ここは咲の勤める市立図書館。午後の日差しが、高い窓から柔らかく降り注ぎ、埃が光の筋の中でキラキラと舞いっていた。この静かな空間には、かすかなページをめくる音と、ペンを走らせる音、そして誰かの咳払いだけが響いていた。
咲は、自分の容姿に自信がなかった。
ぱっちり二重でもなければ、鼻筋が通っているわけでもない。褒められるとしたら、せいぜい「肌が白いね」くらい。
その顔立ちは、咲にとってコンプレックスだった。幼い頃、男子に「ぶー」とからかわれた記憶は、今でも、苦い
それでも、祖母譲りのこの顔を、咲は嫌いではなかった。優しくて、いつも笑顔だった祖母。その面影があるのなら、それでいいと思っていた。
そして本好きが転じて、図書館司書の仕事を選んでいた。人と話すのは少し苦手だけれど、本の森に囲まれたこの静かな場所は、彼女にとって安らげる聖域だった。
真面目で勉強熱心。少し要領は悪いかもしれないけれど、任された仕事はきちんとこなす。ただ、それだけ。周囲からは、地味でおとなしい司書、そんな風に見られていることを、咲自身もよく分かっていた。
カタン、と軽い音を立てて咲は本を書架に戻した。ふと顔を上げると、窓際の閲覧席に、見慣れた後ろ姿があった。
彼は咲の幼馴染だ。家が隣同士で、物心ついた時から、ずっと一緒に過ごしてきた。
明るくて、スポーツ万能で、誰にでも優しくて……おまけに、顔も良い。
子供の頃から、彼はいつも女の子たちに囲まれていた。それは大人になった今も変わっていない。
智也は、分厚い専門書を開き、熱心にペンを走らせている。地元の出版社に勤めていて、仕事熱心で、評判も良い。……自分とは、大違いだ、と咲は心の中で呟いた。
智也と咲は、今でも時々、こうして図書館で顔を合わせる。
昔のように気軽に話しかけることはないけれど、目が合えば軽く会釈をする程度の、そんな関係だった。
智也はいつもと変わらず屈託のない笑顔を向けるが、咲はどこか気まずさを感じてしまい、すぐに視線を逸らしてしまう。
智也は人気者だし、自分なんかでは釣り合わないと咲は感じていた。
智也に話しかける勇気なんて今の咲にはない。一方の智也も、咲のそんな壁を感じ取っているのか、それとも別の理由があるのか、昔のように気安く話しかけてくることはなかった。
ただ、遠くから、時折、優しい眼差しを向けていることに、咲は気づいていなかった。
咲は再びカウンターに戻りパソコンの画面に向かった。新着図書のリストを作成する作業は、単調だけど、咲は嫌いではなかった。集中していると嫌なことも少しは忘れられ気がした。
ブブッ、とポケットのスマホが震えた。画面を見ると、親友の佐藤
『咲、生きてる? 最近、連絡ないけど』
咲にとって志帆は、大学時代からの、たった一人の親友。ファッション誌の編集者をしている彼女は、咲とは正反対。明るくて、おしゃれで、コミュニケーション能力も高い。
『生きてるよ。仕事が忙しくて』
簡単な返信を送る。本当の理由は、それだけじゃない。人生で二番目の彼氏……山本翔太と、別れたばかりなのだ。
理由は一番目の彼氏と同じ。「君とは、もう釣り合わなくなった」……そんな感じの言葉だった。
『ふーん? また男運なかったとか? そろそろ、いい加減、幸せになりなさいよ!』
志帆からの返信はいつもストレートだ。でも、その言葉には、咲への深い愛情がこもっているのを、咲は知っている。
(……幸せ、ね……)
咲に、そんなものが訪れる日が来るのだろうか、と彼女は思った。
志帆のメッセージをきっかけに、咲の記憶は、大学時代へと遡っていった……一番目の彼氏との別れ……
○。○。○。
あの日の、ぎこちない告白。初めての、淡い恋。そして、あまりにもあっけない、別れ……。
あれは、大学二年の春だった。
サークルにも入らず、講義と図書館を往復するだけの、地味な毎日。そんな咲に、彼……
彼も、咲と同じように、教室の隅で、目立たずに過ごしているような学生だった。特別かっこいいわけでも面白いわけでもない。……ごく普通、という言葉がぴったりの人。
講義が終わった後、彼が、おずおずと咲に近づいてきた。顔は真っ赤で、声は小さく震えていた。
「あ、あの……福田さん……」
「……はい?」
咲は、きょとんとして彼を見上げた。自分に何か用だろうか? ノートでも貸してほしいのだろうか、と咲は思った。
「……ずっと、好きでした! ……僕と、付き合ってください!」
……え? 今、なんて……? 告白? 私に?
