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第8話 繰り返される過去、選ぶべき未来

 スマートフォンの画面に表示された名前に、咲は思わず息を飲んだ。数日前に高橋 健介と決別したばかりの心にその名前は重く響く。


「山本 翔太……? どうして、今……?」


 最後に連絡を取ったのは、彼が図書館を辞める少し前だった。

 元同僚だった彼の名前は、かつて一緒に働いた日々の記憶を呼び覚ました。

 メッセージアプリの通知には『久しぶり、元気にしてる?』という短い問いかけ。具体的な用件がないことが、かえって咲の心を再び小さく波立たせた。まるで、数日前の健介からの接触をなぞるかのように。


 一人で考えていても、また悪い方向にばかり思考が向かいそうだ。咲は、こういう時に頼りになる親友へと、スマートフォンの画面を操作した。


「志帆、今日この後って少し時間ある? ちょっと話したいことがあるんだけど……」


 昼休みに送ったメッセージに、夕方頃、「大丈夫だよ。仕事終わったら、いつものカフェで」と、頼もしい返信があった。


 仕事が終わり、駅へと向かう道すがら、咲は翔太からのメッセージのことを考えていた。


 数日前の健介の時のように、また復縁を迫られるのだろうか。それとも、真一のように、過去の話しをするなと釘をさされるのだろうか……。どちらにしても、もう過去の自分のように流されるつもりはなかった。

 待ち合わせ場所のカフェに着くと、窓際の席に座る志帆が、こちらに気づいて手を軽く挙げる。


「お疲れ、咲」

「お疲れ様、志帆。待たせちゃった?」

「ううん、今来たとこ」


 席に着き注文を済ませると志帆は早速といった様子で切り出した。


「で、話って何? メッセージの感じだと、また何か面倒事?」


 志帆の目は心配と好奇心が半分ずつといった色を浮かべている。咲の周りで最近起こる出来事の多さを、彼女は友人として少し面白がりつつも、本気で気にかけているのだ。


「面倒事、かなあ……。実は、今日……山本翔太から連絡があって」


 咲が告げると、志帆は「へえ」と短く声を漏らし、少し考えるような仕草を見せた。


「山本翔太……懐かしい名前だね。健介くんの次は彼か……。彼も、また咲に復縁を迫ってきたりして」

「『元気?』って、それだけだったんだけど。……健介くんと同じってことは無いと思うんだよね。真一のようにまた周りをうろちょろするなって言われるんじゃないかと思っちゃって」


 咲は、いろいろな出来事を思い出し、少し不安げに付け加えた。


「今、何をしてるんだろうね」


 志帆はコーヒーを一口飲んで、続ける。


「しかし、咲の周りって、ほんと人が途切れないよね。昔の人まで、こうやってひょっこり現れるんだから。……智也くんもそうだけど、あんた見てると、なんだか皆、放っておけないような、応援したくなるような気持ちになるのかもね。……まあ、それは咲の優しさとか、一生懸命さのせいなんだろうけど」


 志帆は、咲の持つ人間的な影響力について、そう考えていた。咲自身の人柄が周りを動かすのだろう、と。


「私が……? そんなことないと思うけど……」


 咲自身は、志帆の言葉の意味を測りかねて、少し困ったように首を傾げる。自分にそんな人を引き付ける力があるとは全く思っていないからだ。


「まあ、本人は無自覚なんだろうけどね」と志帆は笑う。「で、どうするの? 返事は?」

「……一応……返信だけはしようかなって。それで、もし会いたいって言われたら……復縁だったとしても、今度はちゃんと断れると思うから。健介くんの時みたいに」


 健介との一件を経て、咲の中には、以前にはなかった決意が芽生えていた。もう、利用されたり、都合よく扱われたりするのは終わりにしたかった。


「それが良いかもね。ちゃんと自分の口でけじめをつけるのは大事。ただ……」


 志帆は少しだけ真顔に戻って言った。


「彼がどういうつもりで連絡してきたのかは分からないから、会うなら人目のある場所で、昼間にするとか、少し警戒はした方がいいんじゃない? あの頃とは状況も違うだろうし、健介くんみたいなこともあるから」

「……うん、そうだね。ありがとう、志帆」


 友達の冷静なアドバイスに、咲は少しだけ気持ちが落ち着くのを感じた。



 咲は、翔太に『元気だよ』と当たり障りのない返信をした。すぐに彼から「少し話したいことがある」と返事があり、咲は志帆のアドバイス通り、週末の昼間、人通りの多い駅前のカフェを指定して会う約束をした。


 約束の日、咲は、少し早めにカフェに着き、窓際の席に座って心を落ち着かせた。

 健介の時とは違う。今の自分なら大丈夫なはずだ。何を言われても相手の言葉に惑わされず、自分の意思を伝えられるはずだ。


 数分後、翔太が現れた。


 咲の目に映った彼は、最後に見た時の自信に満ちたエリートな雰囲気は消え失せ、どこか疲れた焦りの色を浮かべていた。

 スーツは少し着古した感じでネクタイも緩んでいる。その姿は、数日前に会った健介の姿と、嫌でも重なって見えた。


「……久しぶり、咲」


 翔太は、ぎこちない笑顔で、咲の向かい側の席に座った。


「……お久しぶりです、山本さん」


 咲は、努めて落ち着いた声で、他人行儀な呼び方をした。もう、彼を「翔太くん」と呼ぶ気にはなれなかったのだ。


「……元気そうで、良かった」


 翔太は、探るような目で咲を見た。


「はい、おかげさまで。……それで、お話というのは?」


 咲は、単刀直入に切り出した。長話をするつもりはないという意思表示でもあった。


「……ああ、うん……。その……」


 翔太は、言い淀んだ。コーヒーカップを持つ手が、わずかに震えているのが見えた。


「……まず、謝りたくて。……あの時は、本当にすまなかった。俺、完全にどうかしてたんだ。仕事がうまくいって、調子に乗って……。君を、酷く傷つけた……」


 彼は、そう言って、深く頭を下げた。


 咲は、黙って彼の言葉を聞いていた。その謝罪は、健介のものよりは、少しだけ誠意が感じられるような気もした。だが、次の言葉を聞いて、咲はその考えが甘かったことを悟る。やはり、彼も同じだったのだ。


