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政略結婚の末に愛されたヒロインは、やがて世界を変える
政略結婚の末に愛されたヒロインは、やがて世界を変える
ゆる
異世界恋愛ロマファン
2025年05月28日
公開日
3万字
連載中
政略結婚で公爵家に嫁いだ伯爵令嬢レクシア。冷徹と噂される公爵家の若き当主ダリオンとの結婚生活は、形式だけのものだと思っていた――最初は。 けれど、実家の危機に手を差し伸べてくれたのは、冷たく見えたその旦那様で……? 互いに心を開いていくうち、ふたりはやがて絆を育み始める。 一方で、王宮では公爵家を排除しようとする陰謀が渦巻き始める。 実家の再建、公爵家の信頼、王国の未来――すべてを守るため、レクシアは立ち上がる! 「これは政略結婚なんかじゃない。私は――この人と生きていきたい」 政略から始まったはずの関係が、真実の愛へと変わるまで。 陰謀渦巻く王宮を舞台に繰り広げられる、ざまぁあり、胸キュンありの王道ロマンス! --- 文体変更・短縮バージョンも可能ですので、お気軽にお申し付けくだ

第1話 政略結婚の悲哀

 湿った風が、伯爵家の中庭に咲き乱れる花々をかすかに揺らしている。早朝の空はまだ薄暗く、か細い月の光と朝焼けが綱引きをしていた。

 レクシア・エルデ――その名を持つ少女は、窓辺の椅子に腰かけ、静かに瞳を閉じていた。いつもなら優雅な調度品に囲まれた部屋で、日々の気まぐれな読書にふけるか、姉妹や侍女と何気ないおしゃべりを楽しむのが常だ。けれどこの朝に限っては、本を開くことすら億劫で、気の利いた言葉を交わす心の余裕もない。まるで胸の奥に重たい錘がのしかかっているかのようだ。

 それも当然だった。今日、彼女は「政略結婚」をすることになっている。


 伯爵家の次女として何不自由なく育てられたレクシア。しかし、華やかに見えるエルデ伯爵家にも、長い年月の間に蝕まれた危機があった。先代当主である祖父の代から財政難が続き、外面こそ貴族としての体裁を保ってはいたものの、裏では相当に苦しい綱渡りを続けていたのだ。

 その窮状に目をつけたのが、公爵家であるアングレード家。公爵家は王宮の中心で権力を握っており、しかも王家に対して強大な影響力を持つ名門だ。エルデ伯爵家を救うためには、アングレード公爵家との縁組が望ましい――誰がそう言いだしたのかは知らないが、いつしかそれが既定路線となり、数年前から王宮や貴族の間でも囁かれるようになった。

 そしてついに、アングレード公爵家の嫡男ダリオン・アングレードとの縁談が「王家公認」の形で決まったのである。エルデ伯爵家にとってみれば、家を再興する絶好の機会。しかし、その代償として差し出されるのはレクシア自身――しかも、まだ十八歳の娘だ。政略結婚は貴族社会では珍しくはない。だが、当事者としては「愛のない結婚」を余儀なくされるものであり、その宿命をいかに受け入れるかが若き令嬢たちの苦悩となる。


 レクシアは窓から見る庭をぼんやりと眺め、胸の中に広がる空虚さを痛感していた。

「お嬢様、そろそろご支度を……」

 扉の外から控えめなノック音が聞こえ、侍女の声が続く。

「わかりました。今行きます」

 そう返事をして、彼女は重い腰を上げた。今日ばかりは侍女を待たせるわけにはいかない。薄い寝間着の上から、今の気分を表すかのように黒いガウンを羽織り、ゆっくりとした足取りで扉へと向かう。


 部屋を出ると、すぐ近くに仕度部屋がある。そこには伯爵家伝統の刺繍が施された白銀のウェディングドレスや、華やかなベール、貴族の証である宝石の髪飾りが整然と並べられていた。もともとレクシアはこういった美しい衣装や宝飾品が好きな方だったが、今はそれを見ても心が晴れやかになることはなかった。

「きっと似合いますよ、レクシアお嬢様」

 侍女の一人がドレスを丁寧に運びながら、できるだけ明るい声で話しかける。彼女なりにレクシアを励まそうとしているのだろう。しかしレクシアはただ小さく微笑んで、「ありがとう」と言うにとどめた。


 まずは体のサイズに合わせて下着や補正具を装着し、ドレスを着付けてもらう。その作業は周囲の侍女たちが手際よく進めてくれるが、レクシアはほとんど人形のようにされるがままだった。彼女は小さく息をついて心を落ち着けようとする。

