モルトフェルト王国の首都ロゼンベルクは、白亜の城とその周囲を囲む貴族街の美しい調和によって、訪れる者を魅了する。しんしんと降る雪が石畳を白く覆い、街角には淡い灯りが揺れていた。静かな冬の夕刻、王宮の舞踏会場はいつになく熱気を帯びている。
この夜は王国の重要な行事の一つ——すなわち王家の婚約発表を含む、盛大な晩餐会が開かれる日だった。国王と王妃が主催し、王家に縁のある貴族を中心に多くの人々が招待されている。新年を迎えて最初の大イベントでもあり、王城に集った人々は華やかなドレスやタキシードを身に纏い、煌びやかな宴を楽しんでいた。
その場の一角で、少し離れたところから人々の様子を見つめる一人の若き令嬢がいた。
マリーナ・アルヴィス。公爵家の長女であり、艶やかな漆黒の髪と青い瞳を持つ、美しく気品ある女性である。純白のドレスに、繊細な銀糸の刺繍があしらわれたショールを羽織り、凛とした佇まいはまるで雪の女王のようでもあった。
彼女は本日の主役の一人——そう、第二王子クラウス・フォン・モルトフェルトの婚約者として、正式に紹介されるはずだった。国王や第一王子リュカも公認している、由緒正しき大公爵家と王家の縁組。本来であれば、今夜はマリーナにとって人生の節目ともいえる喜ばしい日になるはずだったのである。
しかし、マリーナの胸中はどこかざわついていた。
すでに正式な婚約は取り交わしているとはいえ、二人揃って公の場に出ることは意外にも初めてだ。以前から、王宮での顔合わせやお茶会などは何度か開かれていたが、ここまで大勢の目に晒される機会はなかった。
どこか落ち着かない気持ちを覚えながらも、マリーナは完璧な笑みを浮かべ、常に周囲に礼を欠かさない。その振る舞いには多くの貴婦人たちが感嘆の声を漏らす。「さすがはアルヴィス公爵家の令嬢」「品があるわね」といった称賛のささやきが、会場のそこかしこで聞こえた。
そして当の第二王子、クラウスの姿はというと、先ほどから会場を慌ただしく動き回り、ほとんどマリーナの元には近寄ってこない。彼はやや神経質そうに笑みを浮かべ、女官や侍従と何やら言葉を交わしているようだ。その態度を不審に思う者もいたが、多くの人々は「大きな行事で緊張しているのだろう」と流していた。
マリーナ自身も、クラウスが落ち着きのない様子を見せるのは珍しいことではないと思っていた。彼は優秀だが少し気弱いところがある。幼い頃から体があまり丈夫ではなく、社交の場でもどこか儚げな印象を与える王子だった。そんな彼を支えるよう、マリーナはいつも心がけてきたのだ。
夜も深まり、宴の最後のメインイベントとして、国王と王妃が玉座の前に立ち上がる。場内が静まり返り、次いで待ち望んだ声が響き渡った。
「皆の者、本日はご足労いただき誠に感謝する。先ほどまでの祝宴を楽しんでいただけただろうか」
王の堂々とした声が響く。集まった貴族たちが一斉に恭しく一礼する。王は満足げにうなずくと、まっすぐに前を向いた。
「では、ここで第二王子クラウス・フォン・モルトフェルトより、重大な発表がある。よく耳を傾けるように」
クラウスは国王の一歩後ろ、玉座の横手に立っていた。呼びかけを受けて前に出てくると、周囲を見渡すように視線を巡らせる。その顔は青ざめ、唇は震えていた。マリーナはその様子を少し離れた場所から見つめている。
(やはり大勢の前に立つのは慣れていないのね……)
幼い頃から内気な性格だったクラウス。彼を支え、一緒に王国内の様々な行事に参加し、公務の補佐に入ったのもマリーナだった。そうした過去を思い出し、彼女は控えめに微笑んだ。自分の役目は、きっと王子の不安を取り除き、落ち着かせることだ。だがこのとき、マリーナはまだ、自分の運命が大きく変わることを察してはいなかった。
クラウスは震える声で一度咳払いをし、意を決したように言葉を発する。
「本日は……本日は、私から皆さまに報告がございます。これまで公爵令嬢マリーナ・アルヴィス様とは、婚約関係にございましたが——」
その言葉が途中で途切れた瞬間、場内が奇妙な静けさに包まれる。誰もが次の言葉を待ち、疑問を抱えながら息を呑んでいた。
