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第9話

 通話を切ったあと、俺の口からはため息が漏れた。


 これまでの行いが良かったおかげか、どうにかお咎めはなかったけれど、初めて遅刻してしまったことに自己嫌悪中の俺は、いまだにベッドの上でうつ伏せになったままだ。


「でも、それは……隣に引っ越してきた聖修のせいで……あ、いや……聖修のせいにはしたくないんだけど……」


 そんなふうにのんびり考えていた俺だけど、やっぱり平日の昼間に家にいるのは、どうにも落ち着かない。


 平日の昼間——世間の人たちは仕事や学校に追われている時間帯。


 だけどそのおかげか、マンション内は静かに感じられた。確かにドアを閉めていれば、外の音なんてほとんど聞こえてこないけれど、それ以上に“気配”がないというか……とにかく、そんな静けさだった。


 昨日の夜は、聖修が隣に引っ越してきたばかりで若干騒がしく感じたけれど、今この時間は至って静かだ。


 まあ、聖修も昼間は仕事なのだろう。だから今日はもう外出していて、部屋が静かなのかもしれない。


 今、世間で一番人気のあるのは、聖修が所属しているアイドルグループだ。


 そのグループは六人組。俺が彼らを好きになったのは、社会人になったばかりの頃だった。


 ニュースや歌番組でちょくちょく見かけてはいたが、あの頃はまだデビューしたてだったことを思い出す。


 何気なくテレビ番組を見ていたとき、気がつけば俺は、そのグループの中の聖修だけを目で追っていた。


 気づいたときには、グッズやDVDを買い揃えていて、部屋の中はそのグループのポスターでいっぱいになっていた。それくらい、俺は聖修のことが好きになっていたのだ。


 もちろん、そのグループのライブも毎年ツアーがあって、近場の会場であれば必ずチケットを取って観に行っていた。ただ、これだけ人気のアイドルになると、チケットは争奪戦。ファンクラブに入っていない一般人がネットでチケットを取ろうとすれば、五分以内に売り切れてしまうような、まさに“プラチナチケット”状態だった。


 その洗礼を一度経験した俺は、即座にファンクラブに入会し、ついには最前列の席まで取れるようになったのだ。


 とはいえ、ライブ会場に行くと、やはりファンの大多数は女性だ。


 でも俺はそんなことはまったく気にしない。ファンクラブに入り、チケットが取れれば、何度だってライブに足を運ぶほど、俺は聖修のことが好きになっていた。


 しかもファンクラブに入っていれば、確実にチケットは手に入る。一般発売分というのは、ファンクラブで余った分だけだから、五分で売り切れるのも当然なのだ。


 そして、ライブではファンクラブ会員が最前列を優先される——つまり俺は、その最前列で全力で応援しているというわけだ。


 周囲の女性たちからは、やや引かれていたような気もするが、俺自身はそんなのまったく気にしない。だって、好きなものは好きなんだから。


 ファンである限り、誰が応援したっていいだろ?


 それなら俺は、好きになったからには応援し続けるタイプなのだ。


 ……それだけのこと。


 そう思い返していたら、逆に気持ちが高まってきた。


 そうだ! 今はあの憧れだった、いや、ファンだった聖修が俺の家の隣に引っ越してきたんだ! こんなことでヘコんでる場合じゃない。聖修のことで俺の心はすでに満たされている。そう自分に気合いを入れる。


 思いっきりファンの子たちに自慢したいけど……そこはもう、聖修に「他言しないでね……」と言われているから、それは絶対に守る。


 うん……絶対。これは俺だけの秘密だ。


 それだけでも、今日はなんだかテンションが上がってくる。


 確かに朝はひどい出来事があったけれど、いま目の前にある現実を考えれば、気分が上がるのも当然だ。憧れの聖修との約束、そしてふたりだけの秘密。それがあるだけで、嬉しい気持ちになってくる。

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