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第9話 幼馴染の告白、揺れる心

「……咲」


 智也の声は、数日前の電話での優しい響きとは違い、少しだけ低く、そして真剣みを帯びていた。

 週末の夜、二人で食事をした帰り道、街灯が照らす歩道で彼は立ち止まり、咲に向き直ったのだ。

 夜の静かな空気の中で、彼の言葉だけが咲の耳に、はっきりと届く。


「……話があるんだ。……今度、ちゃんと時間を作ってくれないか?」


 彼の真剣な表情と声のトーンに、咲の心臓が、ドクン、ドクンと、大きく高鳴った。

 数日前の、健介や翔太との対峙を経て、少しだけ自信を取り戻しかけていた心に、新たな、そして種類の違う緊張が走る。


(……もしかして。智也くんが、私に……?)


 期待と、それ以上に大きな不安が入り混じった、複雑な気持ち。もし、彼が伝えようとしていることが、自分の期待しているそれだとしたら……。そして、もし、そうだとしたら、自分はどう応えるべきなのか……。


 咲は、彼の次の言葉を待ったがそれ以上何も言わず、ただ、真っ直ぐに咲を見つめている。その瞳の奥にある真意を、咲はまだ正確には読み取れなかった。


「……うん、わかった」


 咲は、そう答えるのが精一杯だった。声が、少し震えてしまったかもしれない。


「ありがとう。……じゃあ、また連絡する」


 智也は、そう言って緊張が解けたように少しだけ微笑むと、咲に背を向け、夜道へと歩き去っていった。


 咲は、彼の後ろ姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。

 胸の高鳴りはまだ収まらない。嬉しいような、怖いような、不思議な感覚だった。


(……智也くん、何を話すつもりなんだろう……。もし、本当に、あの……だとしたら、私は……)


 咲の頭の中は、そのことでいっぱいになった。

 智也への想いは、もう誤魔化しようもなく自分の中にある。

 彼と一緒にいられたら、どんなに幸せだろうか。でも、脳裏には過去の苦い記憶がこびりついている。

 健介も、翔太も、一真も……みんな最初は優しかった。そして、関係が進むにつれて……彼らが成功するにつれて離れていった。私では、彼らを繋ぎとめることができなかった。


(……智也くんまで、同じことになったら……? 彼まで失ってしまったら……?)


 咲は、過去の痛みを繰り返す恐怖を振り払うように、ぶんぶんと頭を振った。今は、何も考えられない。ただ、彼の言葉を待つしかなかった。



 数日後、智也から連絡があり、二人は週末に少し落ち着いた雰囲気のレストランで会うことになった。


 咲は、その日、何を着ていくか朝からずっと悩んでいた。クローゼットの前で、何度も服を手に取り、鏡の前で合わせてみる。髪型も、いつもより丁寧に整えた。

 こんなに、自分の外見を気にしたのは、いつぶりだろうか。


(……しっかりしなきゃ。……期待しすぎちゃダメだ……。もし違ったら、がっかりしないように)


 咲は、何度も自分に言い聞かせながら緊張した面持ちで家を出た。


 レストランに着くと、智也は、すでに窓際の席に着いて咲を待っていた。白いシャツにジャケットという、いつもより少しだけかしこまった服装をしていた。


「ごめん、待った?」


 咲は、緊張しながら、彼の向かい側の席に座った。


「ううん、俺も今来たとこ。……咲、その服、似合ってるな。綺麗だ」


 智也は、そう言って、少し照れたように、しかし真っ直ぐに咲を見て微笑んだ。


「……あ、ありがとう……」


 咲は、顔が熱くなるのを感じながら俯いた。彼のストレートな言葉に、心臓が早鐘のように打ち始める。


 食事の間、二人は、とりとめのない話をした。智也の仕事のこと、咲が最近図書館で見つけた面白い本のこと、共通の友人のこと、そして、子供の頃の他愛ない思い出話……。

 会話は弾んでいたが、どこか、お互いに、本題を探っているような、そんな緊張感が漂っていた。


 そして、デザートとコーヒーが運ばれてきて、一息ついた時、智也が、ふっと息を吐き、意を決したように口を開いた。


「……咲、今日は、大事な話があって、来てもらったんだ」


 彼の声は穏やかだが真剣だった。レストランの穏やかなBGMが、急に遠くに聞こえるような気がした。


 咲は、ゴクリと唾を飲み込み、彼の言葉を待った。覚悟は、できていたはずだった。


「……俺、ずっと、咲のことが好きだった」


 可能性の一つとして予期していた言葉のはずなのに、咲の心臓は、大きく、強く跳ね上がった。


「……子供の頃から、ずっと。……ただの幼馴染としてじゃなくて、一人の女性として、咲のことを見てた。……君の優しさ、真面目さ、芯の強さ、……頑張り屋なところ……全部、見てきたつもりだ。……その全部が、好きだ」


