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第6話 解き放たれる運命と新たな道





 夜の屋敷でレオナードと密会した翌日。朝を迎えると同時に、アルタリアは自室で落ち着かない時間を過ごしていた。部屋の扉を開けると、廊下に控える兵士が目を向けてくる。領主代行が“警護”と称して配した見張りであり、実質的には彼女の外出を制限する役割を担っている。


 レオナードが言うように「今夜、屋敷から抜け出す」という計画は決して容易ではない。加えて、領主代行は早朝のうちから何かの準備に追われているようで、普段以上に館内の警備が強化されていた。まるで、誰か重要な客を迎えるかのような雰囲気が漂っているのだ。


 ――もしかして、本当に“王家”の要人がやって来るのだろうか。

 既に町に滞在している聖女や第二王子らが、公務としてこの屋敷を訪問する可能性は高い。そんなことになれば、追放された元伯爵令嬢であるアルタリアの存在が公になるのは時間の問題。ならば今こそ、ただ守られているだけではなく、自分の足で立つ覚悟を示さなければ――。


 午前のうちに、領主代行からアルタリアに声がかかる。応接用の広間に案内されると、彼は相変わらず神経質そうな表情で、居丈高に言葉を投げかけてきた。

「アルタリア殿、昨夜は特に問題なかったか? 不審者が屋敷に入った形跡はなかったかね」

「ええ、何も。兵士の方々がしっかり見回ってくださっていたのでしょう」

 当のレオナードがこっそり忍び込んできたなどとは、もちろん口に出せない。アルタリアは澄ました顔で応じると、領主代行はやれやれとばかりに肩をすくめた。

「それは良かった。――実は今日、私のもとに大切な来客がある予定でな。万が一にも騒ぎが起きると困る。君には部屋で大人しくしていてもらいたい」

「どなたがいらっしゃるのですか?」

「言うまでもない。今この町で要職に就いている方といえば限られていよう。とにかく、余計な動きはしないでくれ。ことが終われば、君の処遇について改めて話し合うつもりだ」


 領主代行はそれだけを告げると、使用人たちを引き連れて大広間の奥へ消えていく。アルタリアは、自分が何らかの交渉材料として使われる可能性を強く感じた。もし王家がここを訪れれば、領主代行は“保護していた元伯爵令嬢”を差し出すことで恩恵を得ようとするのではないか――。


 部屋に戻ると、廊下の兵士たちはより警戒を強め、あちらこちらで見回りが増えている。さながら厳戒態勢だ。このままでは日が暮れても隙を見つけるのは難しいだろう。だが、レオナードが夜に再びやってくるという約束は、今のアルタリアの唯一の希望でもあった。



---


■そして運命の来訪


 その日の昼下がり。館の外からざわめきが聞こえ、窓を開けて外を覗くと、豪奢な馬車と騎士が何人かやって来るのが見えた。金糸の旗を掲げた兵士たちが先導し、門を通過する様子は明らかに“王家”のものだとわかる。アルタリアの胸がざわつく。もしや――第二王子、エリオットがこの馬車の中に?


 やがて門の前に領主代行が出迎え、深々と頭を下げる姿が遠目に見えた。馬車の扉が開き、足を下ろしたのは、白く高級そうなローブをまとう細身の娘。彼女こそが“聖女”だろう。外見は少女のように若々しく、しかしどこか気品や気高さを感じさせる立ち居振る舞いだ。そのすぐ後に、颯爽と姿を見せた男性――淡い金髪に、王族特有の深紅のマント。かつてアルタリアが婚約していた第二王子、エリオットその人である。


(本当に来たの……)

 胸が締め付けられるような痛みが蘇り、アルタリアは思わずカーテンの陰に隠れた。町での巡回では顔を見られなかったが、こうして実際に見ると懐かしさというよりも、怒りや悲しみが入り混じった複雑な感情がこみ上げる。彼は自分を選ばず、新たな聖女を伴っている――そして今なお、あの堂々たる姿で人の視線を集めているのだ。


 領主代行は王子と聖女を丁重に館へ迎え入れる。しばらくして廊下を大勢が行き来し始め、要人らしき人々の足音が広間へ向かっていくのがわかる。アルタリアは兵士の目を避けつつドアへ近づき、こっそり耳を澄ませた。重厚な扉越しに、薄っすらと会話が聞こえてくる。