「……私は、真に愛する人を見つけました。よって……よって、マリーナ・アルヴィス様との婚約を、ここに破棄いたします」
それまで微かに囁き合っていた人々の声は、ぴたりと止む。耳を疑うほどの衝撃的な発表に、会場中が凍りついたかのようだった。
マリーナ自身も、一瞬何を言われたのか理解が追いつかない。脳裏が真っ白になり、思考が止まってしまう。この場は自分たちの婚約発表の場であるはず。なぜ、今になって「婚約破棄」という言葉が出るのか。
「そ、そんな……」
やがて、会場のあちこちから混乱の声が上がり始める。中には侍女や近侍が小走りで駆け寄ろうとする姿も見える。しかし、それらを制するかのようにクラウスは続けた。
「先日、私は運命的な出会いをしました。その方は……アルヴィス公爵家に仕えていた侍女で、イレーネ・コールマンと申します」
その名を聞いた瞬間、マリーナは思わず息を呑む。イレーネはほんの数カ月前まで自分の侍女として仕えていた女性だった。貴族の血筋ではないが、読み書きが上手く、家事の腕も確かで、マリーナは彼女を信頼していた。いわゆる「近しい侍女」として、日々の身の回りの世話だけではなく、心の内を語り合うことすらあった。
しかし、突然「辞めたい」と言い残して屋敷を去ったのだ。マリーナは「何か事情があるのだろう」と深く追及はしなかったが、そのとき僅かに胸をかすめた違和感は、今ここで最悪の形で現実となる。
イレーネがクラウスの元へ歩み寄ってくる。ラベンダー色のドレスを身に纏い、かつて侍女として見慣れていた地味な装いとはまるで別人のように華やかな姿だ。
しかし目元の笑みは、マリーナもよく知るイレーネのまま。
イレーネは深々と礼をして、クラウスの隣に並ぶ。クラウスはその肩を抱き寄せ、「私が求めていたのは彼女なのです」と自信なさげながらも断言した。
王や王妃、さらには第一王子リュカまでもが困惑した表情を浮かべている。特にリュカの瞳には「これは一体どういうことだ」という怒りにも似た感情が宿っていた。だが、今ここで止めようにも、すでにクラウスが言い放った言葉は覆せない。
しかもクラウスが続けざまに出した言葉はさらに衝撃的だった。
「イレーネ……いや、イレーネ・コールマン嬢こそが、私の真の婚約者であると、ここに宣言いたします!」
会場が一斉にざわめき始める。王族の婚約発表の場で、既存の婚約者を蔑ろにして、侍女出身の女性を新たな婚約者として紹介する——これは国中を揺るがすスキャンダルにほかならない。
マリーナは息をのんだまま、凍り付いたようにその場から動けない。頭の中では何度も「これは悪い夢では?」と問いかけていた。だが、現実は目の前で起きている。
「クラウス殿下! 一体どういうおつもりですか!」
王宮の重鎮の一人、宰相が血相を変えて声を上げる。
「アルヴィス公爵家は、陛下や王妃様、そして我々も認めた正当な婚約相手です。なぜそれを公衆の面前で、しかもこのように一方的に……」
しかし、クラウスはその怒声を聞きながらも首を横に振るだけ。彼の腕の中にいるイレーネが、目尻を少し下げてまるで悲劇のヒロインを演じるかのように身をすくませる姿を見たとき、マリーナははっと我に返った。
(落ち着かなくては……)
恐らく、今ここで取り乱し、泣いたり取りすがったりすることは逆効果にしかならない。この場をさらなる混乱に陥れるだけだ。ましてや公爵令嬢の名誉にも関わる。
マリーナは息を整えると、ゆっくりと足を進める。ドレスの裾を踏まぬよう丁寧に一歩一歩。やがてクラウスとイレーネがいる壇上の近くにたどり着くと、静かに深く頭を下げた。
「殿下、ご意志はよく分かりました。ですが、どうか一つだけ教えていただけますか。私との婚約は、殿下のご意思でもあり、陛下や王妃様、さらには国中も認めていたはず。それを覆すだけの理由が、このイレーネ・コールマンという女性にあるのでしょうか」
その声は静かだが、会場の全員に届くほどの張りがあった。クラウスは一瞬だけ戸惑ったように視線を彷徨わせるが、すぐにイレーネが助け舟を出すように口を開く。
