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悪魔狩り
悪魔狩り
夜崎朧
現代ファンタジー異能バトル
2025年05月27日
公開日
1.1万字
連載中
通称“悪魔”と呼ばれる異形が身を顰める現代日本。ある日、妹を惨殺された墓森葵は、生きる理由を失い自死を図ろうとしていた。そこに現れた“悪魔”を名乗る異形・ヴァルガに導かれ、葵は妹を殺した犯人に復讐することを決意する――

 暗い空を更に黒く染め上げるように、分厚い雲が重く垂れこめ始めていた。月の隠された夜、妙に生温く湿った風が緩く頬を撫で、今にも雨が降り出しそうな気配に、僕・墓森葵はかもりあおいは自然と早足で帰路につく。

 三月十三日、金曜日。翌日が休みという人が多かったのだろう、バイト先の飲食店は想像以上の客の入りで賑わい、忙しくてついついあがるタイミングを逃してしまった。結果としてバイトがいつもより長引いてしまい、それもあって僕は家路を急いでいる。残業すればその分給料に反映されるので有り難いことではあるが、あまり遅く帰宅するのは授業や課題などもあるので、頻繁にあるとよろしくはない。歩きながら腕時計を確認すると、時刻は午後九時半を大幅に過ぎていた。

 今日のバイト先は、家から徒歩十数分程度の、比較的近い場所にあった。鞄に折り畳み傘を常備するような用意周到さは、残念ながら僕は持ち合わせておらず、今の僕にできることといえば精々、帰宅途中に雨が降り出しませんように、と祈ることくらいだ。僕はほとんど競歩でもしているかのような速度で、見慣れた住宅街をずんずん進んでいく。

 自宅のドアの前まで来たところで、不意に背後からゴロゴロという雷の不機嫌そうな声が鳴り響いた。それから数秒と間を置かずに、ざあああっと大粒の雨が地面に打ち付けられる。辛うじて軒下に立っていたのでなんとか濡れずに済んだ僕は、玄関の鍵を開けるとするりと中へ身を滑らせる。

 家の中に入っても、窓やら屋根やらを打つ激しい雨音がこだましている。ギリギリセーフだ、と胸を撫で下ろしながら、僕は小さく息を吐いて、緩慢な動作で靴を脱いだ。

「ただいまぁ。遅くなってごめんね、結愛ゆいあ。夕飯、ちゃんと食べた?」

 そう部屋の中に声を掛けつつ、脱いだ靴を揃えて置き直す。玄関の上がり框を踏んで顔を上げる。

 ――そこでふと、僕は小さな違和感を抱いた。

 短い廊下の突き当たり、そこがリビングになっているのだが、普段なら明るいはずのそこには灯りが付いておらず、廊下の暗さも相まって、家の中は真っ暗だった。

 僕は不審に思って周囲に目を走らせる。僕は妹の結愛と二人暮らしをしており、現在高校二年生の結愛の方が、当然だが帰宅する時間が早い。そのため僕がこうして帰る頃には、リビングの灯りが付いているのが常だ。もし自室にいて課題などをしているにしても、彼女の部屋に灯りが付いている様子も見受けられない。何か用事などで帰宅が遅くなる時は、結愛は必ず連絡をしてくれるはずだが、今端末を確認しても、それらしきメッセージなり着信なりは見当たらなかった。時刻は午後十時過ぎ、眠るにしては、高校生にとってまだ早い時間だろう。

 もしかして、体調が悪くて自室で休んでいるのだろうか。

 結愛の部屋は、リビングの少し手前の右側の部屋だ。心配になった僕は廊下の灯りを付けてから、彼女の部屋の前まで行き、軽くノックをした。

「結愛、寝てるの?」

 そう尋ね、僕は彼女の返答を待つ。しかし、いくら待ってみても返事はない。

 本当に眠っているのなら、起こしてしまいそうで中を覗くのは少し憚られるが、僕は静かに扉を開け、中の様子を確認した。

 きちんと整頓された、結愛の几帳面さをそのまま表したような部屋が、廊下の暖色の光に照らされてぼんやりと浮かび上がる。僕はベッドに目を向けたが、今朝丁寧に整えられたそこには、人が寝ているような膨らみはない。部屋中を見回しても、何処にも彼女の姿はなかった。

