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エピローグ そしてつながる福と福


 咲と智也が、チャペルで永遠の愛を誓ってから、さらに数年の歳月が流れていた。


 あの日の、予期せぬ闖入者ちんにゅうしゃとの対峙も、今となっては遠い記憶。二人の絆は、あの一件を経て、むしろ、より一層強く確かなものとなっていた。


 日曜日の朝。カーテンの隙間から差し込む柔らかな日差しが、温かい家庭の象徴であるリビングを照らしている。

 咲は、キッチンでお気に入りの音楽を小さくかけながら朝食の準備をしていた。

 手際よく卵を焼き、サラダを盛り付ける。そのエプロン姿も、すっかり様になっている。

 ふと、足元に小さな気配を感じて振り返ると、娘のふく(4)が、眠い目をこすりながら立っていた。


「ママ、おはよ……」


 少し舌足らずな、でもしっかりとした声。父親譲りの大きな瞳は、咲によく似た優しい光を湛えている。


「おはよう、福。よく眠れた?」


 咲は、屈んで娘の視線に合わせ、その柔らかな頬を撫でた。この小さな存在が、咲の毎日を、そして人生そのものを、豊かに彩ってくれている。


「うん……。パパは?」

「パパは、まだソファで夢の中みたいよ。昨日、遅くまで頑張ってたから」


 咲がリビングに目をやると、智也が大きな体をソファに預け、穏やかな寝息を立てていた。彼は、編集者として多忙な日々を送っているが、家庭を何よりも大切にしている。


「ふくちゃん、パパ起こしちゃえー!」

「うん!」


 福は、小さな足でぱたぱたと駆け寄り、ソファで眠る智也の体によじ登ろうとする。智也は「ん……」と唸りながらも、すぐに目を覚まし、娘を優しく抱きとめた。


「おはよう、福。……おはよう、咲」


 智也の声は、まだ少しだけ掠れているが、その眼差しは限りなく優しい。


「パパ、おっきしたー!」


 福が、智也の胸の中で嬉しそうに笑う。

 穏やかで、ありふれた、でも、かけがえのない朝の風景。咲は、その光景を、胸がいっぱいになるような温かい気持ちで見つめていた。


 数年前、自分がこんな日々を送るなんて想像もできなかった。繰り返し自分を襲った失恋の痛み、自己肯定感の低さ……。けれど、智也と、そして福と出会い、咲の世界は完全に変わった。


 智也の仕事は順調そのもので、彼の誠実な人柄と確かな実力は多くの人から信頼を得ている。時折、彼の成功について「福田さん(旧姓)をもらってから、さらに運気が上がったよなあ」と、好意的な冗談を言われることもあると、彼は笑って話していた。


 以前なら、そんな言葉に過敏に反応していただろう。でも、今の咲は違う。彼の成功は彼の努力の賜物であり、もし自分たちの築いた温かい家庭が少しでも彼の力になっているなら、それはとても素敵なことだと思える。私たちは互いを支え合っているのだと、今は自然に信じられる。


 その智也も、成功に伴う様々な誘惑やプレッシャーがあっただろうが、彼は一切揺らがなかった。その変わらない誠実さが、咲の最後の不安さえも、完全に溶かしてくれたのだ。


 週末、咲は福を連れて、親友の志帆の家に遊びに行く。志帆も書店員の琢磨さんと結婚し、やんちゃ盛りの息子の拓海くんの育児に奮闘しながら、編集者としても活躍している。


「福ちゃん、ほんと、咲にそっくりになってきたねー。雰囲気とか、優しいところとか」


 リビングでお茶を飲みながら、志帆が目を細めて言った。子供たちは、おもちゃを広げて仲良く(時には喧嘩しながら)遊んでいる。


「そうかな?」


 咲は、娘の姿を見ながら微笑んだ。


「そうだよー。……それにしても福ちゃん、ほんと、周りを明るくするよね。この前も、うちの拓海が幼稚園でなかなか友達の輪に入れなかった時、福ちゃんが『たくみくーん、いっしょにあそぼ!』って誘ってくれたんだって。そしたら、他の子もつられて一緒に遊び始めて、拓海、すごく嬉しかったって言ってたよ」

「へえ、そんなことがあったんだ」


 咲は知らなかった。福は、人見知りせず、誰にでも優しく接する子だった。


「そうなのよ。福ちゃんがいると、なんかね、場の空気が和むっていうか……。うちの近所の、いっつも仏頂面のおじいさんも、福ちゃんが挨拶するようになってから、少し表情が柔らかくなったって評判だし……」


 志帆は、何気ない口調で言った。咲も「へえ、福にもそんな影響力があるのかな」と、娘の持つ純粋な明るさを微笑ましく思うだけだった。


 だが、志帆の胸の内には、別の思いがかすかに渦巻いていた。


(……拓海のこと……近所のおじいさんの変化。まさか、ね……。咲の時も、最初はこんな風に、周りに良い影響を与えているように見えたんだった……。ううん、考えすぎか。この子は、ただ、素直で優しい子なだけよね……。でも……)


 志帆は、楽しそうに遊ぶ福の姿から目を離せずにいた。咲がようやく手に入れた幸せを壊すようなことは絶対にあってほしくない。彼女は、その一抹の不安を悟られないように、明るい笑顔を作って、咲との会話に戻った。


 咲は、もちろん志帆のそんな内心には気づかない。ただ、目の前で無邪気に笑う娘の姿と、穏やかな日常の幸せを噛みしめていた。


 キッチンから、香ばしいパンケーキの匂いが漂ってくる。


「さあ、おやつにしようか!」


 咲は、子供たちと、そして遊びに来ていた智也にも声をかけた。


 リビングに、家族と、大切な友人の笑い声が響く。何気ない、けれど、かけがえのない、幸せな時間。


 咲は、福の小さな手を握りながら、心の中で、そっと呟いた。


(……昔は、どうして自分だけが、と他人を羨んだり、自分を責めたりしたけれど……今の、この温かい毎日こそが、私の本当の幸せ……。智也くんと、この子の笑顔に囲まれて……こうして笑っていられる毎日なのだから……)


 咲は、その温かな幸せを、ゆっくりと、大切に噛みしめていた。何よりも尊い、本当の『福』

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