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第7話 過去からの懇願、決別の言葉

「……咲?」


 聞き覚えのある声に、咲ははっとして顔を上げた。図書館からの帰り道、夕暮れの商店街を歩いていると、不意に呼び止められたのだ。


 そこに立っていたのは、変わり果てた姿の、高橋 健介だった。

 大学時代に別れた時のような、自信に満ちた輝きは、もうどこにもない。やつれた顔、サイズの合っていないくたびれたスーツ、そして、どこか落ち着きなく彷徨う瞳……。数年という歳月が、彼から多くのものを奪い去ったことを物語っていた。


「……健介……くん……?」


 咲は自分の目を疑った。あまりの変わりように、言葉を失う。


「久しぶりだな、咲。……元気にしてたか?」


 健介は力なく笑って咲に近づいてきた。その笑顔は、痛々しく、無理をしているのが明らかだった。


「……急にごめんな。でも、どうしても君に会いたくて……。ちょっと、話があるんだ。……時間、あるか? 近くの喫茶店でも、どうかな」


 咲は戸惑った。彼と、今さら何の話をするというのだろう? もう、とっくに終わった関係のはずだ。それに、彼と会うのは少し怖い。あの残酷な別れの記憶が、蘇ってくる。


(……断ろう……。もう、関わりたくない……)


 咲がそう思い、口を開きかけた、その時だった。


「……頼む、咲。少しでいいんだ。……どうしても、君に話したいことがある。……謝りたいんだ。あの時のこと……」


 健介は、すがるような目で咲を見つめた。その瞳には、切実な響きがあった。かつての傲慢さは微塵も感じられない。


 咲は、彼のその姿を見て、断ることができなかった。

 昔から困っている人を見ると放っておけない性格だった。たとえ、それが、自分を深く傷つけた相手であっても……。そして、心のどこかで、「謝りたい」という彼の言葉の真意を確かめたい気持ちもあった。


「……分かりました。少しだけなら……」


 咲は、小さな声で、そう答えた。


 二人は、近くの昔ながらの喫茶店に入った。赤いベルベットの椅子が並ぶ少し薄暗い店内。窓際の少し奥まった席に座った。

 咲は、アイスティーを、健介は、水を注文した。彼は、メニューに目をやることもなかった。


 気まずい沈黙が流れる。咲は、何を話せばいいのか分からず、テーブルの上のシュガーポットを、ただ見つめていた。


「……咲、本当に、ごめん」


 先に口を開いたのは、健介だった。


「……あの時は、本当に、俺、どうかしてたんだ。……就職が決まって、成功して、完全に舞い上がってた……。自分が偉くなったと勘違いして……君の優しさや、大切さに、気づけなかった」


 彼は、テーブルに肘をつき、力なく顔を覆った。


「……もう、いいんです。昔のことですから」


 咲は、努めて冷静にそう答えた。彼の謝罪の言葉は、咲の心には響かなかった。それは、あまりにも自分本位に聞こえたからだ。


「良くない! 俺は、君に、ひどいことをした。……本当に、心の底から後悔してるんだ」


 健介は、顔を上げ、声を荒らげた。彼の顔は、苦悩に歪んでいる。


「……君と別れてから、俺、何をやってもうまくいかなくて……。会社でも、大きなミスばかりで、結局、人間関係もこじれて、地方の子会社に飛ばされちまった……。友達だと思ってた奴らも、手のひらを返したように離れていって……。今は、もう、一人なんだ。毎日、惨めだよ……」


 彼は、自分の転落ぶりを堰を切ったように語り始めた。

 その言葉は、自己憐憫じこれんびんに満ちていて聞いているのが辛かった。

 話し続ける彼の言葉を、咲は黙って聞いていた。しかし、同情する気持ちは、残念ながら少しも湧いてこなかった。


「……それで、気づいたんだ。……いや、ずっと分かっていたのかもしれない。……俺がうまくいってたのは、全部、咲のおかげだったんだって! 君と一緒にいた時は、本当に、何もかもうまくいってた! 勉強も、就職も! プレゼンだって、いつも通った! 君がそばにいてくれるだけで、俺は、何でもできる気がしたんだ! 君は、俺にとって、幸運の女神だったんだよ!」