「もし、このまま逃げ出したら……」

 そんな考えが、ほんの一瞬脳裏をかすめる。しかし同時に、彼女にはそれが不可能なこともわかっていた。伯爵家の名を背負ってきた以上、自分の勝手で物事を台無しにするなど、許されるはずがないのだ。


 時間が経ち、ようやくドレスを着終えて鏡を見ると、そこには絢爛たる花嫁姿の自分が映っている。白銀の生地には繊細なレースが施され、胸元やスカートの裾には伯爵家の紋章である蔦のモチーフが美しく配されていた。ゆるやかなウェーブがかった淡い栗色の髪は、今日は特別に高くまとめられ、レースのベールがふわりと覆う。

 しかし、その華やかさとは裏腹に、鏡越しに見えるレクシアの瞳はどこか暗い。笑みを浮かべる余裕など微塵もなく、ただそこに立っているだけ。それはまさに、今の自分の心情を映し出しているようだった。


 やがて控え室の扉が開き、父エルデ伯爵が入ってくる。そこには母や姉、そして叔父などの家族たちも続く。目を潤ませている母と姉は声をかけづらそうにしていたが、その代わりに父だけが堂々とレクシアの前に立ち、言葉をかける。

「レクシア……お前は我が家の希望だ。今回の縁談は、エルデ伯爵家を救うためにどうしても必要なのだよ。わかってくれるな」

 レクシアは俯くようにして小さくうなずくしかできない。もちろん、父が言うことも理解はしている。伯爵家が破産すれば、自分だけではなく多くの使用人たちや周囲の人々も路頭に迷うかもしれない。貴族の身分を失うことは、社会的な破滅に近い。レクシアは優しい性格ゆえ、そうした結果を招くことを想像するだけで胸が痛むのだ。

「わかっています……伯爵家を守るために、私は喜んで嫁ぎます」

 そう言うと同時に、レクシアは自分の声がわずかに震えているのを感じた。父はホッとしたように少し笑みを浮かべ、力強く彼女の肩を叩く。

「すまない。お前には苦労をかける。だが……きっとダリオン殿はお前を大切にしてくれるはずだ。あの公爵家は王家に次ぐ家柄だ。それなりの配慮もあるだろう」


 レクシアは無理やり笑みを作り、父を安心させる。

(本当に、大切にしてくれるのだろうか)

 心の中でそう呟いたが、口には出さない。ダリオン・アングレードについては「冷酷」「無表情」「人形のよう」といった噂ばかりが耳に入る。公爵家の嫡男として多忙を極め、誰にも心を開かない。そんな相手に嫁ぐことが、果たして自分の幸せにつながるのだろうか。

 しかし、今となってはもう後戻りはできない。レクシアは花嫁姿のまま、式場である伯爵家の礼拝堂へと向かうことになった。


 礼拝堂の中は白を基調とした厳かな雰囲気に包まれており、祭壇には神官たちが控えている。招待客として列席しているのは、数多くの貴族や親戚筋の人々。それぞれが思い思いに、伯爵家と公爵家の縁組を眺めるように座っている。

 レクシアは入口で一度深呼吸をして、父と腕を組みながらゆっくりとバージンロードを歩む。花嫁行列の音楽が流れるなか、視線を一身に浴びるのを肌で感じるが、頭の中は不思議と静かだった。つい数週間前まで、「結婚式はきっと幸せなもので、笑顔で迎えられる行事だ」と夢見ていた。だが、現実はまったく違う。彼女が今感じているのは、重圧と不安だけだ。


 祭壇の前には、花婿であるダリオン・アングレードの姿がある。漆黒の髪を短く整え、王宮の騎士団が着るような礼装を身にまとっている。高い身長と端整な顔立ちがひときわ目を引くが、その表情は噂どおりの冷たいものだった。まるで感情というものが存在しないかのように、少しも崩れない彫像のよう。

(この人が……私の夫になるのね)

