結び直す”ことができれば……まだ、終わってない」
「つまり、兄さんの目で“印”の場所を特定して、あたしが声を拾って、蓮が言葉にするってわけ?」
蓮が肩をすくめ、乾いた笑みを浮かべる。
「手間かかるな……けど、やるしかないか」
綴は静かに頷いた。
「“視る・聴く・語る”の三つで、もう一度……この子たちの“存在”を、世界に繋ぎ直すんだ。久呂見村に、もうこんな祠は要らない。だがその前に――」
彼が手を伸ばす。
目の前に現れた、ひとりの“子供の影”。
見えないはずのそれを、彼は“視て”、目を細めた。
「……しの、で合ってるか?」
その声に応えるように、風が吹いた。
アイが両手を胸に当て、耳を澄ます。
声なき声が、心の奥を通り抜けていく。
その一つ一つが、かすれた“名”だった。
蓮が、静かに言葉を口にする。
「名前って、そんなに簡単に消えねえよな」
「……だから、呼ぼう」
彼の聲は、風のように静かで、どこまでも届いていく。
「しの。たける。ひふみ。あおい……」
それは、まるで祈りのような連なり。
呼ばれた名前の中には、きっと――生まれた時に名を持たなかった子たちも、いたのだろう。
けれど今、三人がその名を呼んだ時。
その名は、初めて、この世界に刻まれた。
それは、名前を贈ることではない。
その存在に、言葉という光を灯すことだった。
三人の力が揃い、“視る・聴く・語る”がひとつになるとき、祠の奥から淡い光が立ちのぼった。
光の中から、いくつもの小さな影が歩き出す。
顔はない。聲もない。
だが――その“気配”だけが、確かにそこにあった。
アイが言う。
「ありがとうって、聞こえた」
綴が頷く。
「目を閉じて、行けって言ってる」
蓮が最後に、そっと手を振る。
「バイバイ。また会おうな。俺ら、忘れねぇよ」
――その瞬間、祠が音もなく崩れ落ちた。
光はすべて消え、風が止んだ。
そして、初めて夜が明けた。
何日も閉ざされていた空に、ようやく朝日が差し込む。
灰色に沈んでいた山の輪郭が、金色の光で縁取られていく。
誰も気づいていなかった。
久呂見村には、あの夜以来ずっと“夜明け”が訪れていなかったことを。
時間は流れても、太陽は昇らず、音も、声も、少しずつ世界から消えていっていた。
でも今、確かに聞こえた。
鳥のさえずり。葉を揺らす風の音。人の息づかい。
世界が、“音”を取り戻していた。
三人は、まばゆい朝日に目を細めながら、どこか名残惜しそうに祠の跡を振り返った。
***
村に戻ると、人々は普通に会話をしていた。
名前を呼び合い、笑い合っていた。
綴は、小さな手帳に静かに文字を記す。
――記録にはなかった。郷土誌にも、口伝にも、痕跡は乏しい。
だが確かに、“聲なき子”の存在はあった。
かつてこの村では、「産声を上げぬ子」は不吉とされ、火で祓うべき祟りとされた。
封火祠はその処置の場だった。神を祀るなど、ただの建前。
村は、己の罪を隠すために――聲と名を、燃やしてきたのだ。
「昨日さ、なんか夢見た気がしてさ……」
それは記憶ではない。“痕跡”だった。
彼らの口元には、いつものように、名前を呼ぶ聲が戻っていた。
封印は解き放たれ、御聲様は去った。
だが、その“名”だけは、三人の記憶の中に、永遠に残った。
御聲様は、“消えた”のではなかった。
彼らは、もう“封じられた存在”ではない。
誰にも呼ばれなかった名が、
誰にも知られなかった命が、
三人の聲によって、ようやくこの世界に“刻まれた”のだ。
忘却に埋もれた祟りは、名を呼ばれぬまま彷徨った祈りだった。
供養とは、“消す”ことではなく――その名を、もう一度灯すこと。
あの夜、綴は“視て”、アイは“聴き”、蓮は“語った”。
それは封印を閉じるためではない。
存在を、新しく結び直すためだった。
“祟りの終わり”とは、忘れられた命が、忘れられなくなること。
それだけが、彼らの願いだった。
***
数日後。村を出るための山道を走る車内に、通信電波が戻った。
ニュースでは、「電波障害と地盤崩落の影響で、一時的に孤立状態」と報じられている。
トンネルを抜ける直前、蓮がぽつりと言った。
「なあ、俺たちって、何者なんだろうな」
アイは笑わなかった。けれど、少しだけ穏やかな聲で答えた。
「名前のないものに、名前をつける人」
綴が肩をすくめる。
「……じゃあ“三忌”って名前も、悪くないか」
三人は、そのまま車を走らせながら、新たな旅路へと向かっていく。
それぞれの“聲”と、“記憶”を胸に抱えて。
――そう、これは終わりではない。
次に呼ばれるその日まで。
三忌は今日も、どこかで「救いを求める聲」を探し続ける。
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【完】