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第5話 名を呼ぶ、その時まで

 村の空に、黒い聲が降っていた。

 風も雨もなく、ただ“聲”だけが満ちている。



 御聲様――

 かつて「名も、聲も持たずに祠に捧げられた子供たち」の祟りが、解放された今。

 久呂見村は聲の渦に沈みつつあった。



 日が経つほどに、村人たちの口数は減った。


 最初は誰も気づかなかった。だが、とうとう誰もが「名前」を呼ばれなくなった。

 互いの顔を見ても、「誰だっけ」という表情になる。

 それでも村は崩壊しない。ただ、“言葉”を失っていく。

 祟りは、静かに、人のかたちを奪っていく。

 けれどその奥底には、名を呼ばれたい祈りが、まだ微かに灯っていた。


 誰にも呼ばれなかった名。

 誰にも届かなかった聲。

 御聲様たちは、今もなお「呼んでほしい」と、この世にとどまり続けていた。



***



 綴が“視た”異様な歪み。アイが聴き取った名もなき囁き。蓮が受け止めた重さ。

 それは怒りや怨念ではなかった。

 積み重なった苦しみの果てに、それでもなお誰かに届くことを願う、微かな祈りだった。


 ――すべてが、ようやく繋がった。

 封じられていた想いは、呼ばれるその時を待っている。

 いまなら、名を返す儀式を始められる。



***



 祠の前に、九重三兄妹が立っていた。


 綴が祠の石段に腰を下ろし、アイがそっと目を閉じ、蓮は両手をポケットに突っ込んだまま、空を見ている。


 蓮がぽつりとつぶやく。


 「……やれるの?」


 アイが短く返す。


 「やらなきゃ、村が終わる」


 名を返す儀式ーー


 それは、御聲様たちの“名”をひとつずつ思い出し、呼び、聲を届けることで、彼らを「この世界にいた」と証明する行為。

 だがそのためには、封印の三要素――“視る”“聴く”“語る”の三つが完全に揃い、ひとつの意志で作用しなければならない。


 「これで終わらせる」


 綴は、地面を見つめながら言った。


 「昨夜、祠の周りに五つの“印”が浮かんでた。見えるのは……多分、俺だけだろうな」


 「“印”?」


 アイが眉をひそめる。


 「結び目だ。術式の支柱みたいなもの。あれが“完全に解ける”前に――俺たちの手で“結び直す”ことができれば……まだ、終わってない」


 「つまり、兄さんの目で“印”の場所を特定して、あたしが声を拾って、蓮が言葉にするってわけ?」


 蓮が肩をすくめ、乾いた笑みを浮かべる。


 「手間かかるな……けど、やるしかないか」

 綴は静かに頷いた。


 「“視る・聴く・語る”の三つで、もう一度……この子たちの“存在”を、世界に繋ぎ直すんだ。久呂見村に、もうこんな祠は要らない。だがその前に――」


 彼が手を伸ばす。

 目の前に現れた、ひとりの“子供の影”。


 見えないはずのそれを、彼は“視て”、目を細めた。


 「……しの、で合ってるか?」


 その声に応えるように、風が吹いた。


 アイが両手を胸に当て、耳を澄ます。

 声なき声が、心の奥を通り抜けていく。

 その一つ一つが、かすれた“名”だった。


 蓮が、静かに言葉を口にする。


 「名前って、そんなに簡単に消えねえよな」


 「……だから、呼ぼう」


 彼の聲は、風のように静かで、どこまでも届いていく。


 「しの。たける。ひふみ。あおい……」


 それは、まるで祈りのような連なり。


 呼ばれた名前の中には、きっと――生まれた時に名を持たなかった子たちも、いたのだろう。

 けれど今、三人がその名を呼んだ時。

 その名は、初めて、この世界に刻まれた。


 それは、名前を贈ることではない。

 その存在に、言葉という光を灯すことだった。


 三人の力が揃い、“視る・聴く・語る”がひとつになるとき、祠の奥から淡い光が立ちのぼった。


 光の中から、いくつもの小さな影が歩き出す。

 顔はない。聲もない。


 だが――その“気配”だけが、確かにそこにあった。


 アイが言う。


 「ありがとうって、聞こえた」


 綴が頷く。


 「目を閉じて、行けって言ってる」


 蓮が最後に、そっと手を振る。


 「バイバイ。また会おうな。俺ら、忘れねぇよ」


 ――その瞬間、祠が音もなく崩れ落ちた。


 光はすべて消え、風が止んだ。

 そして、初めて夜が明けた。

 何日も閉ざされていた空に、ようやく朝日が差し込む。

 灰色に沈んでいた山の輪郭が、金色の光で縁取られていく。

 誰も気づいていなかった。


 久呂見村には、あの夜以来ずっと“夜明け”が訪れていなかったことを。

 時間は流れても、太陽は昇らず、音も、声も、少しずつ世界から消えていっていた。


 でも今、確かに聞こえた。

 鳥のさえずり。葉を揺らす風の音。人の息づかい。

 世界が、“音”を取り戻していた。

 三人は、まばゆい朝日に目を細めながら、どこか名残惜しそうに祠の跡を振り返った。



***



 村に戻ると、人々は普通に会話をしていた。

 名前を呼び合い、笑い合っていた。


 綴は、小さな手帳に静かに文字を記す。

 ――記録にはなかった。郷土誌にも、口伝にも、痕跡は乏しい。

 だが確かに、“聲なき子”の存在はあった。


 かつてこの村では、「産声を上げぬ子」は不吉とされ、火で祓うべき祟りとされた。

 封火祠はその処置の場だった。神を祀るなど、ただの建前。

 村は、己の罪を隠すために――聲と名を、燃やしてきたのだ。


 「昨日さ、なんか夢見た気がしてさ……」

 それは記憶ではない。“痕跡”だった。


 彼らの口元には、いつものように、名前を呼ぶ聲が戻っていた。

 封印は解き放たれ、御聲様は去った。

 だが、その“名”だけは、三人の記憶の中に、永遠に残った。


 御聲様は、“消えた”のではなかった。

 彼らは、もう“封じられた存在”ではない。


 誰にも呼ばれなかった名が、

 誰にも知られなかった命が、

 三人の聲によって、ようやくこの世界に“刻まれた”のだ。


 忘却に埋もれた祟りは、名を呼ばれぬまま彷徨った祈りだった。

 供養とは、“消す”ことではなく――その名を、もう一度灯すこと。


 あの夜、綴は“視て”、アイは“聴き”、蓮は“語った”。


 それは封印を閉じるためではない。

 存在を、新しく結び直すためだった。


 “祟りの終わり”とは、忘れられた命が、忘れられなくなること。


 それだけが、彼らの願いだった。



 ***



 数日後。村を出るための山道を走る車内に、通信電波が戻った。

 ニュースでは、「電波障害と地盤崩落の影響で、一時的に孤立状態」と報じられている。


 トンネルを抜ける直前、蓮がぽつりと言った。


 「なあ、俺たちって、何者なんだろうな」


 アイは笑わなかった。けれど、少しだけ穏やかな聲で答えた。


 「名前のないものに、名前をつける人」


 綴が肩をすくめる。


 「……じゃあ“三忌”って名前も、悪くないか」


 三人は、そのまま車を走らせながら、新たな旅路へと向かっていく。

 それぞれの“聲”と、“記憶”を胸に抱えて。


 ――そう、これは終わりではない。

 次に呼ばれるその日まで。


 三忌は今日も、どこかで「救いを求める聲」を探し続ける。




---


【完】


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