「結愛……?」

 つう、と今更のように冷汗が背中を伝う。誘拐、監禁、その他犯罪に巻き込まれているのではないか――。嫌な予感が確かな形を持って胸中でみるみる膨らんでいき、僕は咄嗟に結愛の端末に電話を掛けた。

 電話の呼び出し音が、耳に当てた端末とは別に、少し遠くからくぐもって聞こえてくる。耳を澄ませてみると、それはどうやらリビングの扉の奥から聞こえてくるようだった。

 僕は結愛の部屋の扉を閉めると、急いでリビングへと向かう。電話をいつまで経っても繋がらない。鳴り続ける呼び出し音が廊下に反響して雨音と混じり、まるで知らない場所に迷い込んでしまったかのように、見慣れたはずの景色が酷く不気味に感じられた。

「結愛、いるの?」

 言い終わらぬうちにリビングの扉を開け、一歩足を踏み入れる。瞬間、嗅いだことのないような、鉄臭いにおいがつんと鼻腔を刺激する。と同時に、ぬちゃ、と湿った音と共に、何か生温い液体が踏み出した足の靴下を浸水させた。

「え……?」

 その生温さに全身が粟立ち、僕は思わず数歩後ずさる。その時、稲光が空を薙ぎ、部屋を眩しく照らし出す。何か色の付いた液体が床に広がっている様と、その中心に力なく倒れる結愛の姿が、目に焼き付くように映った。

「結愛!」

 素早くリビングの灯りを付けた僕は、慌てて彼女に駆け寄ろうとした。が、リビングの白い電灯が浮かび上がらせた眼前の光景に、動きかけた脚が竦んで縺れた。

 視界に飛び込んできたのは、夥しい量の赤色で。

 その中心に倒れている結愛は、胸部から腹部に掛けて何か鋭利な物で切り裂かれたかのように内部を晒しており。

 本来、そこにあるはずの内臓は、ごっそりと抜き去られたかのように存在せず。

 彼女はただ、何も映さなくなった瞳を虚ろに宙に向けていた。

「あ、ああ……うわあああっ!」

 突如現れた妹の無残な姿に、僕は素っ頓狂な声を上げて端末を取り落とし、床に尻餅をついた。その拍子に、先程液体に濡れた足先がどす黒く染まっているのが目に入る。そして、その赤い液体が結愛の体から流れ出した血液だと、遅まきながら理解する。

 それ以上のことはパニックになった頭が理解を拒み、僕は壊れた玩具のように何度も彼女の名前を呼びながら、萎えた脚を引き摺って這いずるように彼女の傍に近づいた。

 覗き込んだ結愛の顔には全くといっていい程血の気がない蒼白そのもので、普段の健康的な赤みが差していた彼女の顔がまるで嘘のようだ。脈を取って確認するまでもない。結愛は既に死んでしまっている。

 冷静な部分の思考はもうそのことを理解しているのに、簿奥はそれを認められず、何かしらの処置を施さなければ、と半狂乱で必死に頭を回転させる。

 心臓マッサージ――剥き出しになった胸部の中に、動かすべき心臓はなく。

 せめて止血を――傷口が大きい上に、床の上にはもう既に彼女の体中の血が全て流れ出してしまったかのような血溜まりがあり、何処をどう止血すべきなのか分からず。

 医療の知識など何一つとして持ち合わせていない僕は、みっともなく鳴き出しそうになるのをぐっと堪えて、必死に考え続ける。そこでようやく、救急車を呼ばなければ、と僕は思い至った。