「……君と別れてから、俺、全然ダメなんだ。……仕事で大きなミスをして、結局、プロジェクトから外されて、関連会社に出向になっちまった……。周りからは白い目で見られて……。情けない話だけど……」


 彼は、自分の転落ぶりを語り始めた。やはり、健介と全く同じパターンだ。


「……それで、よく考えたんだ。……俺が輝けていたのは、咲がそばにいてくれたからなんだって。君のサポートがあったから、俺は、あの大きなプロジェクトも成功させられたんだ。……君は、俺にとって、勝利の女神・・・・・だったんだよ!」


 翔太は熱っぽい口調で言った。その目には、過去の栄光への執着と、それを再び手に入れたいという欲望が、ありありと浮かんでいた。


(……勝利の女神)


 咲は、心の中で冷たく反芻した。健介くんは「幸運の女神」と言った。呼び方は違えど、結局は同じこと。

 彼らは、私自身を見てはいない。私の周りで起こる、彼らにとって都合の良い偶然を求めているだけだ。


「咲、俺、本当に反省してる。もう一度、チャンスをくれないか? 君さえいてくれれば、俺は、絶対にやり直せる! 今度こそ、君を大切にする。絶対に、幸せにするから!」


 翔太は、身を乗り出して、咲に懇願した。

 咲は、彼の目を、まっすぐに見つめ返した。その瞳には、もう何の揺らぎもない。健介に言い放った時と同じ、強い意志が宿っていた。


 そして、静かに、はっきりとした口調で言った。


「山本さん。あなたの成功は、あなた自身の努力の結果です。……そして、あなたの失敗も、あなた自身の責任です。……私のせいではありません」

「……え?」


 翔太は、呆気に取られたような顔で咲を見た。彼の予想していた反応――困惑、同情、あるいは、かつてのような従順さ――とは全く違ったのだろう。


「私は、あなたの成功のための道具ではありません。勝利の女神でもありません……あなたは、あの時、成功した自分にふさわしいのは私ではない、と判断して、私を捨てた。……そうですよね?」


 咲の言葉は、静かに、しかし容赦なく、彼の自己欺瞞を突いた。


「そ、それは……あの時は……!」


 翔太は、言葉に詰まり、視線を泳がせる。


「……もう、私に関わるのはやめてください。……私は、私の人生を生きていきます。あなたも、誰かの存在をあてにするのではなく、ご自身の力で、もう一度、立ち上がってください」


 咲は、そう言って、静かに席を立った。伝票を手に取る。


「……咲! 待ってくれ! 話はまだ……!」


 翔太が、慌てて呼び止める声が背後から聞こえたが、咲は一度だけ軽く頭を下げると、もう振り返ることなく、カフェを後にした。


 カフェを出ると、初夏の爽やかな風が、咲の頬を撫でた。

 空は、どこまでも青く澄み渡っている。咲の心も、空と同じように、晴れやかだった。

 これで、本当に、過去と決別できた。健介くんにも、翔太くんにも、自分の言葉で、はっきりと「NO」を突きつけることができた。それは、咲にとって、計り知れないほど大きな成長だった。過去の自分とは違う。そう、確かに感じられた。



 その夜、咲は、智也に電話をかけた。健介の時と同じように、今日の出来事を、自分の言葉で伝えたかった。隠し事はしたくない。彼には、ありのままの自分を知っていてほしいと思ったのだ。


「もしもし、智也くん? 昨日はありがとうね。あのね……実は今日……」


《咲? どうした?》


 智也は、電話の向こうで、すぐに咲の少し改まった口調に気づいたようだった。


 咲は、翔太と再会し、彼に復縁を迫られたこと、そして、きっぱりと断ったことを話した。


 智也は、今回も黙って咲の話を聞いていた。彼の反応を少しだけ不安に思いながら咲が話し終えるのを待っていると、その声には、称賛と、そして、深い安堵の色がこもっていた。


《……そっか。……ちゃんと、話せたんだな。……すごいな、咲。本当に強くなった》


「……うん。……もう、大丈夫だと思う」


 咲の声にも、確かな自信が宿っていた。


《……そうか。……良かった。……咲が、自分で乗り越えたんだな》


 智也は、心から嬉しそうに言った。彼の言葉には、咲自身の力を信じる響きがあった。


「……智也くんが、いつもそばにいてくれたからだよ。話を聞いてくれて、信じてくれたから。ありがとう」


 咲は、素直に、感謝の気持ちを伝えた。彼の変わらない優しさと信頼が、咲に勇気をくれたのだ。


《……俺は、何もしてないって。咲が頑張ったんだ》


 智也は、そう言って、少し照れたように笑った。


 二人の間には、温かく、心地よい空気が流れていた。過去の影は、もう、そこにはない。あるのは、未来への、確かな希望だけだ。


「……なあ、咲」


 智也が、少し改まった口調で、咲の名前を呼んだ。


「……今度の休み、どこか行かないか? 二人で、ゆっくりと」


 その誘いは、以前の咲なら、戸惑って即答できなかったかもしれない。健介との決別を経て、そして翔太との決着もつけた今、咲の心に迷いはなかった。


「……うん、いいね!」


 咲は、心からの笑顔で即座に答えた。


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