 智也は、時折言葉を選びながらも、一気に、自分の長年の想いを打ち明けた。


「……でも、俺、ずっと言えなかった。……咲が、自分の見た目のことを気にしていることも、過去の恋愛で……辛い思いをしてきたことも、知ってたから。……俺が、今更、気持ちを伝えたら君を困らせてしまうんじゃないか、もしかしたら、また傷つけてしまうんじゃないかって……そう思うと、怖かったんだ」


 彼の声は少し震えていた。彼もまた、ずっと一人で悩んでいたのだということが伝わってくる。


「……でも、もう、黙っていられない。……高橋や、山本さんのことを見てて、正直、腹も立った。……あんな奴らに、咲を二度と近づけたくないって思ったんだ。……俺が、咲を守りたい。……俺が、咲を、幸せにしたい」


 智也は、そう言ってテーブル越しに咲の手を優しく力強く握った。


「……咲、俺と、付き合ってくれないか?」


 彼の真っ直ぐな瞳が、咲を射抜く。

 彼の言葉、彼の秘めていた想い、彼の温もり……。全てが、咲の心に、深く、深く、染み渡っていくようだった。


 嬉しい。心の底から嬉しい。でも、それと同じくらい、強い不安が胸を締め付ける。涙が、止めどなく溢れてきた。嬉しい涙なのか、それとも、これから起こるかもしれない未来への不安からくる涙なのか、自分でも分からなかった。


 彼への想いは、確かにある。彼と一緒にいたい、と心から思う。


 でも……。


(……もし、智也くんまで、これまでのように……関係が壊れてしまったら……? 智也くんまで、傷つけてしまったら……? 私には、彼を幸せにする資格なんて、きっと……)


 あの恐怖が、再び、咲の心を支配する。

 健介くんも、翔太くんも、一真くんも……みんな、途中までは幸せだったはずなのに。智也くんまで、同じ道を辿らせるわけにはいかない。


「……ごめんなさい……嬉しい……すごく嬉しいけど……でも、私……智也くんとは、付き合えない……」


 咲は、涙を流しながら、か細い声で、首を横に振った。


「……どうして? 俺の気持ち、迷惑だったか?」


 智也の声には、明らかに戸惑いと、深い悲しみが滲んでいた。


「違うの! 迷惑なんかじゃ……! ただ……私じゃ、きっとダメなんだ……。私の恋って、いつも、最後は……上手くいかなくなっちゃうから……。智也くんのことまで、巻き込みたくない……。私には、智也くんは、もったいないよ……」


 咲は、必死に言葉を絞り出した。自分の過去の経験が、ただただ、怖いのだと。


「……ダメなんかじゃない。もったいないなんて、絶対に言うな。過去に咲を傷つけたのは、相手が悪かっただけだ。咲のせいじゃない。絶対に。……俺は、絶対に君を悲しませたりしない。約束する」


 彼は、咲の手を、さらに強く握った。


「何があっても、俺がそばにいる。俺は、他の誰でもなく、咲と一緒にいたいんだ。……それでも、ダメか?」


 智也は力強くそう言った。彼の瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。咲の過去の傷も、不安も、全て受け止めた上で、それでも一緒にいたいという、強い意志が。


 咲は、彼の言葉に心を激しく揺さぶられた。こんなにも私のことを真っ直ぐに想ってくれる人がいる。外見でもなく、咲自身を見てくれる人がいる。


(……彼を、信じたい……。ううん、信じよう……)


 咲の心の中で、長年抱えてきた恐怖と、彼への募る想いが激しくぶつかり合っていた。……でも、最後に勝ったのは、彼への想いと彼がくれた希望だった。


(……もし、この先、また何か辛いことがあったとしても……。その時は、二人で乗り越えればいい。……でも、今、この人の手を離したら、私は、きっと、一生後悔する……)


 咲は覚悟を決めた。自分の幸せから、もう、逃げないと。


「……智也くん」


 咲は涙を拭い彼を見つめた。まだ声は少し震えていたけれど、瞳には確かな光が戻っていた。


「……私も……智也くんが好き。……ずっと好きだった……。……不安が全くないわけじゃないけど……それでも、あなたと一緒にいたい」


 咲は、そう言って彼の手にそっと自分の手を重ねた。


「咲!」


 智也は、咲の名前を呼び、感極まったように彼女を強く抱きしめた。テーブルの上の食器が、カタンと小さな音を立てる。周囲の客が少しだけこちらを見たかもしれないが、二人の耳には届かなかった。


 二人の間にあった、長年の、幼馴染という見えない壁が、ついに、取り払われた瞬間だった。


 しかし、その時、レストランの窓の外。街灯の影から、二人の様子を、じっと見つめている男の影があった。


 それは、変わり果てた姿の、高橋健介だった。彼の瞳には、咲への歪んだ執着と、そして、智也への、暗く燃える嫉妬の炎が宿っていた。


 咲と智也の、新たな恋の始まりは、まだ、過去の影から、完全に自由になったわけではなかったのだ。

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