> 「領主代行、そなたの尽力には感謝している。聖女の一行を無事にお迎えいただき、町の治安にも注意を払ってくれているとか」

「は、恐れながら。何としても、この町の秩序を守るのが私の務めにございます。実は……近頃、この地方に潜む賊徒が“元伯爵令嬢”を狙って暗躍しておりまして。その者を私の屋敷で匿っておりますゆえ、もしもの事態が起きぬよう、万全を期しておるところであります」

「元伯爵令嬢、だと? まさか……」




 声が曇っていてはっきりと聞き取れないが、エリオットのものと思われる声が動揺を含んでいるのが伝わってくる。“アルタリア”という名こそまだ出ていないが、伯爵令嬢と聞けば、かつての婚約者であった自分のことを思い出すかもしれない。さらに聖女の声も混じる。


> 「殿下……もしかして、その令嬢はかつての……。殿下、そんなに驚かれるのなら、何かご縁がある方なのですか?」

「……いや、まさか。そ、そうだな。何でもない」




 扉越しの会話はそこまでしか聞き取れなかったが、状況は最悪に向かいつつある。もしエリオットが領主代行から詳細を聞き、アルタリアがここにいるとわかったなら――もう決して逃げられない。再び王家の思惑に翻弄されるだけだろう。


(早く出なくては……)

 そう思い、アルタリアは決死の覚悟で廊下に出る。兵士に見咎められる前に、どこかへ隠れ、夜を待ってレオナードと合流しなくては。領主代行の手の内に留まるくらいなら、多少強引でも自力で抜け出したい。


 が、次の瞬間、ドアの向こうからエリオットの声がはっきり聞こえてきた。


> 「――その令嬢の名は、何というのだ? まさか……“アルタリア”ではないだろうな」




 アルタリアの心臓が大きく跳ねる。足元が一瞬ふらつき、ドアノブに手をついて耐える。扉一枚を隔てて、あの王子がいま自分の名を口にした――その衝撃はあまりにも大きかった。まるで過去の苦しみと屈辱が一気に蘇るようで、息が詰まりそうになる。


 思わず意識が遠のきかけたが、すぐに踏みとどまる。ここで立ち尽くしていては捕まるだけだ。アルタリアは体に鞭打ち、廊下を駆け出す。兵士たちが散っている中、何とか見つからずに窓から中庭へ飛び降り、外壁沿いに移動する。これまでに屋敷内を歩いてわかった地形をたよりに、人目に付かない裏口へと忍び寄る。



---


■王子との対峙


 しかし、庭の一角までたどり着いたところで、不運にも巡回していた騎士二名に発見されてしまった。明らかに王族直属の騎士のようで、彼らはアルタリアを見てすぐさま剣に手をかける。

「そこの女、動くな! 貴様、何をしている?」

「わ、わたしは……っ」

 返答に詰まった瞬間、周囲の茂みの奥からさらに人影が現れる。――エリオットだ。真紅のマントを翻し、鋭い眼差しをこちらに向けている。その背後には、あの聖女と思しき娘もやや心配そうに立っていた。領主代行や使用人らも駆けつけ、庭は一気に騒然となる。


 アルタリアはとっさに逃げようとするが、あっという間に騎士たちに囲まれてしまう。身動きが取れず、息が苦しくなるような恐怖が迫ってきた。――だが、その恐怖よりも、王子を目の前にして体の奥底から込み上げる怒りが勝る。

「殿下……」

 エリオットはアルタリアの顔を一瞥した瞬間、その表情を強張らせる。そして低い声で呟く。

「……やはり、おまえだったのか。アルタリア……」


 過去の婚約者と再会した瞬間、アルタリアの頭には様々な思いが渦巻く。あのとき、なぜ一方的に婚約を破棄し、平民の聖女を選んだのか――数々の疑問や傷が今も癒えてはいない。けれど、震える唇を噛みしめながらも、彼女は怯まず王子を睨みつける。

「お久しぶりです、エリオット殿下。……まさか、こんな形でお目通りすることになるとは思いませんでした」


 すると、領主代行が口を挟んでくる。

「殿下、先ほど申し上げた“元伯爵令嬢”がこの者にございます。賊が彼女を狙っていると知り、私が保護しておりました。どうか、町の秩序を乱すことなく収めるためにも、ご理解を――」