 レクシアは改めてダリオンの姿を見つめ、胸の奥底で小さな苦い痛みを感じた。


 誓いの言葉を交わす段になると、神官が二人に向けて問いかける。

「ダリオン・アングレード、汝は伯爵家の令嬢レクシア・エルデを正妻として迎え、一生涯守り、慈しむことを誓いますか」

 その問いに対して、ダリオンはほとんど表情を変えずにただ「はい」と短く答える。

 続いてレクシアにも同じ問いが投げかけられる。

「レクシア・エルデ、汝はアングレード公爵家の嫡男ダリオン・アングレードを夫として敬い、王家や公爵家の名に恥じぬよう、共に歩むことを誓いますか」

「……はい」

 かすれそうになる声をなんとか振り絞り、レクシアはそう答えた。神官が腕を広げて祝福の言葉を述べる中、レクシアの心の中は、まだ渦巻く不安で埋め尽くされている。表面だけは穏やかに見せようと必死だったが、果たしてダリオンに今後どう接すればいいのか、まったく見当がつかないのだ。


 指輪の交換が済み、式は無事終了。拍手が巻き起こる中、レクシアはダリオンと腕を組み、再びバージンロードを戻っていく。拍手をする客席の人々の中には、レクシアに同情するような表情を浮かべる者もいれば、公爵家との縁を羨む視線を送る者もいる。だが、レクシアからすれば、どの視線もまるで自分を観賞用の人形か何かのように見ているのではないかと感じた。


 式が終われば、次は伯爵家の広間での披露宴が始まる。数多くの料理と酒が用意され、招待客が一堂に集まって華やかに祝福の言葉をかける。伯爵家や公爵家の紋章があしらわれた装飾品や、あり余るほどの花束が飾り立てられ、演奏隊が優雅な音楽を奏でる。

 レクシアは一応、新婦として要所要所で笑顔を作り、お祝いに来てくれた人々に丁寧にお礼を伝える。しかしその心の内は、やはり暗い。ときおりちらりと隣に目を向けても、ダリオンは無表情のままほとんど口を開かない。祝辞を述べられても短く返すだけで、もしかしたらレクシア以上にこの場にいることを苦痛に感じているのでは……とすら思えるほどだった。

「レクシア様、本日はおめでとうございます。公爵家の方とご結婚だなんて、さすが伯爵家のご令嬢ですわね」

「ダリオン殿は王宮でも将来を嘱望されているお方とか……本当に羨ましいですわ」

 口先だけの称賛や羨望の言葉は、皮肉にしか聞こえない。あるいは本心かもしれないが、レクシアの耳には浮ついた声が空虚に響くだけだった。心からの祝福とは思いづらい雰囲気が、この貴族社会に渦巻いているのを感じる。


 ふと、父が人をかき分けるように歩いてきて、レクシアとダリオンのもとに立ち止まる。

「ダリオン殿、レクシアをよろしくお願いいたします。なにぶん、まだ未熟な娘ですが……」

「ええ、わかっております」

 ダリオンはそれだけ言うと、ほかには何も付け足さずに軽くうなずく。父はもう一言くらい期待していたようだが、その簡潔さに拍子抜けしたのか、どうにも歯切れの悪い表情になる。

「……では、二人の幸せを祈っておりますよ」

 そう言い残して、父はまた来客の相手をするために去っていった。

 レクシアは父の背中を見送ったあと、思いきってダリオンに声をかけてみる。

「あの……ダリオン様。今日は本当にありがとうございます。私、不安なことも多くて……」

 言葉を選びながら話しかけるが、ダリオンはちらりとこちらを見ただけで、ほとんど興味がないように視線をそらす。

「……式はこれで終わりだ。あとは食事を済ませて、時間になったら公爵家の馬車で戻る。君も支度しておけ」

 それだけを短く言われ、レクシアは困惑を隠せない。新郎新婦の初々しさというより、事務的な言葉を受け取っているような気分だった。


 披露宴は滞りなく進められ、やがてお開きとなる。その後、公爵家の執事や従者が手配した馬車にレクシアは乗り込むことになった。着の身着のまま、というわけにはいかないので、最低限の荷物を侍女たちが慌ただしく詰め込んでいる。そう、彼女はこのままアングレード家の邸へ移り住むのだ。

「レクシア、いってらっしゃい……」

 涙を浮かべながら抱きしめてくる母に、レクシアもつられて涙ぐむ。あれだけ憂鬱だった気持ちも、母の温もりを感じるといっそう辛くなった。家を出るのは初めてではないが、今回ばかりは「戻る場所」が変わってしまうという現実が重くのしかかる。

「お母様……私、がんばります。公爵家でうまくやっていけるように努力しますから」

「ええ、ええ……あなたは私たちの誇りよ。どうか健康に気をつけて、幸せになるのよ」

 母は言葉の終わりを涙でかき消しながら、最後の別れに名残惜しそうな表情を浮かべる。レクシアも同じく、胸が締め付けられる想いだったが、振り返りたくなる気持ちをこらえて馬車のステップを踏んだ。


