山本 翔太との別れから、数週間が経った。
季節は、木々の緑が日差しを浴びて力強く輝きを増す初夏へと移り変わろうとしている。
図書館の窓から見える景色は穏やかで、吹き抜ける風も心地よい。けれど、咲の心は、まだ厚い灰色の雲に覆われたままだった。まるで、梅雨入りを待つ空のように、重く湿っている。
仕事中も、ふとした瞬間に翔太の冷たい言葉が蘇る。
『君と一緒にいると、俺のレベルまで落ちてしまいそうだ』
あの時の、彼の侮蔑するような目。それは、大学時代の高橋 健介とあまりにもよく似ていた。
繰り返される悪夢。デジャヴュ、という言葉が咲の頭の中を重く漂っていた。
(……どうして、いつも、こうなるんだろう……)
咲は、カウンターの中で、新刊のカバーをかけながら心の中で深いため息をついた。
また同じことの繰り返し。好きになった人からは、結局、捨てられてしまう。最初は優しかったはずなのに、いつの間にか心が離れていってしまう。
自分には、誰かを惹きつけ続ける魅力なんて、ひとかけらもないのだと言われているように。
(……私には幸せな恋愛をする資格なんてないのかもしれない……。誰かを好きになること自体が間違いなのかもしれない……。私が、ブスだからかな……?)
そんな後ろ向きな考えが咲の心を支配していた。
自己肯定感は、もはや測定不能なほど低い。仕事にもなかなか身が入らない。書架を整理していても、ぼんやりとしてしまい、本を落としそうになる。
同僚たちの何気ない視線ですら自分への非難のように感じてしまう。きっと、「またフラれたらしいわよ」「やっぱりね」なんて、噂されているのだろう。考え出すと、息が苦しくなった。
「……咲、大丈夫か?」
不意に、カウンター越しに声がかかった。
顔を上げると、そこには幼馴染の智也が心配そうな顔で立っていた。
「……智也くん? どうしたの?」
咲は、少し驚いて尋ねた。
「ああ、ちょっと仕事の用事でね。……それより顔色悪いぞ。ちゃんと寝てるか?」
智也は咲の顔を覗き込んだ。
「……うん、大丈夫だよ。ありがとう」
咲は慌てて作り笑顔を向けた。
「そうは見えないけどな。……ちゃんと、ご飯食べてるか? 無理してないか?」
智也は低い声で尋ねた。彼の声には隠しきれない心配の色が滲んでいる。
「……うん、まあまあ」
咲は、そう言って視線を逸らした。本当は食欲なんてほとんどない。でも、彼に、本当のことは言えなかった。
「……無理すんなよ。……あ、そうだ。これ、今度うちで出す予定の本の資料なんだけど、咲が好きそうなテーマだから、もしよかったら目を通してみてくれないか? 意見とか聞かせてもらえると嬉しい」
智也は、そう言って、抱えていたファイルの中から一つを咲に差し出した。あくまで仕事のついで、というような口ぶりだが、咲を気遣ってくれているのが伝わってくる。
「……ありがとう、智也くん。見てみるね」
咲は、ファイルを受け取った。
「何かあったらいつでも言えよな。俺でよければ話くらい聞くから」
智也は、そう言って咲の肩を軽く叩くと、「じゃあ、俺はこれで」と、図書館を後にした。
咲は、彼の後ろ姿を見送りながら罪悪感で胸が締め付けられた。
いつも、こうだ。彼の優しさを自分はいつも拒絶してしまう。本当は、彼と話したい。彼の隣で笑っていたい。でも、できない。自分なんかでは、彼には釣り合わない。
そして何よりも……また、同じように傷つくのが怖い。彼との大切な幼馴染の関係まで壊してしまうのが怖かった。健介や翔太との結末が、また繰り返されるのではないか……その不安が咲の心に重くのしかかっていた。
その頃、都内のオフィスビルの一室で、咲の親友、佐藤 志帆はスマートフォンの画面を睨みつけながら険しい表情を浮かべていた。
画面には、山本翔太の、見る影もなく落ちぶれたSNSが表示されている。
(……やっぱり翔太くんも……健介くんも同じだったな。咲と別れた途端に転がり落ちていくんだもん……)
志帆はため息をついた。咲と付き合う男性は、なぜか皆、急激に成功し、そして、別れた途端に転落していく。
(咲って、
志帆は、これまでの出来事を思い返し、思わずそんな言葉を頭に浮かべた。
(咲と仲良くなった男性って嘘みたいに成功するんだよねぇ……そして裏切った途端に転落していく……)
志帆は咲のことが心配でたまらなかった。親友として何とかしてあげたいけど、余計な口出しをして咲に余計な負担をかけたくないと思っていた。
(でも……咲を本当に好きになってくれる人は裏切ったりしないだろうし)
咲の優しさや思いやりが男性の成功に結び付いている。そんなことに気づかないで自分の成功だと思って裏切った方が悪いんだと志帆は思った。
一方、咲は、休みのたびに部屋に引きこもっていたが、このままではいけない、とも思い始めていた。
いつまでも失恋の痛みに浸っているわけにはいかない。
智也くんにも、志帆にも、心配ばかりかけている。
何か、新しいことを始めよう。気分転換になるような、打ち込める何かを。そうすれば、少しは、前向きになれるかもしれない。
咲は、インターネットで、地域のサークル活動や習い事の情報を探し始めた。
料理教室、ヨガ、英会話……。色々な選択肢がある中で、咲の目に留まったのは、「初心者歓迎! 週末フォトサークル」の文字だった。
(……写真っか)
咲は、昔から写真を撮るのが好きだった。スマートフォンのカメラで、風景や、道端の花を撮るのが、ささやかな楽しみだった。
(これを機会に、本格的に習ってみようかな……これなら、一人でも始められるし、人との関わりも最小限で済むかもしれないし……)
咲は、思い切って体験会に申し込むことにした。
体験会当日、咲は少し緊張しながら会場である公民館の一室に向かった。
ドアを開けると、中には、十数人の男女が集まっていた。思ったよりも、若い人が多い。そして、みんな、楽しそうに談笑している。
(……やっぱり、私には、場違いだったかな)
咲は、後悔しそうになったが、ここまで来たのだからと自分を奮い立たせた。
受付で名前を告げ、隅の方の空いている席に、そっと座る。
周りの楽しそうな雰囲気に、どうしても馴染めない。
咲は、俯いてバッグから使い古したコンパクトカメラを取り出した。このカメラは、亡くなった祖母の形見だった。これを握っていると、少しだけ心が落ち着く気がした。
「あの、すみません」
隣から声がかかった。そこには、人の良さそうな、少し幼さの残る顔立ちの男性が立っていた。歳は、自分より少し下くらいだろうか。大きなカメラバッグを肩にかけている。
「……はい?」
「ここ、空いてますか? 隣、いいですか?」
「……あ、はい。どうぞ」
咲は隣の席を勧めた。
「ありがとうございます。……僕、
「……福田咲です。私も、今日が初めてなんです。……よろしくお願いします」
それが、咲と、鈴木一真との、最初の出会いだった。
彼は、夢であるイラストレーターを目指しているが、なかなか芽が出ずに悩んでいる、と話してくれた。その目は、純粋で夢に向かう情熱に溢れていた。