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第11話 幸運の始まりと、確かな絆

 高橋健介、そして山本翔太との過去に、咲自身の手で決着をつけてから、いくつかの季節が巡った。


 大野智也という、揺るぎない存在が隣にいる日々。それは、咲の心に、これまでにないほどの安らぎと、穏やかな自信をもたらしてくれていた。


 智也との交際は驚くほど自然に進んでいった。

 幼馴染として培われた互いへの深い理解と信頼は、恋人という新しい関係性になったことで、さらに温かく、確かなものへと育まれていた。

 週末は二人で過ごすのが当たり前になり、話題の映画を観たり、カフェで語り合ったり、時にはドライブに出かけたり。特別なことはなくても、ただ一緒にいるだけで満たされる時間を、咲は大切に感じていた。


「咲、この前の企画、無事に通ったんだ! 長かったけど、ようやく形になる!」


 ある日、智也が本当に嬉しそうに報告してくれた。彼が編集者として長年温めていた、地域文化を掘り起こす出版企画のことだ。咲も、その企画に彼がどれほどの情熱を注いできたかを知っていた。


「本当!? すごいじゃない、智也くん! おめでとう!」


 咲は、心から彼を祝福した。彼の努力が実を結んだことが自分のことのように嬉しかった。


「ありがとう。諦めずにやってきて良かったよ。……なんだか、咲といると、良いことが続く気がするなあ」


 智也は、そう言って、少し照れたように笑った。


 その何気ない言葉に、咲の心臓が、一瞬だけ、ドキリと冷たく収縮した。


(良いことが続く……)


 過去の記憶――健介も、翔太も、一真も、皆、同じようなことを口にした後に変わっていったこと――が、一瞬だけ、脳裏をよぎる。しかし、咲は、すぐにその湧き上がった不安を意識的に打ち消した。


(……ううん、違う。これは、智也くんが頑張ってきた成果だ。彼自身の実力なんだ。私が、そう信じなくちゃ……。彼は、あの人たちとは違うんだから……)


 咲は、智也の成功を心から喜び支えることに決めた。彼の努力と才能を一番近くで見てきたのだから。


「智也くんが、ずっと諦めずに頑張ったからだよ。すごいよ本当に。私、ずっと応援してたもん」


 咲は、彼に心からの笑顔を向けた。


「……ありがとう、咲。……君がそう言ってくれると何より力になるよ」


 智也は、咲の手を優しく握った。彼の目に以前のような迷いの色は微塵もない。


 その後、智也の仕事は、その企画の成功を皮切りに、さらに目覚ましいものとなっていった。企画は業界内外で高く評価され、彼は若くして編集部の中心的な役割を担うようになり、メディアに取り上げられる機会も増えた。

 当然、彼の周りには、以前にも増して多くの人が集まるようになった。仕事関係者からの誘い、有力者からの引き立て、そして……きらびやかな女性たちからの、あからさまな好意やアプローチ。

 咲の耳にも、そうした噂や、彼に向けられる羨望と嫉妬がになったような視線を感じることが、全くなかったわけではない。


(智也くん、すごく注目されてる。いろんな人に、誘われてるみたい……。私なんかじゃ、もう釣り合わないって、また思われるんじゃ……。彼も、いつか……)


 過去の経験が、新たな不安の種となって咲の心を蝕もうとする。

 成功を手にした途端、隣にいる自分を疎ましく思い、もっと「ふさわしい」相手へと去っていった男たちの姿が、どうしても重なってしまうのだ。


 しかし、智也は違った。どんなに忙しくなっても、注目を浴びるようになっても、彼は決して咲のことを疎かにしなかった。

 会えない日が続いても必ず声を聞かせてくれた。たまの休日には、全ての誘いを断って、咲との穏やかな時間を何よりも優先してくれた。「俺にとって一番大切なのは、咲だよ。それは、これから何があっても絶対に変わらない」――彼は、言葉だけでなく、その誠実な行動で、常に咲を安心させてくれた。

 その変わらない愛情が、咲の心に深く根を下ろした不安を、少しずつ溶かしていった。


 咲自身にも、確かな変化が訪れていた。

 智也という絶対的な味方がいること、彼に深く愛され、尊重されているという実感は、咲の自己肯定感をゆっくりと確実に育んでいた。

 図書館での仕事にも、以前より積極性と自信を持って取り組めるようになり、利用者への対応も自然な笑顔でこなせるようになっていた。「福田さん、最近、すごく良い雰囲気だね」同僚からのそんな言葉も、素直に受け止められるようになっていた。


 親友の志帆も、咲の変化と智也との順調な関係を心から喜んでくれていた。


「咲、本当に良かった! やっと、あんたの肩の荷が下りたみたいで、私まで嬉しい!」


 彼女はもう、心配そうな素振りを見せることはなく、ただ、二人の幸せを、温かく見守ってくれた。



 ある穏やかな休日の午後、咲の部屋で、二人はいつものようにのんびりと過ごしていた。咲はソファで雑誌を読み、智也は床に座って、持ち帰った企画書に目を通している。心地よい静寂と、窓から差し込む柔らかな日差し。