「マリーナ様……殿下は、お優しいのです。私の境遇を憐れんで、色々とお気遣いをいただきました。それがきっかけで、お互いの本当の気持ちに気づいたのです。——マリーナ様こそ、お気の毒に……でも、これは運命なのですわ」
イレーネの表情は申し訳なさそうにも見えるが、その瞳にはどこか嘲笑めいた光が宿っている。かつてマリーナが知っていた控えめで有能な侍女の姿は、もはやそこにはなかった。
クラウスもそれに呼応するように頷くと、小さく息をついて言う。
「すまない、マリーナ。君のことを傷つけたくはないんだ。でも、僕は本当の愛を見つけたんだよ。……イレーネこそが、僕にとって必要な女性なんだ」
その場にいた人々の多くが、あまりの身勝手さに呆れ、あるいは同情の眼差しをマリーナに向ける。
しかしマリーナは、あくまで冷静な面持ちを保ったまま静かに頭を下げた。長い黒髪がサラリと肩を滑り落ちる。
「よく分かりました。殿下のご意思が揺るぎないものであれば、私としても……何も申し上げることはございません。ただ、私との縁を断ち切るということは、アルヴィス公爵家との縁も断ち切るということ。——その覚悟はおありなのですね?」
周囲の視線がマリーナに集中する。彼女の冷静な言葉には、ただ穏やかに従うだけでなく、公爵家としての威厳と覚悟がにじんでいた。
クラウスは一瞬たじろいだが、すぐにイレーネに目配せされ、小さく頷く。
「もちろん……決めたのだから。たとえ父上や母上が何と言おうとも、僕はイレーネと添い遂げる」
まるで周囲が目に入らないかのように言い切るクラウス。その一方で、国王と王妃は困惑を隠せず、壇上で言葉を失っていた。宰相はもちろん、貴族の重鎮たちも頭を抱えるようにしている。
マリーナはその空気を感じ取りながらも、瞳を伏せて微笑む。腹の底に熱い感情が湧き上がるのを感じながら、それを押し殺すようにふっと息を吐いた。
(この場を荒立てるのは得策じゃないわ。王家のスキャンダルになろうと、私が取り乱したら負け。冷静さを失わないようにしなくては……)
そしてマリーナは、今の状況をどう収めるかを即座に考えた。もしここで泣き崩れたり、クラウスにしがみついたりすれば、周囲からは「醜態をさらす公爵令嬢」として記憶されてしまうだろう。アルヴィス家の誇りは汚され、何よりマリーナ自身の今後が危ぶまれる。
ならばここで、自分は毅然と立ち去るしかない。自らの尊厳を守るためにも。
「——分かりました。では、婚約はこれをもって破棄いたします」
すっと背筋を伸ばしたまま、マリーナははっきりとした声で言い放つ。その姿はあまりにも堂々としていて、クラウスもイレーネも、さらに言葉を返すことができない。
マリーナはクラウスに深く一礼し、会場の中を見回すと、最後に玉座に座る国王と王妃に頭を下げた。
「陛下、王妃様、混乱を招いてしまい申し訳ございません。アルヴィス公爵家の名代として、一刻も早く事態を収拾いたします。どうか今日はこれで失礼させてくださいませ」
それだけ言うと、マリーナは振り返ることなく会場を後にする。追いすがる声も聞こえたが、彼女は立ち止まらなかった。まるで人形のように、感情を捨て去ったかのように、冷たい瞳のまま王城の外へと足を運んでいく。
その姿を見て、残された人々は口々に囁く。「あのような仕打ちに遭いながら、なんという冷静さ……」「さすがは公爵令嬢だ……」と。
王城の厳かな石の廊下を歩きながら、マリーナは複雑な思いにとらわれていた。
(どうしてクラウス殿下は、こんな急に態度を翻したの? たしかに真面目でいい人だと思っていたけれど、まさかこんな形で私を裏切るなんて……)
怒り、悲しみ、憤り、驚き……様々な感情が渦巻く中で、マリーナは必死に平静を装う。涙は流さない。こんなところで泣いてなるものか。
「お嬢様……」
出口近くまで来ると、屋敷から随行していた侍女の一人が顔を曇らせながら駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか? さっきの話、本当とは思えません……」
「……私にも、まだ実感が湧かないわ。でも、起きてしまった以上は受け止めるしかない」