 結愛の血で濡れた手で、取り落とした端末を掴む。それを何度も再度取り落としそうになり、何度も番号を打ち間違えつつも、なんとか電話を掛けることに成功する。やっとのことで繋がった先から、淡々とした事務的な口調の男性の声が聞こえた。

 電話先の相手に、この状況をどのように説明して伝えたのか、僕はよく覚えていない。

 救急車が到着したのは、時間にして十数分後くらいのものだったのだろうが、死んだ結愛の体と二人きりの空間にいた時間は、まるで永遠の責め苦を受けているかのように長く、永く感じられた。

 駆けつけた救急隊員――或いは警察官だったのかもしれない――に事情を説明する余裕もなく、僕はただ茫然としたまま、結愛の体が担架に乗せられて運ばれていくのを眺めることしかできなかった。


 ――気付けば僕は火葬場で、随分と小さくなってしまった結愛を抱えていた。

 三月の半ば、寒の戻りなのか、やけに外の空気は冷えていた。喪服一枚、それでも寒いとは感じず、体が勝手に震えているのすら他人事のように思っていた。

 こうして骨壺を抱えたのは、母が死んで以来だとぼんやり思う。

 両親は、僕がまだ小学校低学年くらいの時に離婚している。幼い僕と結愛を女手一つで育ててくれた母は、過労で体を壊し、僕が十八歳の時に他界した。父とは全く連絡を取っておらず、何処にいるのか、そもそもまだ生きているのかすら定かではない。僕は亡き母の言いつけを守って大学に進学した。大学に通いながら、これからは僕が母の代わりに結愛の面倒を看なければ、とバイトを掛け持ちしてシフトを増やしたりもしたが、結局結愛には我慢させてばかりの生活だっただろう。僕より五つ年下の妹は僕よりもずっと聡明で我儘一つ零すことなく、反抗期らしい反抗期もなかったように思う。僕がもっと稼げれば、やはり大学をやめて就職した方がいいのか、などと零す度に、彼女は優しく微笑んで、

「お兄ちゃんはもう充分頑張ってるよ。私のために大学辞めるなんて、絶対ダメだからね」

 なんて、窘めるように言うのが常であった。

 優しい結愛、これからきっと、輝かしい未来が待っていたであろう彼女が、何故あんなにも無残に殺されなければならないのだろう。僕は結愛のためなら、いくらでも自分を犠牲にできた。大学を卒業したら、これからもっと楽な生活をさせてやれると思っていた、その矢先にこれだ。僕はもう、萎え自分が生きているのかすら分からなくなっていた。

「……ただいま」

 自宅に帰ると、身に染みついた習慣でそう口にする。しかし、応えてくれる者はもう誰もいない。胸にぽっかりと大きな穴が開いたような虚無感に支配されたまま、僕はしばらく骨壺を胸の辺りで抱えてぼんやりと宙を眺めていた。

 ――もう、生きている意味がなくなってしまった。

 ふう、と大きく息を吐く。呼吸をするのでさえ億劫で、いっそこのまま息が止まってくれればいいとすら思う。悲しみを感じる心も死んでしまったかのように涙は涸れ果て、何も感じなかった。

 僕は僅かに残った理性で、掛け持ちしているバイト先に電話を掛けた。普段とはかけ離れた調子の僕の声に、店長達は心配するように何かを言ってくれたが、感情が麻痺してしまったのか、何を言われても僕にはちっとも響かなかった。バイトをやめる旨と今までお世話になりました、と伝えると、最終的に店長達はそれを了承してくれたので、僕は電話を切る。

 いつの間にか日が落ちて、月光がカーテンを開け放ったままの窓から差し込み、眩しく部屋の中を照らしている。

 部屋に戻った静寂が、僕を押し潰すように苛む。

 ――何故、生きているのが僕なのだろう。

 あの日、もっと早くに帰っていれば、結愛はあんな目に遭わずに済んだのだろうか。僕がもっとしっかりしていれば、結愛を守ることができたのだろうか。

 意味のないたられば、もしもの話でしかない、分かっている。それでも思考は廻り続け、そんな意味のない仮定が脳を蝕んでいく。それに導かれるように、気付けば僕は手近にあった端末の充電コードを頭上の柱と首に括りつけ、椅子を蹴ってぶらんと宙で揺れていた。

