咲と智也は、レストランを出て夜道を並んで歩いていた。
先ほどの告白と、それを受け入れたことの余韻が、まだ二人を柔らかく包んでいる。
どちらからともなく自然に繋がれた手と手。伝わってくる彼の温もりに、咲の心は満たされていた。
長年の幼馴染という関係から、ようやく恋人へ。その変化は、まだ少し現実味がなくて、まるで夢の中にいるような、ふわふわとした幸福感があった。
(……本当に、智也くんと付き合えるなんて……)
咲は、隣を歩く智也の横顔をそっと盗み見た。彼は、少し照れたような、でも、この上なく嬉しそうな表情で前を向いて歩いている。その姿が、たまらなく愛おしくて、咲は自然と笑顔になった。
しかし、その穏やかで幸せな空気を破るように、街灯の少ない道の暗がりから、人影がぬっと現れた。
「……咲」
低い、どこか掠れた声。聞き覚えのある、しかし今は聞きたくない声だった。
そこに立っていたのは高橋健介。その目は、暗い嫉妬と何かを渇望するような焦燥感で街灯の光を鈍く反射している。
「……健介くん……。どうして、ここに……」
咲の声は不安に震えた。思わず智也の後ろに隠れるように一歩下がる。隣にいる智也が、さっと咲の前に立ち、彼女を庇うように健介と向き合った。
「何の用ですか、高橋さん」
智也の声は静かだったが、有無を言わせない強い拒絶の色を帯びていた。
「……大野……。お前、咲に手を出したのか……」
健介は智也を睨みつけ、剥き出しの敵意をぶつけてきた。その言葉遣いは、以前の彼からは想像もできないほど乱暴だった。
「手を出した、とは聞き捨てならないですね。俺と咲は、お付き合いすることになりました。……ですから、もう彼女に付きまとうのはやめていただけますか」
智也は冷静に、しかし毅然とした態度で言い返した。
「なっ……! 付き合うだと!? 咲! 俺を振って、こいつを選んだのか!?」
健介は逆上し、智也の肩越しに咲に向かって叫んだ。
「俺があんなに謝ったのに! 君が必要だって言ったのに! ひどいじゃないか!」
彼の言い分は、完全に自分本位だ。
「……健介くん、もうやめてください」
咲は、智也の後ろから震える声で言った。怖い。けれど、ここで逃げてはいけない。
「私とあなたは、もう終わったんです。あなたのことは、もう……」
「終わってない! 終わらせない!」
健介は、咲の言葉を遮り、さらに声を荒らげた。
「咲、分かってるんだろ!? 君には、特別な
彼は、ついに、その醜い本性を、隠すことなく露わにした。咲という人間ではなく、彼女に付随すると彼が信じ込んでいる「力」への、浅ましい執着。
咲は、彼の言葉に、深く、深く傷つき、そして、心の底から失望した。やはり、咲自身を見ていたわけではなかったのだ。ただ、自分の成功のために、私の偶然という可能性を利用しようとしていただけ……。
しかし、もう、昔の私ではない。彼らの身勝手な期待に応える必要も、それに傷つく必要もないのだ。
咲は、智也の背中の後ろから一歩前に出た。彼の隣に並んで立つ。そして、健介の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「……健介くん、あなたは、何も分かっていない」
咲の声は震えていなかった。夜の空気に、凛とした強い響きを持っていた。
「私に、そんな特別な力があるのかどうか分かりません。でも、もし、あったとしても、それは、あなたの成功のためにあるものじゃない」
「な、何を言って……!」
「あなたは、自分自身で努力し続けることを怠り、そして、成功した途端に私を不要だと捨てた。……あなたの転落は、私のせいじゃない。あなた自身の弱さが招いた結果です」
咲は、きっぱりと言い放った。揺らがない声だった。
「……私は、あなたの成功のための道具じゃない。幸運のお守りでもない。……私は、私の人生を生きたいんです。……だから、もう二度と、私の前に現れないでください」
咲の言葉一つ一つが、健介の歪んだ期待と自己憐憫を打ち砕いていった。
彼は、呆然として咲を見つめている。まるで、初めて見る生き物を見るかのように。
やがて、はは、と力なく乾いた自嘲するような笑みを浮かべると、ふらふらとした足取りで、夜の闇へと消えていった。その背中は、ひどく小さく、惨めに見えた。
健介の姿が見えなくなると、咲は、張り詰めていた糸が切れたように、その場に崩れ落ちそうになった。それを智也が支えた。
「……大丈夫か、咲?」
智也の声は、どこまでも優しかった。彼の腕の温かさが、咲の強張っていた心を解きほぐしていく。
「……うん。……ありがとう、智也くん」
咲は、彼の腕の中で、小さく頷いた。
怖かった。でも、自分の言葉で、はっきりと、過去と決別することができた。それは、咲にとって、とてつもなく大きな一歩だった。
「……行こうか」
智也は、そう言って、咲の手を優しく引いた。
二人は、再び、夜道を歩き始めた。先ほどよりも、しっかりと繋がれた手。もう、ぎこちなさはない。共に困難を乗り越えたという、確かな絆だけが、そこにあった。
「……智也くん、聞いてくれてありがとう。……それに、守ってくれて」
咲は、隣を歩く智也に、心からの感謝の気持ちを伝えた。
「……当たり前だろ。咲は、俺の大切な人なんだから」
智也は、そう言って、少し照れたように笑った。
「……それにしても、咲、本当に強くなったな。すごいよ。昔の咲だったら、あんな風に言い返せなかったかもしれない」
「……うん。……智也くんや志帆がいてくれたから。……信じてくれる人がいたから。……一人じゃ、きっと無理だったと思う」
咲は素直にそう言った。彼の、そして親友の支えが自分を変えてくれたのだ。
「俺は何もしてないって。咲が、自分で乗り越えたんだ」
智也は、そう言って咲の手を、もう一度ぎゅっと握りしめた。
その確かな温かさが、咲の心に、じんわりと広がっていく。
もう、何も怖くない。彼がそばにいてくれれば、どんな困難も乗り越えられる。
咲は、心から、そう思った。
でも、もう、大丈夫。今の咲には智也がいる。そして、何より、自分自身の強さがあるのだから。
二人は、咲のアパートの前で立ち止まった。名残惜しい空気が漂う。
「……じゃあ、また明日」
智也が、少し寂しそうに言った。
「うん、また明日」
咲も、笑顔で答えた。
二人は、しばらく見つめ合い、そして、どちらからともなく顔を寄せた。
そっと唇が重なる。夜空の下、優しい、初めてのキス。それは、二人の新しい未来への、確かな約束のように、温かく感じられた。