大学四年の後半、高橋 健介の変化は、もはや誰の目にも明らかだった。
以前の少し野暮ったい服装は影を潜め、ブランド物のスーツや時計を身につけるようになった。
髪型も洒落たものに変わり、自信に満ちた表情で、いつも取り巻きのような友人たちと連れ立って歩いている。まるで、
咲とのデートの回数は激減し、たまに会えたとしても彼の態度は以前とは全く違っていた。
「咲、悪いけど今日は早く帰るわ。明日、大事なプレゼンがあるんだ」
おしゃれなカフェで彼はスマホを頻繁にチェックしながらそう言った。画面には、咲の知らない女性の名前が表示されているのが、ちらりと見えた。以前なら、そんなことは決してなかったのに。
「……うん、分かった。頑張ってね」
咲はそう答えるしかなかった。胸の奥が冷たくなるのを感じながら。
健介は、もう、自分を見ていない。彼の興味は、入社する一流企業、新しい友人、そして……新しい女性へと移ってしまっている。
咲は、その現実を痛いほど感じていた。でも、別れを切り出す勇気はなかった。初めての彼氏を失うのが怖かった。そして、心のどこかで、まだ彼が昔の優しい健介に戻ってくれるのではないかと淡い期待を抱いていたのかもしれない。
健介の方も明確に別れを切り出すつもりはないようだった。
彼は、咲の存在を、まるで都合の良いアクセサリーか、あるいは自分が成功するための幸運のお守りのように扱っている節があった。咲と付き合ったら全てがうまくいった。そんな都合の良いパワーストーンのような存在だと、無意識に思っていたのかもしれない。
しかし、別れは突然、残酷な形でやってきた。卒業式も間近に迫った、冷たい雨が降る日だった。
大学の帰り道、彼が咲を呼び止めた。いつもの待ち合わせ場所とは違う、
「咲、話があるんだ」
彼の表情は硬く、どこか吹っ切れたような、冷たい光を宿していた。
「……うん、何?」
咲は嫌な予感を押し殺しながら尋ねた。心臓が嫌な音を立てて早鐘のように打っている。もう、覚悟はできていたのかもしれない。冷たい雨が咲の頬を濡らしていた。
「……俺たち、別れよう」
彼の言葉はナイフのように咲の心を突き刺した。冷たくて、鋭くて、あまりにも唐突だった。
「……どうして…? 私、何かした……?」
涙が溢れてくるのを必死に堪えながら咲は尋ねた。
分かっている。分かっているけれど、聞かずにはいられなかった。理由が知りたかった。納得なんてできないけれど、せめて、理由だけでも……。
「……別に、咲が何かしたわけじゃない。……ただ、俺には、もっと、ふさわしい相手が見つかったんだ」
彼は、そう言って悪びれる様子もなく言い放った。不要になった物を捨てるかのように、軽い口調で。
「ふさわしい……相手……?」
それは、あのカフェで見た華やかな女性のことだろうか。それとも、彼の携帯によく連絡をよこしていた、別の女性だろうか。
「ああ。……正直言って、咲とは、もう、住む世界が違うんだよ。俺は、これから、エリートとしてもっと上の世界に行く。……それには、君じゃ、力不足なんだ」
彼は、そう言って咲を見下した。その目は、冷たく、そこには、かつての優しさのかけらもなかった。
そして、彼は、とどめを刺すように言った。
「……まあ、君のおかげでここまで来れたことは感謝してるよ。利用したようになっちゃったけど……」
利用……。
その言葉が、咲の心を粉々に打ち砕いた。
ただ利用されていただけ……? 初めての恋は、そんなものだったの……?