「……ねえ、智也くん」


 咲は、ふと、読んでいた雑誌から顔を上げて、床にいる智也に話しかけた。


「ん? なんだ?」


 智也は、企画書から顔を上げ、優しい眼差しで咲を見た。


「……ううん……。なんでもない」


 咲は、言いかけて、慌てて首を横に振った。幸せな今を疑うわけではない。でも、彼が注目され、様々な人に囲まれている現実を思うと、心の隅で、本当にこのままでいられるのだろうか、という小さな不安が、時折顔を出すのだ。


 智也は、そんな咲の言葉にならない心の揺れを敏感に察したようだった。

 彼は、読んでいた企画書を静かに閉じ、立ち上がって咲の隣に腰を下ろした。そして、優しく、咲の肩を抱き寄せた。


「……大丈夫だよ、咲」


 智也は、咲の耳元で、全てを包み込むように囁いた。


「俺は、どこにも行かない。ずっと、咲のそばにいる」

「智也くん……」


 咲の目から、温かい涙がこぼれ落ちた。それは、悲しみの涙ではなく、彼の言葉がもたらす、深い安堵と、満たされるような喜びの涙だった。


「俺は、咲の過去の経験とか、周りが咲のことどう噂するとか、俺の仕事がどうなるとか……そういうのは、もう全部関係ないと思ってる」


 彼は、咲が抱えているであろう不安の核心を、真っ直ぐに見つめてくれていた。


「俺が好きなのは、優しくて、真面目で、一生懸命で、……そして、時々、ドジで、俺がいないとちょっと心配で、放っておけない……福田 咲、そのものなんだから。君が君であれば、それでいいんだ。俺の隣で、笑っていてくれれば」


 智也は、そう言って、咲の涙を、指で優しく拭った。彼の言葉には、少しの迷いもなく、揺るぎない真実だけがこもっていた。


「……ありがとう……。ありがとう、智也くん……」


 咲は、彼の胸に顔を埋め、何度も感謝の言葉を繰り返した。


 もう、大丈夫だ。彼が、これほどまでに、咲自身を見てくれているなら。彼の成功も、周りの目も、何も怖くない。咲は、智也を信じ、支え合っていける。心から、そう思っていた。

 長年の心の傷が、彼の無償の愛によって、完全に癒されていくのを感じていた。



その頃、志帆は馴染みのカフェで一人、企画書をチェックしていた。ふと顔を上げると、スマートフォンの待ち受け画面――幸せそうな咲と智也の写真――が目に入る。


(……本当に、良かった。智也くんとなら、きっと)


 志帆は、心から安堵すると同時に、やはりあの奇妙な「巡り合わせ」のことが、頭の片隅をよぎるのを止められなかった。


(智也くんは大丈夫だろうか……? 彼まで道を踏み外すことになったら……?)


 咲には決して言えない不安。


 数日前、志帆は、仕事関係のパーティーで、偶然、山本翔太の姿を見かけた。

 彼は、以前の自信に満ちた姿は見る影もなく、明らかに精彩を欠き、一人、所在なさげに会場の隅に立っていた。周囲から距離を置かれているのが見て取れた。


(……やっぱり……山本くんも……。そういえば、あのイラストレーターの鈴木くんも、あれだけチヤホヤされていたのが嘘みたいに、最近はすっかり名前を聞かなくなったって業界の噂で聞いたっけ……。咲を裏切った人はみんなこうなったわね……)


 志帆は、自分の考えを裏付けるような現実を目にし、改めて確信に近い思いを抱いていた。

 咲自身には何の力も悪意もない。けれど、彼女の存在と、それに対する相手の向き合い方が、まるで運命を左右するかのように作用するのかもしれない、と。


(……でも、大野くんは違う。彼は、元々、自分の力で道を切り拓ける人だ。……そして、何より、彼は、咲を絶対に裏切らない。咲のことを、ちゃんと分かってる)


 志帆は、強く、そう信じることにした。そうでなければ、咲があまりにも不憫すぎる。二人の揺るぎない幸せを、心から願うことしか今の自分にはできなかった。



 咲と智也の関係は、その後も、穏やかに、そして、着実に深まっていった。

 互いを深く理解し、尊重し合い、支え合う日々。二人の間には、もう、過去の不安も、未来への漠然とした迷いも、ほとんど感じることはなかった。ただ、互いへの深い愛情と、揺るぎない信頼だけが、そこにあった。


「……咲、そろそろ、一緒に住まないか?」


 ある穏やかな春の夜、智也が、夕食の片付けをしながら、少し照れたように、しかし真剣な眼差しで、そう切り出した。


「……え?」


 咲は、洗い物をしていた手を止め、驚いて彼を見つめた。


「俺たち、もう、ただの幼馴染でも、ただの恋人でもないだろ? もっとちゃんと、家族になりたいんだ。……これからは、どんな時も、嬉しいことも、大変なことも、全部、一番近くで共有したい。……ずっと、一緒にいたいんだ。……ダメかな?」


 智也は、少し不安そうな顔で、咲の返事を待っている。


 咲の胸に温かいものが込み上げてくる。


 一緒に、住む……。毎日、食卓を囲み、眠りにつき、目を覚ます……。それは、少し前までの咲にとっては、想像もできないほど、夢のような話だった。


「うん! ……私も、智也くんと、一緒にいたい。ずっと!」


 咲は、涙を浮かべながらも、今、自分ができる最高の笑顔で、そう答えた。


 二人は見つめ合い、そして優しく微笑み合った。未来への確かな扉が、ゆっくりと、そして、はっきりと開かれた瞬間だった。

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