柔らかな光が降り注ぐチャペル。
純白のウェディングドレスに身を包んだ咲は、隣に立つ大野智也を見上げた。
彼のまっすぐな横顔には、緊張と、それ以上の深い喜びが浮かんでいる。今日、二人は夫婦となる。長年の幼馴染という関係を経て、恋人となり、そして今、生涯を共にする誓いを立てようとしていた。
(……信じられない……。私が、智也くんと)
咲の胸には、感動と、少しの不安、そして大きな幸福感が入り混じって込み上げてくる。
過去の苦い経験が嘘のように、今はただ、彼の隣にいられることが嬉しかった。
健介にも、翔太にも、自分の言葉で決別を告げることができた。そして、どんな時も変わらずそばにいてくれた智也が、今、こうして隣にいる。それだけで、もう十分だった。
祭壇の前に立ち、厳かな雰囲気の中、神父の言葉が響く。咲の親友、志帆が、少し離れた場所から涙ぐみながらも、力強い眼差しで咲を見守ってくれているのが見えた。
彼女の夫となった
「――健やかなる時も、病める時も、富める時も、貧しき時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
「はい、誓います」 ──智也の迷いのない声が響く。
「はい、誓います」 ──咲もまた、涙で声を詰まらせながらも、はっきりと答えた。
指輪の交換が行われ、二人が互いの目を見つめ合った、その時だった。
「ちょっと待ったー!!」
チャペルの重い扉が勢いよく開き、甲高い、しかし切羽詰まったような声が響き渡った。会場中の視線が一斉に入り口へと注がれる。
そこに立っていたのは、見る影もなくやつれ、高価だったであろうスーツを着崩した、鈴木一真だった。
彼の瞳は充血し、明らかに常軌を逸した様子で、祭壇の上の咲を睨みつけている。
「……一真……くん……?」
咲は息を飲んだ。なぜ、彼がここに?
最後に彼と会ったのは、あの屈辱的な別れを告げられた日以来だ。噂では、仕事が激減し、すっかり落ちぶれてしまったと聞いていたが……。
「咲さん! 行かないでくれ! 俺には、君が必要なんだ!」
一真は、制止しようとするスタッフを振り払い、バージンロードを駆け上がろうとする。
「何をするんですか!」
智也が咄嗟に咲の前に立ち一真を睨みつけた。その背中は、咲を断固として守ろうという強い意志を示している。
会場が騒然となる中、志帆の夫の健太さんや、智也の友人たちが、一真を取り押さえようと動き出した。
「離せ! 俺は咲さんと話があるんだ! 咲さん! 君がいなくなってから俺は何もかもうまくいかない! スランプなんだ! 前みたいに絵が描けない! でも、君さえ戻ってきてくれれば……! 君は俺のミューズなんだ! 俺の才能を、また輝かせてくれるんだろう!?」
一真は、取り押さえられながらも必死の形相で叫んだ。その言葉は、健介や翔太が口にした言葉と同じだった。咲自身ではなく、彼女がもたらす成功やインスピレーションへの渇望。
咲は、一瞬、過去のトラウマが蘇り、足がすくむのを感じた。まただ。また、私は道具としてしか見られていない……。
しかし、隣に立つ智也の温もりと、彼の強い眼差しが、咲に勇気を与えた。もう、怯える必要はないのだ。
咲は、智也の腕にそっと触れて彼を制した。そして、一歩前に出て、騒ぐ一真を、静かに、しかし真っ直ぐに見つめた。
「……一真くん」
咲の声は驚くほど落ち着いていた。
「あなたの才能は、素晴らしいものだったと私も思います。……でも、それを咲かせ続けるのも、枯らしてしまうのも、あなた自身の心の問題です。……私のせいじゃない」
「そ、そんな……! 君がいたから、俺は……!」
「私は、あなたのミューズでも、成功のための道具でもありません」
咲は、きっぱりと言い切った。その声は、チャペル全体に響き渡った。
「あなたは、あの時、成功した自分にはもう私は必要ない、と判断して、私を傷つけ、離れていった。……その選択をしたのは、他の誰でもない、あなた自身です」
「…………!」
一真は言葉を失い、ただ愕然として咲を見つめる。
「……私は、私の人生を生きていきます。智也くん……智也という、私をありのままに愛してくれる人と共に。あなたも、誰かに依存するのではなく、ご自身の力で、もう一度、立ち上がる努力をしてください。……さようなら」
咲は、静かに一礼すると、もう彼に視線を向けることなく智也の隣へと戻った。
一真は、力なくその場に崩れ落ちスタッフに連れられていった。騒然としていた会場も、徐々に静けさを取り戻していく。
「……大丈夫か、咲?」
智也が、心配そうに咲の顔を覗き込む。
「……うん。大丈夫」
咲は、彼に向かって、しっかりと頷き返した。涙は、もう流れていなかった。むしろ、最後の過去とも完全に決別できたことで、心は不思議なほど晴れやかだった。
智也は、そんな咲の瞳を見て全てを理解したように優しく微笑んだ。そして、彼女の手を、再び強く握りしめた。
二人は改めて祭壇の前に向き直った。神父が、少しの間を置いて、厳かに言葉を続ける。
「……誓いの、キスを」
智也が、咲のベールをそっと上げる。互いの目を見つめ合う。そこには、先ほどの混乱など微塵も感じさせない、深い愛情と揺るぎない信頼だけが映っていた。
二人の唇が、静かに重なる。
温かく、優しいキス。それは、嵐の後で、より一層輝きを増した太陽の光のように、二人の未来を明るく照らし出す、確かな誓いの証となった。
チャペルに、祝福の拍手が鳴り響く。
(……これが、私の選んだ道。私の、本当の幸せ)
咲は、智也の隣で、ゲストたちの祝福の笑顔に包まれながら、心の中でそっと呟いた。
特別な力なんてなくても、ただ、愛する人の隣で、互いを信じ、支え合っていけること。
それこそが、何物にも代えがたい本物の幸せなのだと、咲は確信した。