マリーナは小さく首を振り、周囲の気配を伺う。王城の守衛や廷臣たちが遠巻きに彼女の動向を見守っているのがわかった。おそらくは今の出来事に衝撃を受け、何らかのフォローをすべきか迷っているのだろう。
(ここで騒いでも仕方ない。公爵家へ戻って父と母に報告しなければ……)
そう考えたマリーナは、急ぎ馬車の方へと歩を進める。自身も心が乱れそうになるのを堪え、凛とした背筋を保っていた。
外は先ほどよりも雪が強くなっている。しんしんと降り積もる雪の中、マリーナは濃紺のマントを羽織り、屋敷からの従者が差し出す手にそっと触れて馬車へと乗り込んだ。ドアが閉まると同時に、ふと心が締め付けられるような痛みに襲われる。
(――私は、どうしてこんな目に……)
クラウスとの婚約は、幼少期から決まっていたわけではない。マリーナが十歳を迎える少し前に、先王が崩御し、クラウスは正式に「第二王子」として王家に迎えられた。母親が先代王妃ではなく、クラウスは王位継承権が低い立場とはいえ、王族の一員として認められたのである。
王家の意向もあり、当時大公爵の家系として名高いアルヴィス公爵家は、第二王子クラウスとの縁組を打診された。公爵家はそれを快く承諾する。国の安定を考えれば、アルヴィス家が王家と繋がることは有益だろう、という判断だった。何よりマリーナ自身がクラウスを気に入っていた。繊細で小動物のように儚げな彼を「守ってあげたい」という気持ちが、幼いマリーナの中に芽生えていたのだ。
それからは、マリーナも公爵家も、クラウスを支える形で日々を過ごしてきた。社交界での立ち回りや公務の段取り、さらにはクラウスが持病で体調を崩したときの看病……公爵家の従者や医師を総動員してまで世話をしてきた。
しかし、その結果が今夜の「婚約破棄」だという。しかも、マリーナの侍女だったイレーネと一緒になるなんて——まるで茶番だ。
マリーナは、寒さで震えそうになる体を堪えながら、心の中で小さく呟く。
(なぜあの侍女が……何をどうやってクラウス殿下の心を奪ったの?)
マリーナ自身が彼女を雇った当初は、イレーネは物静かで有能な侍女だった。出自こそ平民に近いらしいが、読み書きの技術も高く、礼節もしっかりしている印象だった。特にマリーナの日常を支える存在としては優秀で、時々お茶をしながら雑談をすることもあった。
あの穏やかな彼女が、いつの間にかクラウス殿下と——。そしてそれが「真の愛」だと強調する。理解を超えた展開に、マリーナの頭は混乱し続ける。
—でも、今はそれよりも……
大粒の雪が窓を叩く音が、妙に耳に響く。
マリーナは深呼吸をし、馬車のクッションにもたれかかった。このまま動揺を抑えきれずにいると、公爵家に着いてから両親へ報告する際に冷静さを失うかもしれない。
(あの場では取り乱さなかったとはいえ、内心は穏やかじゃないわ……)
鼓動が早鐘のように鳴る。屈辱、困惑、そして……どこか怒りにも似た感情。
(必ず取り戻してみせる。私の誇りも、私に与えられた未来も。)
強い決意と共に、再び背筋を伸ばす。何があろうとも、公爵令嬢として、そして一人の女性としての矜持を捨てるわけにはいかない。
馬車はゆっくりと公爵家の屋敷に向かって走っていく。車窓の外には夜の闇と降りしきる雪。王城の喧騒から離れ、静寂に包まれた道を進みながら、マリーナは改めて自身の状況を整理し始めた。
(私には、手札がある。王宮で培った人脈、アルヴィス公爵家の経済力、そして私の知性。……それらを活かせば、こんな屈辱をただ受け入れるだけで終わるつもりはないわ。)
頭の中に幾つかのシナリオが浮かぶ。クラウスとイレーネが本当に「真実の愛」とやらを貫くのなら、それがどんなに美しく見えようと、彼らの行動は王家の慣例を無視した大問題だ。大公爵家を侮辱し、国の秩序を乱すにも等しい行為である。
(私は被害者。……ならば、国の重臣たちも私をないがしろにできないはず。むしろ、私の味方につく貴族は多いかもしれない。)
王家の中でも、第一王子リュカは常識人であり、クラウスの暴走を良しとはしないだろう。おそらく国王や王妃も本音では困っているはずだ。
一方、イレーネは何が目的でそんな形をとったのか。自分が元侍女だという身分を気にせず、第二王子を手に入れて立場を上げたいのか、それとも別の狙いがあるのか。