 エリオットは領主代行の言葉を無視するように手を上げ、アルタリアへと歩み寄る。周囲の視線が集まる中、彼の瞳には迷いとも後悔ともつかない色が宿っていた。

「アルタリア、おまえがここにいると聞いて驚いた。……あのとき、仕方のない事情があったんだ。どうか誤解しないでほしい」

 その場しのぎの言い訳にしか聞こえない。アルタリアは思わず喉の奥で笑い声を堪えた。


「“事情”ですか。そんな言葉で、わたしを一方的に追放したことが帳消しになるとでもお思いですか?」

「追放、などとは……。確かにおまえとの縁組を解消したが、それも国にとって必要だったのだ。あの頃は新たに現れた聖女の力を得るため、王宮も揺れていた。おまえの家との政治的な婚約より、国全体の利益を優先せざるを得なかった。それだけのことだ」

 エリオットの言葉に、アルタリアの感情がさらに揺さぶられる。王家の利益を最優先にするのは政治の常識かもしれない。だが、それを理由に自分が踏みつけにされた事実は変わらない。それを“仕方ない”の一言で済ませるなど、あまりに傲慢だ。


「……なるほど。では、わたしの感情や伯爵家の名誉は“仕方ない”で切り捨てられても良いと?」

「そうは言っていない! しかし、わたしだって葛藤したのだ。あのときは、おまえへの情もあった。だが、国王や周囲の貴族が聖女を推す声に流され、わたしは……」

 言い募るエリオットの後ろで、聖女が小さくうなだれているのが見えた。彼女自身も何か言いたげだが、エリオットとアルタリアの過去を掘り返すことに気が引けるのだろうか。周囲の兵士や領主代行は困惑した顔で成り行きを見守っている。


 アルタリアは頭の中が熱を持つような感覚を覚えながら、最終的な決断を下した。ここで王子の言い訳を受け入れるつもりはない。自分がどう生きるかをはっきり示すために、今こそ言葉を突きつけなくてはならない。

「わたしはもう、伯爵令嬢でも王族の婚約者でもありません。ただの一庶民として、追放先で必死に生きてきました。あなたとの縁など、とうに断ち切ったつもりです。……あなたに謝罪を求めたいわけでもないし、再びこの手を取ってほしいわけでもない。むしろ、わたしはあなたとこれ以上関わりたくない」


 はっきり言い切ると、エリオットは目を見開く。周囲に驚愕が走り、領主代行は「これは……」と狼狽の声を上げる。かつて婚約者であった女性から、このような厳しい拒絶を受けるなど、王子にとって初めての屈辱かもしれない。

「おまえ……しかし、危険が迫っているのだぞ。ここにいれば王家の保護を受けられる。おまえが再び貴族の地位に戻りたいなら、今からでも――」

「いりません!」

 アルタリアはきっぱりと声を張り上げる。振り返ることはしない。この機会を逃せば、もう二度と自分の意志を示せないだろう。伯爵家に戻ることも、王家の庇護を受けることも、もう要らない。求められるままに従うだけの昔の自分には戻らないのだ。


「……わたしが守りたいものは、あなたのいる王宮にも、伯爵家にもありません。わたしは、自分の大事な“居場所”を、自分の力で守りたいのです」


 その言葉が合図だったかのように、庭の外で物音がした。パラパラと小さな衝突音が聞こえ、兵士の怒声が上がる。何かが起きている――そんな予感と同時に、脇の茂みから姿を見せたのはレオナードだった。刃を収めてはいるが、衣服に血が滲んでいる箇所がある。どうやら侵入を阻もうとする兵士と揉み合ったのだろうか。


「アルタリア!」

 レオナードは息を弾ませながら、ひたすらにこちらを見ている。騎士たちが「誰だ!」と声を上げ、エリオットも咄嗟に身構えるが、レオナードは臆することなく叫ぶ。

「こっちへ! 早く逃げるぞ。ここにいては、おまえは永遠に囚われるだけだ!」


 アルタリアははっと気を取り直す。エリオットが威圧的に「その者を捕えろ!」と騎士たちに命じる声が耳に入る。兵士が一斉にレオナードへ殺到するが、彼は巧みに身をかわし、その瞬間にはアルタリアとの距離を縮めていた。

「立ち止まるな、行くぞ!」

「……うん!」


 二人は顔を見合わせ、意を決して駆け出す。あっという間に騎士たちが追いすがり、庭の出口を塞ごうとするが、そこへ領主代行の部下たちが押し寄せ、指示の錯綜によって混乱が生じていた。自分たちの雇い主が王子か領主代行かで迷っているのだろうか。まさに修羅場だ。