人生で初めての経験に咲の頭は真っ白になった。心臓が、ありえないくらい速く脈打っているのを感じた。
何しろ、咲はこの顔である。恋愛など、自分には無縁の世界だとずっと思っていたのだ。
「……わ、私で……いいんですか?」
咲は、思わず、そんな言葉を口にしていた。
「君がいいんだ! 福田さんがいい!」
健介は、必死な表情で、そう言った。
その夜、咲は、興奮冷めやらぬまま、志帆に電話した。
「志帆! 大変! 告白されちゃった!」
《ええーっ!? 誰に? 誰に告られたのよ! ついに咲にも春が!?》
志帆は、電話の向こうで、咲以上に大騒ぎしていた。
「高橋くん……って、覚えてる? 同じクラスの……」
《高橋……? ああ、あの大人しそうなメガネくん? ……へえ、意外。でも、良かったじゃない! で、返事は? まさか、断ってないでしょうね!?》
「まだ……。どうしよう、私、付き合ったことないし……それに、私なんかで、いいのかなって……」
《何言ってんのよ! 自信持ちなさいよ! 福田咲の魅力は、顔じゃないんだから! OKしなさい!》
志帆の力強い言葉に背中を押され、咲は、健介の告白を受け入れることにした。
生まれて初めての、彼氏。世界が、急に色づいたように感じられた。
初めてのデートは近くの公園だった。何を話せばいいのか分からず、ぎこちない沈黙が何度も訪れた。
健介もまた咲と同じように緊張していて、二人でただベンチに座って、流れる雲を眺めていた。それだけで、咲の胸はいっぱいで、幸せを感じていた。
健介は優しい人だった。咲の話を、いつも真剣に聞いてくれた。咲の趣味である読書や、図書館の話にも、うんうんと頷きながら、興味深そうに聞いてくれた。
そして、咲が時々作っていく、お世辞にも上手とは言えないお弁当も「美味しい」と言って、残さず食べてくれた。
咲は、健介のために何かしてあげたいと思った。彼は少し勉強が苦手なようだったから、彼のレポート作成を手伝ったり、試験前には一緒に図書館で勉強したりした。特に、咲の得意な歴史の講義ノートは、彼にとってかなり役立ったようだった。
すると、健介の成績が目に見えて上がっていったのだ。今までギリギリで単位を取っていた彼が、難しい専門科目の試験で、A評価を取るようになった。
「すごいじゃない、高橋! お前、最近どうしたんだ?」
周りの友達からも、驚きの声が上がるようになった。
「いやあ、まあね。……咲のおかげかな」
健介は、照れながらも、嬉しそうに言った。
咲は、彼の役に立てたことが本当に嬉しかった。彼が褒められると自分のことのように誇らしかった。
彼の快進撃はそれだけでは終わらなかった。
難関と言われていたゼミの選考にも見事合格。そして、就職活動では、誰もが羨むような、超大手企業から複数の内定を獲得したのだ。最終的に彼が選んだのは、業界トップクラスの総合商社だった。
(……あれ?)
でも、その頃からだろうか。
ほんの少しだけ、何かが違う、と咲が感じ始めたのは。
健介の周りには、以前にはなかった華やかさが漂い始めていた。飲み会や合コンに誘われる回数が増え、彼の携帯には知らない名前の女性からの着信やメッセージが見られるようになった。
咲とのデートの約束も、「急用ができた」「友達と約束がある」といった理由で、ドタキャンされることが増えていった。
咲は不安だった。まさか、浮気……?
そんな疑念が心の隅をよぎる。それでも、咲は彼を信じたいと思った。彼はそんなことをする人ではないはずだ、と。
……ただ、彼が忙しくなっただけだろう。成功したのだから付き合いが増えるのも仕方がない。咲はそう思うことにした。自分の考えすぎなのだ、と。