(いずれにせよ、私への裏切りは許せない。私をここまでコケにしてくれたのだから……覚悟してもらうわよ。)
マリーナはぎゅっと拳を握り、白い手袋がきしむほどに力を込める。頬には熱がこもり、その美しい蒼い瞳には、怒りとも決意ともとれる強い光が宿っていた。
そのまま馬車は公爵家の大きな門へと到着し、門衛が慌ただしく門を開ける。舗装された敷地内の道を走り、屋敷の正面玄関に到着すると、従者たちが馬車を止めてドアを開けた。
「お嬢様、お帰りなさいませ。……その、お顔の色が優れないようですが……」
出迎えた老執事が訝しげにマリーナを見つめる。
マリーナは一瞬ためらったが、やがて静かな声で言った。
「父と母はお部屋にいらっしゃるでしょうか? すぐに、お話ししたいことがあるのです」
執事は深刻そうな面持ちで頷き、案内をする。広い屋敷の廊下を抜け、一番奥にある書斎へと足を進めると、そこにはすでに父アルヴィス公爵と母公爵夫人が待っていた。恐らく、王城での一件が先に伝わったのだろう。
父の公爵は厳めしい表情のまま、テーブルに拳を叩きつけているところだった。母も青ざめた顔で立っている。
「マリーナ……! 何があったのだ? 噂には聞いたが、クラウス殿下が突然、馬鹿げた発言をしたとか……あれは本当なのか!?」
「落ち着いてください、父様。母様にも、申し訳ございません。……残念ながら事実です。クラウス殿下は、私との婚約を破棄し、イレーネ・コールマンという侍女出身の女性を新たな婚約者とすると、公衆の面前で宣言されました」
あらためて口に出すことで、マリーナ自身も胸が痛む。だがここで弱音を吐いている場合ではない。
公爵は血相を変えたまま、隣にある椅子を激しく蹴飛ばしそうな勢いで立ち上がる。
「なんという無礼極まりない行為だ……! これはアルヴィス家への侮辱であり、ひいては王家の面目をも失墜させる愚行! 到底許せん!」
母もその気迫に押されるように肩を震わせている。
しかし、マリーナは父をなだめるように言葉をかけた。
「お怒りはごもっともです。ただ、今すぐ王家に抗議しても、クラウス殿下はあのような性格ですから、強情を張ることでしょう。むしろ、私たちは『被害者』として冷静に行動した方が、国の重鎮たちに味方してもらいやすいはず」
公爵はその言葉にハッと息を呑む。マリーナが続ける。
「母様、父様。私は決してあのまま泣き寝入りするつもりはありません。……ですが、今すぐどうこう行動を起こすよりも、まずは事の全貌を掴む必要があります」
「……というと?」
「イレーネ・コールマンが、どのような手段でクラウス殿下を籠絡したのか。もしかすると彼女一人だけでなく、背後に何らかの協力者がいるのかもしれません。——いずれにせよ、真相を把握しなくては、こちらの手も打ちづらいです」
公爵は娘の冷静な分析に感心するように深く息を吐き、椅子に腰を下ろした。怒りで燃え上がりそうなところを、娘の言葉によって踏みとどまったのだ。
「……なるほど、そうだな。お前の言うとおり、今は冷静さこそが必要だ。なに、国王や宰相も、クラウス殿下がこのまま暴走するのは困るだろう。いずれ、あちらから話し合いの機会を求めてくるはずだ」
「ええ。私たちが無闇に取り乱さず、冷静に対応していれば……国の多くの貴族も、どちらが正しいかを判断しやすくなるでしょうね」
母はそんなマリーナの姿を見つめ、少し顔を曇らせながら言った。
「でも、あなた自身は大丈夫なの……? 本来なら、今夜はあなたが正式に王家へ嫁ぐための大切な席だったのに……つらいでしょう。泣きたいのなら、今のうちに泣いてもいいのよ?」
その言葉にマリーナの胸が少しだけ締め付けられる。だが、彼女は微かに微笑んで首を横に振った。
「ありがとうございます、母様。でも……今は泣いている場合じゃないんです。私は必ず、この屈辱を晴らします。それが私の誇りでもあり、アルヴィス家の名誉でもあるのです」
両親の前で弱音を吐かず、毅然と立っているマリーナの姿に、公爵も公爵夫人も頼もしさと同時に切なさを感じていた。