 聖女が何か叫んでいるようだったが、声は遠くにかき消される。エリオットの怒声も混じり、カオスの中をアルタリアとレオナードはひたすら走り抜ける。

「こっちだ、塀の向こうに馬を用意してある!」

 レオナードに手を引かれ、裏門を目指す。何人かの兵士が剣を抜いて待ち構えるが、レオナードは短い合図とともに閃光のような動作で相手の武器を弾き飛ばし、切り込んで一瞬で無力化していく。


 そうこうしているうち、どうにか屋敷の外へ抜け出した。真昼の町を走り抜け、路地裏を縫って隠しとめてあった馬へとたどり着く。アルタリアは息を切らし、レオナードが跨がった馬に乗せてもらいながら尋ねる。

「このまま町を出るの……? でも、わたしは宿の人たちを――」

「大丈夫、ここから見えるあの道を使って宿へ戻る。さすがに追っ手が来るだろうが、仲間が手を貸してくれる。町の外へは出ない。おまえさんが守りたい居場所があるんだろ?」


 アルタリアは心臓が早鐘のように打ちながらも、レオナードの力強い背中に手を回した。わずかににじむ汗の匂いが、どこか安心感を与えてくれる。

「ええ……わたしは、あの宿に戻りたい。マルコやエルダ、それに仲間のみんなが待っている。彼らのもとで、わたしはわたしとして生きるんです」

「よし、急ぐぞ。振り落とされるなよ!」


 馬は地を蹴り、疾走を始めた。陽光が斜めに降り注ぐ町の裏道を飛ぶように駆け、兵士の追跡をかろうじて振り切る。町の中央の大通りへ出るとさすがに目立つが、そこはレオナードが事前に計画していたらしく、知り合いの傭兵仲間たちが合図を送り、混乱を装って追っ手の動きを封じていた。



---


■“ざまあ”の瞬間と新たな道


 大通りの宿の前までたどり着くと、マルコやエルダが顔を真っ青にして出迎える。

「アルタリア! 大丈夫かい? 何だってこんな大騒ぎに……」

「ごめんなさい、領主代行の屋敷を抜け出すときに……少し揉めてしまって」

 アルタリアは息を荒げたまま答える。すぐ後ろではレオナードが馬を降り、周囲を警戒している。兵士たちがここに押し寄せるのは時間の問題だ。だが、マルコは迷わず宿の扉を開き、アルタリアを中へ招き入れる。


「君はここで守られる権利がある。僕たちもできるだけ協力するよ。……でも、王族が相手じゃ、さすがにどうしようもないこともある。最終的に、どうするつもりなんだい?」

 マルコの問いかけに、アルタリアは決然と言い放つ。

「わたしはもう、エリオット殿下の玩具にはならない。貴族として再び王宮に戻る気もない。どうしてもそこへ連れ戻そうというなら、拒み抜くだけです。――もちろん、覚悟はできています」


 そう言った瞬間、外から喧噪が響く。何人もの騎士が宿の前に集まり、門を叩く音が聞こえる。否応なく、アルタリアは宿の玄関先へと向かった。扉を開けると、そこに立っていたのはやはりエリオットと聖女、それに領主代行の一団だ。


「アルタリア、そこをどけ。わたしは話を続けるつもりだ。……おまえをこのまま見逃すわけにはいかない」

 エリオットの声には焦りと苛立ちが混じっている。アルタリアはひやりとしたが、すぐさま心を落ち着けた。もう、躊躇するわけにはいかない。彼女は宿の扉をしっかりと握ったまま、拒絶を示す。

「殿下、これ以上わたしに関わるのはやめてください。あなたが言う“国のための選択”をなさったのなら、もうわたしは不要のはず。――わたしはここで生きるので、放っておいてください」

「放っておけるわけがない! おまえを狙う賊の存在は、すでに王家の問題にもなっているのだ。聖女も含め、平和を乱す勢力は看過できない。おまえを引き渡さないというなら、それは国への反逆行為にもなるかもしれないぞ!」


 強硬姿勢に出るエリオットだが、アルタリアは一歩も引かない。かつてはこの声に逆らえなかったが、いまの彼女は違う。背後には宿の仲間たちがいて、傍らにはレオナードがいる。その事実が支えになる。


「それこそ、おかしな理屈です。わたしを助けるために追放したわけではないでしょう? 聖女様が新たな希望をもたらすなら、あなた方が守るべきは“今の国”であって、わたしではない。……わたしを持て余して、今さらどうするおつもりなんです?」