 馬車の中にはダリオンも同乗している。先ほどまでの披露宴の喧噪が嘘のように、今は二人きりだ。だが、その空気は重い。ダリオンは窓の外を眺めたまま、微動だにしない。レクシアは少し迷った末に、緊張しつつ彼に話しかける。

「あの……改めまして、ダリオン様。今日は本当にありがとうございました。これから、よろしくお願いいたします」

 すると彼は、ほんの一瞬だけレクシアに目線を向けたようだったが、すぐに窓の外へと視線を戻し、言葉を返す。

「……君の協力が必要だから結婚したまでだ。これからのことは、公爵家で改めて話そう」

 その言葉に、レクシアは戸惑いを隠せない。彼の言う「協力」とはいったい何を指すのだろう。政略結婚はお互いの家に利益をもたらすためのものだと思っていたが、それ以上の何かがあるのだろうか。

 とはいえ、今ここで問い詰めるわけにもいかない。レクシアはひとまず黙ってうなずくしかなかった。ダリオンの横顔はまるで仮面を被っているかのように、感情を読ませない。


 そうこうしているうちに、馬車は公爵家の領地へ向かって進んでいく。町の通りでは人々が結婚行列を見物しようと集まっていたが、ダリオンが乗る黒塗りの馬車には近づきがたい雰囲気があるのか、皆、一歩引いたように道の端へ寄っているようにも見えた。王家に次ぐ格式の公爵家、その恐るべき威光を肌で感じる。

 およそ小一時間ほどかけて、馬車はアングレード家の本邸へと到着する。巨大な門が開かれ、整然と整えられた庭園の奥には、白亜の城館がそびえ立っていた。伯爵家の屋敷もそれなりに広く美しかったが、公爵家の邸は比べものにならないほど豪壮だ。その外観は大理石の柱に彩られ、神殿のように厳かな造りをしている。

「ようこそ、アングレード公爵家へ」

 玄関前には執事らしき初老の男性が姿勢よく立ち、出迎えてくれた。他にも使用人がずらりと並んでいるが、その視線は一様にダリオンではなく、あくまで「新しく来た公爵夫人」であるレクシアを観察するようなものだった。

 レクシアは息をのみつつ、馬車から降りる。ドレスの裾を気にしながら一歩踏み出すと、アングレード家の執事が深々と頭を下げてくる。

「はじめまして、レクシア様。わたくしは当家の執事を務めるオルディスと申します。今後、何かお困りの際は遠慮なくお声かけくださいませ」

「ありがとうございます。お世話になります……」

 レクシアがそう答えたところで、ダリオンが先に邸内へと歩き出した。そのあまりの素っ気なさに、執事は慣れているのか動じることなく微笑み、レクシアに「どうぞ」と促す。


 広々とした玄関ホールを抜け、大理石の階段を上がると、そこには長い回廊が伸びていた。シャンデリアが煌めき、赤い絨毯が敷かれた優美な空間。壁には歴代の公爵家当主の肖像画や、由緒ある芸術品が飾られている。

 ダリオンは特に説明もなく、奥の部屋へと進んでいく。レクシアは彼の足取りについていくが、先導する彼の背中は冷ややかで、レクシアにとっては何とも言い難い孤独を覚えるものだった。

「……失礼いたします」

 ダリオンが部屋に入ると、執事が続いて扉を開け、レクシアを促す。そこは応接室のようだったが、部屋の中央にはテーブルとソファが置かれており、その周囲には数冊の古めかしい書物や文書が並べられている。


 ダリオンはソファに腰を下ろすと、レクシアをじっと見つめる。まるでこれからビジネスの話をする相手を品定めするかのような眼差しだ。レクシアは少し怖くなりながらも、視線を受け止めて少しだけ姿勢を正す。

「君には、エルデ伯爵家の財政を救うだけでなく、我が家の用事にも協力してもらう」

 先ほど馬車で言った言葉を繰り返すかのように切り出すダリオン。

「わたしにできることがあれば……ご要望に応えたいと考えています。ですが、どのような協力でしょうか」

「おいおい話す。まずは今後、公爵家の当主夫人として、王宮の行事や社交界にも顔を出すだろう。そこでは多くの貴族が君を見ることになる。だから……下手なことはするな」

 冷たい声音で、まるで警告するようにダリオンは言葉を続ける。

「今後、我が家の名を背負う存在として、君には完璧な淑女として振る舞ってもらわねばならない。わかるな」


 レクシアはぎゅっと唇を結び、うなずくしかない。そもそも「花嫁修業」という名目で礼儀作法や社交の振る舞いは一通り学んできたが、ダリオンの態度はそれらを上回る厳しさを感じさせる。