咲は、何も言い返せなかった。
ただ、涙が止めどなく溢れてくる。雨に打たれながら声もなく泣いた。頬を伝うのが、雨なのか涙なのか、もう分からなかった。咲の初めての恋は、こんなにも惨めで、苦い味で、終わってしまった。
。○。○。○
……あの時の胸を切り裂くような痛みは、今でも忘れられない。そして、彼の嘲笑うかのような、冷たい目も……。
図書館のカウンターに戻った咲は、スマートフォンの画面を再び見た。親友・佐藤 志帆からのメッセージが表示されている。
『で? 山本くんとは、結局どうなったのよ? まさか、また……?』
……また、同じことの繰り返し。
咲は、力なく、画面に指を滑らせた。
『……うん、まあ、そんな感じ』
そう返信するのが精一杯だった。
元同僚だった彼も健介と全く同じ道を辿った。
咲と付き合い始めてから成功し、人が変わったように傲慢になり、そして、「君とはもう価値観が合わない」と言って咲はフラれた。あの時も、彼の隣には知らない女性の影があったような気がする。
すぐに志帆から返信があった。怒りの絵文字が大量に並んでいる。
『はあ!? また!? 信じらんない! あの山本って男も結局ダメだったわけ!?』
その文面から志帆が本気で怒ってくれているのが伝わってくる。咲は、少しだけ心が温かくなるのを感じた。
『……分からない。私が、何か悪いことしたのかな』
咲は、つい、弱音を吐いてしまった。
健介くんの時も、翔太くんの時も、最初はうまくいっていたのに、相手が成功した途端に関係が壊れた。それは、自分に関係を繋ぎ止めておける魅力がないせいなのではないか、と。
『咲のせいじゃないってば! 全く、男って成功するとすぐ調子に乗るんだから! 咲みたいな良い子を振るなんて、彼らも本当に見る目がないっていうか、もったいないことしたわよねぇ。 ま、こっちから願い下げよ! 気にすることないって!』
志帆からの返信は、力強くて頼もしかった。ただ、親友が自分のために怒り、励ましてくれることが、今は素直に嬉しかった。
『……ありがとう、志帆。……でも、もう、恋愛はこりごりかな……』
咲は、そう返信して、スマートフォンの画面を閉じた。
志帆の言葉は嬉しかったけれど、それでも、二度の同じような別れは、咲の心を深く傷つけ、恋愛への恐怖心を植え付けていた。
咲は、ため息をつきながら席を立った。閉館作業を始めなければならない。重い足取りで書架の間を歩いていると、聞き慣れた優しい声が聞こえてきた。
「あれ、咲? まだ残ってたの?」
大野 智也だった。彼は、いつの間にか咲のすぐそばに立っていた。
「……うん。閉館作業があるから」
咲は、少しぎこちなく答えた。幼馴染なのに、彼と話すのは、なぜかいつも緊張する。
「そっか。お疲れ様。……あのさ、これ、良かったら」
智也は、そう言って咲に小さな紙袋を差し出した。
「……何?」
「駅前のカフェの新しいマフィン。咲、こういうの好きかなと思って」
智也は少し照れたように笑った。その笑顔は、昔と少しも変わらない。
「……ありがとう」
咲は紙袋を受け取った。ほんのりと温かい。彼の優しさがじんわりと心に染みる。
「……元気、ないみたいだけど、大丈夫?」
智也は心配そうに咲の顔を覗き込んだ。彼の目はいつも優しい。彼の前では、少しだけ、素直になれる気がしていた。
「……うん、まあ、ちょっとね。……また、フラれちゃった」
咲は、力なく笑って、そう言った。
「……そっか」
智也は驚いた様子もなく、ただ、静かに頷いた。
「……咲は、何も悪くないよ。悪いのは、相手の方だ。こんな良い子を振るなんて、見る目がないんだ」
彼はそう言って、咲の頭をポンポンと軽く叩いた。昔からの彼の癖だ。
「……うん」
咲は俯いたまま小さく頷いた。涙がこぼれそうになるのを必死で堪える。彼の言葉が、温かくて、切ない。
「……あんまり、無理するなよ。何かあったら、いつでも話聞くから。俺でよければ、だけど」
彼は、そう言って、優しい笑顔を向けた。
「……ありがとう、智也くん」
咲は、ようやく顔を上げて彼に微笑み返した。
「じゃあ、またな」
智也はそう言って手を振り図書館を出て行った。
彼の後ろ姿を見送りながら、咲は、胸の奥が、温かくなるのを感じた。
(……智也くんは変わらないな。昔から、ずっと優しくて、いつも、私のことを気遣ってくれる……もし、私が、もっと可愛かったらな)
そんな考えが、また、頭をよぎる。もし、自分が普通の女の子だったら、智也くんと違う関係になれたのかもしれない。
幼馴染じゃなくて、恋人に……。いや、ダメだ。そんなこと、考えても仕方ない。
私たちは幼馴染。それ以上でも、それ以下でもない。それに、自分なんかじゃ彼には釣り合わない。
咲は、智也からもらったマフィンの袋を、ぎゅっと握りしめた。甘い香りが、ふわりと香った。
(……もう、恋なんてしないかもしれないな……)
二度の、あまりにも似すぎた別れ。しかも、どちらの時も、相手に女性の影があった。
(きっと、すっごい美人なんだろうな……)
また、誰かを好きになっても同じことの繰り返しになるのではないか。傷つくだけなら、もう、恋なんてしたくない。そう思うと、怖くて前に進むことができなかった。
図書館の窓から見える空は、いつの間にか深い藍色に染まっていた。
星が、瞬き始めている。一日が終わる。そして、私の恋の終わり……なのかもしれない。