 刺すような言葉に、エリオットは返答に窮する。聖女が「殿下、もうやめましょう……」と小さく声をかけるも、王子は苛立ちを抑えきれず、手をわずかに振り払った。


 そんな様子を見た領主代行は、ここが好機とばかりに口を挟んでくる。

「殿下、これ以上は私の権限で拘束させていただきます。南の領地を守るのが私の役目、賊が狙う元伯爵令嬢を放置するなど言語道断――」

「黙れ! おまえも結局、自分の立場を守りたいだけだろう!」

 珍しく王子が激昂し、領主代行を怒鳴りつける。すると、周囲にいる騎士たちの視線も揺れ動く。彼らは王子の命令と領主代行の立場のどちらを優先すべきか迷っているのだ。


 しんとした空気が流れる中、聖女が小さく息を吸ってアルタリアに向き合った。優しいが意志のある目で、しっかりとこちらを見つめる。

「アルタリア様……わたしはあなたを苦しめてしまったのですね。あの日、殿下があなたとの婚約を破棄する決断をしたとき、わたしは何もできませんでした。自分が聖女として認められる喜びに浮かれ、周りが見えなくなっていたんです」

 そう言って、聖女は少し目を伏せる。

「もしよければ、わたしにできることはないでしょうか。あなたの憤りは最もですが、それでも、わたしは国を救う使命を担っていると信じているのです。あなたを傷つけたことを悔いる気持ちに、嘘はありません」


 まさかの告白に、アルタリアは戸惑い、言葉を探す。この聖女に直接の恨みをぶつけたところで、あの頃の傷が消えるわけではない。だが、彼女が少なくとも自分の苦しみを理解しようとしていることは伝わる。その思いを踏みにじるほど、アルタリアは冷酷にはなれなかった。


「……ありがとうございます。でも、今さらあなたの施しや同情を受けても、過去がなかったことにはなりません。わたしは、わたしの道を歩むだけです。あなたと殿下の行く先に、わたしは必要ありません」

 そうきっぱりと告げると、聖女の目にわずかな涙が光った。エリオットも険しい表情を崩せず、一瞬言葉を失う。だが、これはアルタリア自身が決めた道なのだ。


 王家の者たちにとっては“惜しい存在”かもしれないが、それは勝手な理屈。伯爵令嬢としての利用価値に過ぎないのだから、いまさら情けをかけられても迷惑でしかない。そして、アルタリアはもう庇護を必要としていない。


「この宿が、わたしの居場所です。あなた方の権力を振りかざされても、わたしは屈しません。どうぞ二度とわたしに関わらないでください」


 アルタリアの言葉を受け、マルコやエルダ、そして宿にいる仲間たちが堂々と扉の内側に並んだ。レオナードも騎士たちを睨み、アルタリアの隣に立つ。その姿にはっきりとした意思が感じられ、王家の威圧を拒む姿勢がくっきりと浮かび上がる。


 押し問答が続けば、町全体を巻き込んだ騒動になりかねないと判断したのか、エリオットは苦渋の表情で口を閉ざす。聖女も「殿下……」と心配そうに声をかけるが、彼は振り返らず、踵を返して馬に乗った。領主代行も追いすがるが、王子はそれを無視して鞭を入れ、同行の騎士や兵士たちに撤収を促す。


 こうして、追放された元伯爵令嬢であるアルタリアは、堂々と王子たちを追い返した形になった。彼女を利用しようとした領主代行も立場をなくし、聖女はアルタリアの言葉を胸に抱いたまま、後味の悪いまま馬車へ戻っていく。


 あらためて扉を閉じると、宿の人々がほっとしたように息をつく。大事にはなったが、アルタリアの意志は貫かれた。



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■未来を握る手


 宿の食堂に集まった仲間たちが一気に安堵の声を上げる。マルコはアルタリアの肩に手を置き、まっすぐに目を見ながら言った。

「本当に、よく言ってくれた。君が追放されてどんな思いをしたのか、僕らには想像もつかないけれど……もう君はここで自由に生きていいんだよ」

 エルダも大きくうなずく。

「そうそう。どこの王子だか知らないけど、今さら顔を出して“保護してやる”なんて虫が良すぎるでしょ。あんたは何も悪いことしてないんだから、ここで堂々と働けばいいのよ」