「はい。承知しました。私はエルデ家の名を汚さないように、そしてアングレード家の夫人としても恥ずかしくないように努めます」

 そう答えると、ダリオンは少しだけ目を細める。そしてソファから立ち上がり、窓際に歩み寄って外を眺めた。

「……今日は長かった。君も疲れているだろう。部屋はもう準備してあるから、侍女を通じて案内させる。あとは自由にしていい」

「はい。ありがとうございます」


 ダリオンはそれ以上何も言わず、静かに部屋を出て行った。レクシアが一人取り残された部屋の中には、先ほどまでの彼の冷たい気配だけが残っているように感じる。

 まだ初日だというのに、彼の態度や言葉に振り回されて頭が混乱している。結婚というのは本来、もっと暖かいものだと信じていたはずだが……現実はこうなのだろうか。


 やがて控えていた侍女が部屋に入り、レクシアを寝室へと案内した。そこは広々とした部屋で、天蓋付きの大きなベッドがあり、窓からは庭園が一望できる。調度品も伯爵家とは比べものにならないほど贅沢だ。しかし、レクシアの心は依然として重く、家具の豪華さよりも「自分はここで孤独に過ごすのだろうか」という不安が増していた。

「本日はお疲れでしょうから、ゆっくりお休みくださいませ。お着替えや夜着などはすでに揃えております」

 侍女の言葉に礼を言い、レクシアはドレスを脱いで寝間着に着替える。衣擦れの音が妙に耳に残り、結婚式が夢か現実か、わからなくなるほど疲労している自分に気づく。

 着替えを手伝ってもらいながら、ふと侍女に尋ねてみた。

「ダリオン様は、いつもあんな感じ……なの?」

 侍女は躊躇するように少し黙ったが、やがて静かに頷いた。

「はい。公爵家の嫡男という重責がございますし、王宮の政務などでも多忙を極めておられます。あまりご自分の心情を表に出されることは……」

「そう……」

 レクシアはどこか納得したような気にもなり、同時に切なさが増す。もしかすると、あれが彼の“当たり前”の態度であり、今後もずっと自分に向けられるのはあの無表情なのかもしれない。


 侍女が退室し、部屋に一人になると、やっと深いため息をつく。豪奢な寝室に似つかわしくないほど、彼女の心は塞ぎこんでいた。長い一日を振り返ると、式も披露宴もすべてが人形のように動かされていただけのように思える。

「……ここからが、私の新しい人生なのね」

 自嘲気味に呟いた声は、自分で思っていたよりも弱々しかった。

 しかし、伯爵家を支えなければならないという使命感が、彼女の心を押しとどめる。そう、もう後には引けないのだ。もしここで投げ出すようなことがあれば、エルデ伯爵家は取り返しのつかないダメージを負うだろう。自分を慕ってくれる母や姉、使用人たち、そして父の想いを踏みにじるわけにはいかない。


 ベッドに横たわり、天蓋のレースを見つめているうちに、少しずつ意識が遠のいていく。今日はあまりにも急激な環境の変化と、重圧に耐え続けたせいか、疲労が尋常ではない。瞼が重くなり、思考が薄れていく中で、レクシアは最後に小さく呟く。

「……ダリオン様って、どんな人なんだろう……」

 そうして彼女は、何の答えも得られないまま眠りについた。



---


 翌朝。新居での初めての朝を迎えたレクシアは、目を覚ました途端に「ここはどこだっけ?」という錯覚を起こした。いつもと違うベッド、違う天井。ほんの数秒だけ混乱し、それから昨日起こったすべての事柄を思い出して苦しくなる。

 夜が明けても、もはや伯爵家ではなく、公爵家の夫人としての一日が始まる。ダリオンはこの屋敷のどこかにいるのだろうが、昨日の態度を思い出すと、顔を合わせるのが気が重かった。

 ノックの音に促されて「どうぞ」と声をかけると、侍女が朝食の準備を知らせに来てくれる。

「ダリオン様はすでに執務室へ向かわれました。奥様は食堂へいらっしゃってくださいとのことです」

 奥様――それはレクシアにとって初めて呼ばれる呼称だった。ほんの少し、その響きに戸惑いを覚える。


 寝間着のままでは失礼なので、侍女が用意したドレスに袖を通し、急いで身支度を整える。化粧台の鏡に映ったレクシアの顔は、まだどことなく憔悴の色が残っているが、それでも「公爵夫人」として見劣りしない程度には整えようと意識を向けた。