 首に全体重がかかり、喉が絞め上げられる。咳き込むことも許されずに、顔に熱が集中していく。意識が遠のきかけた途端、ぶち、と鈍い音を立ててコードが千切れ、僕はそのまま床に投げ出された。

 吸うべきはずの酸素が一気に肺を侵し、ごほごほと激しく咳き込む。床で強打したはずの体の痛みさえ、今は感じられない。

 ――ああ、僕は死ぬこともできないのか。

 そう過ぎった絶望が思考を覆うように支配する。ただひたすらに形容し難い虚無感に襲われて、死んだ魚のような目で宙を見ていた、その時だった。

『何かお困りのようですね、お若い方』

 それは男の声のようだったが、鼓膜を通して音として聞こえた訳ではなく、脳に直接響くような、不思議な感覚を齎す言葉だった。

 遂に幻聴が聞こえるようになったか、と呑気な感想が浮かんだのも束の間、僕の眼前に何の前触れもなく、巨大な影がぬっと現れた。麻痺した感情の中でも僅かながら驚くという機能が残っていたのか、知らずびくりと大きく肩が跳ねる。僕はゆっくりと顔を上げ、現れた影をまじまじと見つめた。

 床にへたり込んでいるせいで正確なことは分からないが、その人影は天井に届く程の上背があった。黒くふわりと拡がったマントに、ダークスーツをきっちりと着こなしている。その頭部には、鹿か何かだろうか、長く枝分かれした角の生えた動物の頭蓋骨が被さっており、どんな顔をしているのか見ることはできない。骨格的にも先程の声からも男性かと思ったが、ダークスーツの袖や襟から覗くその肌は黒く、まるで影のような色をしていた。また、掌がほとんど存在しないかのように長く伸びた指の先には、更に鋭く黒い爪が伸びている。これらのことから、僕はこの人影が人間ではないモノなのだろうと推察した。

 これは、幻覚なのだろうか。妹を亡くしたショックで、僕は気でも違えて、夢と現実の区別すらつかなくなってしまったのだろうか。

 まだ少し朦朧とした頭に浮かんだそんな僕の疑問を見透かしたかのように、眼前の異形はくつくつと笑う。

『御心配無く。貴方は気を違えておりません故。して、貴方は一体何にそれ程煩わされているのです?』

 問い掛けの意味を理解するのに数秒、言葉を探すのに更に十数秒を要し、ややあって口を開く。

「……妹が、死んだ。誰かに、殺されたんだ。もう、生きていても意味がない」

 僕の声は普段よりも数段低く、澱のように濁って響いた。異形はふむ、と小さく頷いた。

『成る程、妹君を殺されたと。それは大変お気の毒ですね、私が何か力になれると良いのですが』

 同情する訳でも憐れむ訳でもない、むしろ淡々とした異形の言葉は、僕には酷く薄っぺらいものに思えた。

 僕は虚ろに異形を見つめる。

「……お前は、何だ? 僕の都合の良い幻か何かか?」

 すると異形は、またくつくつと笑った。

『まさかそんな。そうですね、こちらの世界だと、〝悪魔〟と言った方が、通りが良いのでしたか。対価次第では、貴方の望みを叶えるのも、吝かではありませんよ』

 〝悪魔〟を名乗るその異形は、胸元に手を添えて軽くお辞儀をしてみせる。それならと僕は、一縷の望みとも言える願いを口にした。

「なら妹を、結愛を生き返らせてくれ。僕は、どうなってもいいから、結愛を……」

『非常に残念なことではありますが、セカイの理を曲げるには、貴方の命だけでは贖えぬ対価となります上に、冥界から魂を呼び戻すというのは、貴方が思うよりも複雑な事象でございます。仮に呼び戻したところで、そもそも妹君の肉体はもう骨になってしまわれているのでしょう? 器が無い者をどう生き返らせると言うのです?』