「……マリーナ、お前は本当に強くなったな」
公爵はまるで感慨深げに娘を見つめる。マリーナは視線をしっかりと受け止めると、一礼して部屋を辞した。
自室に戻り、大きく息をついてから鏡の前に立つ。凍えるように冷たい指先が、ドレスのリボンを解き、窓辺に置いてあるランプを灯した。
暖色の灯りが鏡に映り、そこに浮かぶのは、いつもと変わらない冷静な表情をつくる自分自身……——のはずだった。しかし、鏡に映ったマリーナの瞳は、わずかに潤んでいるようにも見える。
誰もいない部屋で、マリーナはそっと唇を噛んだ。
「私は……弱音なんか、吐けないわ」
手袋を外した素手で、ゆっくりとこめかみを押さえる。先ほどまで抑え込んでいた動揺が、ほんの少しだけ込み上げてくる。
クラウスは、マリーナにとって「守ってあげたい存在」だった。彼の儚げな笑顔や優しい性格に触れ、恋心というよりも庇護欲に近い感情を抱いた時期もある。幼い頃からともに学び、ともに支え合ってきた思い出がどれほどあるか。
それを、あんな形で踏みにじられた。
侍女だったイレーネに……自分を裏切ってまで、彼女の方を選ぶだなんて。
ほんの少し、悔しさに涙がこぼれそうになるが、マリーナはぐっと堪えた。
「……泣いてどうなるの。泣いたところで状況は変わらない。それどころか、私が一番望む『見返す』という目標が遠のくだけ」
胸の奥に小さく灯った炎が、次第に強く燃え上がるのを感じる。
(絶対にあの二人を後悔させてやる。私を切り捨てたことを、心の底から悔やむようにしてやる。)
しんと静まり返った部屋に、マリーナの決意だけが確かに存在した。ドレスを脱ぎ捨て、侍女たちの手も借りずに夜着へと着替える。髪を梳かしながら、彼女の瞳は燃えるような光を宿していた。
「……どんな手段が必要であっても、やり遂げるわ。私は公爵令嬢マリーナ・アルヴィス。もともと臆する性格じゃない。相手が王族だろうが、元侍女だろうが……私を辱めたなら、それなりの代償を支払ってもらう」
夜が深まる中、吹雪の音が窓を叩いている。寒さと暗闇に包まれながらも、マリーナの心はむしろ澄み渡っていた。
クラウスとイレーネが今後どのような動きを見せるのか。王家や貴族たちがどのように対応するのか。まだ先行きは見えないが、彼女には確信があった。
(今夜の私は被害者。そして世間の同情を得られる立場。これを最大限に活かして、自分にとっての有利な状況を作り出していこう。——そのために必要なのは、冷静な分析と準備。それに……)
指輪を外した左手の薬指をそっと見つめる。そこにはかつて、婚約の証としてクラウスから贈られた指輪がはめられていた。それをつい先ほど外し、机の引き出しにしまったばかりだ。
(もう、あなたのものではない。)
思い出に浸るつもりはない。マリーナはしっかりと決意の炎を宿したまま、翌日からの行動計画を頭の中で組み立て始めた。いつまで引きずっていても仕方がない。まずは情報を集め、味方を増やし、自分が不利にならないように立ち回る。それが「復讐」への第一歩だ。
やがてマリーナは机に向かい、サラサラとペンを走らせる。宰相や各貴族への手紙を書くためだった。もちろん、いきなり「クラウスを糾弾しろ」などという強引な文面を送るつもりはない。あくまで「ご心配をおかけしましたが、私は無事です」という挨拶や、今後の動向を穏やかに伺う程度だ。
そうして「公爵令嬢マリーナは乱れていない」というイメージを作っておくことで、周囲から同情と信頼を集めやすくなるだろう。
雪の夜が明ける頃まで、マリーナは一人黙々と手紙を書き続けた。
——こうして、公爵令嬢マリーナ・アルヴィスは突然の婚約破棄という屈辱を受け入れながら、その裏側で冷静に復讐の計画を胸に秘めた。
すべては、婚約破棄を宣言したクラウスとイレーネに、いずれ苦い後悔を味わわせるために。
今はまだ、この雪の夜の静寂の中に、小さく燃える炎を隠している。だが、その炎は確実に大きくなり、やがては王宮と社交界を巻き込む大騒動へと発展していくことになる。
——これは、公爵令嬢マリーナが自らの誇りを取り戻し、そして本当の幸せを掴むまでの物語。その幕開けとなる夜だった。