 食堂へ向かうと、そこにはダリオンの姿はなかった。代わりに執事のオルディスが待っており、上品に整えられた朝食をテーブルに並べている。

「ダリオン様は本日、早朝から公務で城へ向かわれました。奥様には先にこちらでお食事をお楽しみいただきたいとのことです」

「そう……早いのね」

 胸の奥が寂しくなるのを覚えながら、レクシアはテーブルに腰を下ろす。結婚して初めての朝食を、夫不在でとることになるなんて、少々味気ないと思ってしまう。それでも礼儀として、気持ちを切り替えて食事に向き合おうとする。

 朝食はスープにパン、軽いサラダと果物に加えて、ハムやチーズも並べられ、見るからに高級な食材だというのがわかる。伯爵家でも十分に贅沢な食事が出ていたが、公爵家はその上を行く。味はとても美味であるはずなのに、レクシアの口にはあまり進まなかった。


 ただ、一人で黙々と食事をとるしかない。この先、彼女はこうして孤独に過ごすことが多くなるのではないか――そんな予感が、頭をもたげる。

(ダリオン様は何のために私と結婚したんだろう。協力って何を指すのか、早く知りたい。でも、彼は忙しそうだし……)

 そう考え込みながらも、レクシアは言われたとおりに食事を済ませる。初日から勝手に振る舞うわけにもいかず、彼が戻るまでどう過ごしていいかもわからない。やがて執事のオルディスが控えめに声をかけてくる。

「奥様、よろしければ館内を少し見て回られますか? この屋敷は広いので、まずは必要な場所だけでもご案内いたしますが」

 助け舟のような申し出に、レクシアは少しほっとした。行き場のない状態のままでは、余計に不安が募ってしまう。

「ぜひお願いします。何もわからないままですと、侍女さんたちにも迷惑をかけてしまいそうですから……」

「かしこまりました。それではわたくしがご案内いたします」


 こうしてレクシアは、公爵家の屋敷をひととおり見て回ることになった。広大な敷地には庭園や温室、使用人用の建物や倉庫などもあるが、まずは主に夫人として使う予定の部屋や客間、応接室などを中心に案内を受ける。伯爵家の屋敷とは比較にならないスケールと豪華さに圧倒されつつ、レクシアはなんとか必死に場所を覚えようと努めた。

 使用人たちは皆、丁寧に頭を下げ、「奥様」と称して出迎えてくれる。レクシアはぎこちなく微笑み返すが、自分が彼らの上に立つ立場になったのだと思うと、やはり落ち着かない気分だった。


 案内がひと段落する頃には、午前中がほぼ終わりを迎えていた。

「奥様、お疲れではありませんか。お部屋で少しお休みになられますか」

 オルディスの気遣いに礼を言いつつも、レクシアは首を横に振る。

「いえ、大丈夫です。……あの、ダリオン様のご予定はいつお戻りか、ご存知ですか?」

「今日は王宮での政務が立て込んでいるようで、夕方か、あるいは夜遅くになるかもしれません」

「そう……わかりました」

 あまりにあっさりとした答えに、やはりレクシアの胸に淋しさが募る。昨晩もほとんど話らしい話はできなかった。結婚してまだ一度も、夫婦としてまともに会話をしていない気がする。


 それでも、焦っても仕方がない。レクシアは当主夫人として公爵家のことを少しずつ覚えながら、いつかダリオンと向き合い、自分の役割や気持ちを伝えたいと強く思った。それが、政略結婚であろうとも――。



---


 こうして始まったレクシアの新婚生活は、幸せとは程遠い幕開けだった。冷酷と噂される夫ダリオンが何を考えているのかもわからず、頼るべき家族はもう近くにいない。

 ただひとつ、彼女の心をつなぎとめているのは、家を守るために婚姻を受け入れたという自負。そして、まだかすかに残る「夫婦としていつか理解しあえるかもしれない」という小さな望み。

 レクシアは自問する――この結婚は本当に正しかったのだろうか。

 その答えを探すためにも、まずはアングレード公爵家での日々を乗り越えなくてはならない。愛のない契約結婚だと思っていたが、果たしてその先にあるのは、さらなる悲哀か、それとも……。


 運命の日々は、まだ始まったばかりだった。



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