 こてん、と首を傾げる〝悪魔〟。僕は俯いて、髪をぐしゃぐしゃに掻き乱した。

「……じゃあ、用はないよ。もう放っといてくれないか」

 僕は千切れたコードを手繰り寄せ、もう一度使えないかとぼうっと考える。しかし〝悪魔〟は立ち去ることなく、僕を見下ろしているようだった。

『自ら命を絶とうとお考えで? ですが、良いのですか? 拝見するに、妹君を殺した犯人はまだ捕まっていない御様子。セカイの理は、今の私には曲げることが難しいですが、それ以外の願いであれば、対価次第で叶えて差し上げられますよ』

 そう言われ、僕はのそのそと動かしていた手を止めた。

 確かに異形の言う通り、結愛を殺した犯人はまだ捕まっていない。警察が殺人の容疑で捜査をしているとは聞いているが、あれ程の惨状を繰り広げたにしては何の手掛かりもなく、このままでは近いうちに捜査を打ち切ることになる、と強面の刑事に言われたのを、ぼんやりと思い出す。

 瞬間、発火するように感情が顔を出し、僕は強く噛み締めた。

 結愛は死の間際、どれ程の恐怖に晒されたのだろう。胸部と腹部を切り裂かれたのは、まだ彼女が生きている時だったと聞いた。その痛みは、その恐怖は、その無念は、想像もつかない程だっただろう。

 結愛をあんな目に遭わせた奴が、まだのうのうと生きている。ああ、なんて憎らしいことだろう。そいつに結愛が味わった物以上の苦痛を味わわせてやりたい。憎い、憎い憎い憎い。

 ――ゆるせない。

 けれど僕には、何の力もない。犯人を突き止めることも、その後も、何もできやしない。

 だが――

 僕はふと顔を上げる。そして、眼前に佇む異形を凝視する。

 こいつは先程、対価次第で願いをかなえられると言った。これがもし、僕が作り出した都合の良い幻などではなく、本当に実在する、ヒトとは異なるモノだとしたら。

「お前は、何が欲しいんだ?」

 胸中で業火が顔を覗かせる。幾分か力を取り戻した僕の声に、異形が顎の辺りに手を当てて考えるような仕草を見せる。

『そうですね。本来ならば、魂を頂戴するところですが……』

 まだ何か言いかけていた異形の言葉を遮って立ち上がり、異形の黒い腕を掴む。突然のことに、流石の異形も驚いたのか、掴んだ腕が僅かに強張った。構わず異形の腕を強引に自分の方へ引き寄せ、自身の頸動脈の辺りにあてがわせる。そうして真っ直ぐに、異形を見据えた。

「俺の全てをくれてやる。だから、俺に力を貸せ、化け物」

 異形は一拍間を置いて、心底愉快そうに笑い出す。俺は無感情にそれを眺めていた。

『いいですね、やはりニンゲンというものは面白い。気に入ってしまいました』

「そうか」

 無表情にそう返しても、異形は意に介した様子もなく、深々と俺に頭を下げる。

『私は、ヴァルガと申します。貴方様の手となり足となり、貴方様を主と崇めましょう。そうなれば、契約を結ばなければ』

 ヴァルガと名乗った異形は俺の手をそっと解き、ダークスーツの懐から、やけに古びた紙を取り出す。空中でそれにさらさらと何かを書いてから、異形はそれを俺に差し出した。

『契約を結ばれるのであれば、こちらを読んでサインを。契約に従い、私は貴方様に仕えましょう。さあ、いかがいたしますか?』

 俺は首にだらりとぶら下がったままだったコードを力任せに引き千切った。そして、異形が差し出した高級そうなペンで、右手の人差し指を躊躇なく突く。血がぷくりと膨れるようにして流れるその指で、俺は示された箇所に自分の名前を書き殴った。それを見たヴァルガは満足気に紙を受け取り、懐に仕舞う。