 アルタリアは涙がこぼれそうになるのをこらえた。こんなにも温かく受け入れてくれる場所があるということ。それこそが、追放を経験した彼女にとって最大の救いなのだ。


 騒ぎを遠巻きに見守っていたレオナードが、少し照れくさそうにアルタリアの前にやって来る。

「おまえさん、やっと自分の声を上げることができたな。王子をあんなにもきっぱり退けるとは、正直驚いたぞ」

 苦笑を浮かべる彼に、アルタリアは胸がじんと熱くなるのを感じる。

「あなたが助けてくれたからです。いろいろなタイミングで、あなたが現れなかったら……わたしは今も何も言えずに逃げ回っていたかもしれない」


 レオナードは少し首を振り、「いや、俺はただのきっかけだ」と呟く。

「おまえさんの心には、最初から“負けたくない”って思いがあったんだよ。俺はその背中を押しただけさ。……でも、改めて言わせてくれ。おまえさんを助けられてよかった」


 その言葉に、アルタリアは思わず微笑む。過去の追放は苦しかったが、あの出来事がなければ、こうして自分の力で生きる道を模索し、宿の仲間やレオナードと出会うこともなかっただろう。


「わたし、もう過去を振り返るのはやめます。ここで働いてお金を貯めて、いつかは自分の店を持つ夢もあります。貴族としての地位や名声は捨てましたが、そう悪い気分ではありません。むしろ、ここで築いた人間関係の方がずっと大切だって気づいたんです」


 そう言うアルタリアの瞳は凛としている。レオナードも満足げに微笑み、少し言葉を継いだ。

「じゃあ……もしよければ、今後も俺を頼ってくれないか。おまえさんにはもう“守られるだけの存在”から卒業してほしいが、それでも一人で背負いすぎるのは危なっかしい。俺は騎士団を抜けたけど、それでもまだ人を守ることに生きがいを感じてる。……おまえさんを含めて、ここにいるみんなが大事なんだ」


 アルタリアの頬が少し熱くなる。かつて感じたことのない安心とときめきが胸を満たし、彼女はうなずく。

「はい……わたしも、あなたと一緒にいたいです。困ったことがあったら助け合って、今度はわたしもあなたを支えられるように強くなりたい」


 その場にいたマルコやエルダ、宿の仲間たちが「きゃー」とひやかしの声を上げる。アルタリアは恥ずかしさに頬を染めながらも、心からの喜びを噛み締めていた。


 騒動が一段落した後、町は徐々に落ち着きを取り戻し、王子や聖女の一行もやがて次の目的地へ旅立ったという。領主代行は今回の失態で立場をかなり悪くし、今後は新しい代行が派遣されるかもしれない――そんな噂話もちらほら聞こえてくるが、アルタリアにとってはどうでもいい。


 数日後の朝、いつものように目覚めたアルタリアは、自分の部屋から宿の廊下へ出る。まだ早い時間で、誰も働き始めていない。かすかに聞こえる鳥のさえずりと、新しい朝の匂いがする。


(あの日、王子と聖女の前で拒絶を突きつけた瞬間……胸がすっとした。後悔はない。もう、わたしはあの頃の“利用されるだけの伯爵令嬢”じゃない)


 そう自分に言い聞かせると、階下から足音が聞こえた。レオナードだ。彼も早起きして、今日の巡回や雑用に出かける準備をしているらしい。慣れない笑顔を浮かべて「おはよう」と言う彼に、アルタリアは微笑みを返す。

「おはようございます。今日も忙しくなりそうですね。早めに台所を手伝って、朝食の仕込みをしますね」

「助かるよ。俺は宿周辺の見回りをしてから朝食をいただくかな。戻ったら、また会おう」


 何気ないやりとり。それがとても尊く感じる。アルタリアは外套を羽織り、キッチンへ向かう。エルダに教わったレシピがだいぶ身につき、自分の得意な味付けも試すようになった。いつかは自分の店を持つ夢を叶えるために、今日も少しずつ経験を積んでいくのだ。


 彼女の脳裏に浮かぶのは、追放を言い渡された夜の暗闇。あのときは絶望と孤独しかなかったが、それは新たな人生の序章に過ぎなかった。裏切られた痛みはもう過去のもの。今は、“ざまあ見ろ”と胸を張れるほど、アルタリアは前を向いている。


 どこかで噂が流れているかもしれない――「第二王子に捨てられた伯爵令嬢は、今や辺境の宿で元気に働いている」と。だが、それでいい。むしろ誇らしいとさえ思う。変わりゆく日常の中で、アルタリアはこれからも逞しく生き抜いていくだろう。

 かつては政治の駒でしかなかった自分が、今は自分の手で幸せを掴もうとしている。そんなささやかな自負を胸に、アルタリアは朝の光の中で微笑んだ。






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