『契約、成立いたしました。ふふ、碌に目も通さずサインしてしまうとは、潔い。この契約がある限り、私は貴方様を主といたしましょう』

「御託はいい。まずはお前の力が本当に使えるものかどうか、それを俺に証明してみろ」

『えぇ、御意に』

 ヴァルガが恭しく首を垂れる。それから彼は、窓の外を振り返った。

『丁度良いところに、客人がいらっしゃったようですから』

「客人?」

 怪訝に響いた俺の声に応えるかのように、月光を透かしていた窓を突如何かが突き破り、乾いた音を立てて砕け散った。窓を壊した侵入者が、音もなく床に着地する。月光を背にしているその人影の顔は逆光で黒く、ただその紅い瞳だけが発光しているかのようにぼんやりと闇に浮かび上がる。暗闇の中で、鋭く尖った角のような輪郭が見え、俺はこの侵入者が人間でないことをすぐに覚った。

 闇に塗り潰されていても、侵入者が俺を見てにやりと笑ったのが分かる。俺は他愛した驚きもなく、侵入者を横目にヴァルガの方に向き直った。

「こいつが、その客人とやらか?」

『えぇ。マナーがなっておりませんが』

 くす、とヴァルガが笑みを零す。

「こいつも、お前と同じ〝悪魔〟なのか?」

 そう尋ねると、ヴァルガは俺を庇うように、唸り声を上げて飛び掛かってきたそいつの前に歩み出ると、何処から取り出したのか、無数の剣でそいつの体を串刺しにしてから、悠長に振り返った。

『こんな羽虫風情と一緒にされるのは心外ですがね。ところで、串刺しにしてもよろしいですか?』

「いや、もうしてるだろそれ」

 思わず呆れてそう言う俺に、何が楽しいのか一切分からないが、ヴァルガがくつくつと笑う。串刺しにされたそいつはまだ生きているらしく、くぐもった悲鳴を上げていた。少しでも動けば剣が更に深く刺さるようで、そいつが暴れ出す様子はないが、業者に綺麗にしてもらったばかりの床が紫色の血液でみるみる汚れていくのが不快だった。

「もういい、さっさと片付けろ。見ていて不愉快だ」

『はい、仰せの通りに』

 ヴァルガが長い指を器用にパチン、と鳴らす。瞬間、そいつの体から何の前触れもなく火の手が上がり、そいつが耳障りな悲鳴を上げる。青い炎は容赦なくそいつの全身を覆うと、骨も残さずに燃やし尽くし、他には燃え移ることなく消えていく。そいつが来たという証拠は、床に広がる紫の液体と、僅かに残った灰が示すのみとなった。

「始末するのはいいが、今度から床を汚すな」

 血溜まりを見ていると、結愛が床で倒れている姿がフラッシュバックしてきて、俺はすぐに目を背けた。それから俺は、一つ気になっていることをヴァルガに尋ねた。

「お前、結愛を殺した犯人に目星がついているのか?」

 その問いに、ヴァルガが小さく首を傾げる。

『目星、という程のものではありませんが。拝見するに、この部屋には私以外の〝悪魔〟の気配が微かに残っております。ですので、犯人は〝悪魔〟か、それを使役する者かと思われます』

 〝悪魔〟――確かに、人智を超えた力が使えるモノならば、証拠が極端に少ないのも頷ける。俺が追うべきはその〝悪魔〟ないし、それを使役する者に絞られるのかもしれない。

「全部終わったら、この体はお前の好きなようにしていい。それまで力を貸せ、ヴァルガ」

『仰せのままに、我が主』

 こうして、俺の復讐は幕を開ける。その先に待つ結末などには、まるで興味がないままに。


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