 健介は興奮した様子で、テーブルに身を乗り出した。その目は、異様な熱を帯びていた。


 咲は、心の中で冷たく確信した。彼の言葉に咲への想いは、ひとかけらも感じられない。あるのは、過去の幸運への執着だけだ。


「咲、頼む! もう一度、俺とやり直してくれないか? 君がそばにいてくれれば、俺は、また、昔みたいに輝けるはずなんだ! 今度こそ、君を絶対に幸せにする! 絶対に、裏切ったりしない! だから、お願いだ!」


 健介は、必死な形相で咲に懇願した。彼の瞳には、咲への愛情ではなく、咲の周りで起こる「幸運」への期待がギラギラと燃えているように見えた。

 それは、かつて咲を捨てた時の冷たい目とは違う種類の、しかし、同じくらい身勝手な光だった。


 咲は、静かに首を横に振った。もう、涙は出なかった。


「……ごめんなさい、健介くん。……それは、できません」


「な、なんでだよ!? 俺、こんなに反省してるのに! 俺には君が必要なんだ! 君がいなきゃ、俺はもうダメなんだ!」

「……あなたは、反省なんてしていない」


 咲の声は、低く、そして、驚くほど落ち着いていた。自分でも、その冷静さに少し驚いた。


「あなたは、ただ、昔の幸運を取り戻したいだけ。……私と一緒にいた時に起こったことを……都合のいい偶然に、すがりたいだけでしょう?」

「そ、そんなことは……! 俺は、純粋に、咲と……!」

「……もう、やめてください」


 咲は、健介の言葉を、きっぱりと遮った。


「私は、あなたの成功のための道具じゃない。幸運のお守りでもない。……私は、私なの。福田 咲という、一人の人間なんです」


 咲は、まっすぐに健介の目を見つめて言った。

 そこには、もう、かつての、おどおどした弱い自分はいなかった。数々の経験と友人たちの支えが咲を強くしていたのだ。


「……咲……。そんな……ひどい……」


 健介は呆然として咲を見つめていた。

 彼にとって、咲のこの毅然とした態度は予想外だったのだろう。彼は、まだ、昔の言いなりになる咲を期待していたのかもしれない。


「……さようなら、健介くん。……あなたは、私といたときの偶然をあてにするんじゃなくて、自分の力で立ち直ってください。……それが、本当の反省だと思います」


 咲は、そう言って席を立った。伝票を掴みレジへと向かう。そして、一度も振り返ることなく喫茶店を後にした。


 店の外に出ると、夕暮れの優しい光が咲を包み込んだ。

 咲は、大きく深呼吸をした。

 過去と完全に決別できた。そんな、清々しい気持ちだった。そして、心がふわりと軽くなったような気がした。

 長年、肩にのしかかっていた重い荷物を、ようやく下ろせたような、そんな解放感があった。


 アパートへの帰り道、咲は、智也に連絡を取った。

 彼に、今日の出来事を正直に話そうと思ったのだ。隠し事はしたくない。なぜか、今の自分を……ありのままの自分を知ってほしかったのだ。


「もしもし、智也くん? 今、大丈夫?」

《咲? どうした? 大丈夫だよ》


 電話口の向こうの、彼の声は、いつも通り優しかった。


「あのね、今日……」


 咲は、健介と再会したこと、彼に復縁を迫られたこと、そして、きっぱりと断ったことを、全て話した。


 智也は、黙って咲の話を聞いていた。そして、咲が話し終えると、静かに言った。


《……そっか。……大変だったな。……でも、よく頑張ったな、咲》


 彼の声には、非難の色など微塵もなく、ただ、咲を労わる温かさがあった。


「……うん……」


 咲は、彼の言葉に、胸が熱くなった。


《……咲が嫌なら、俺が、高橋に、二度と近づかないように言うこともできる。……でも、咲が、自分でちゃんと決着をつけられたなら、それでいいと思う。……えらいよ、咲は》


 智也は、そう言ってくれた。彼の、絶対的な信頼が、咲の心を強くする。


「……ありがとう、智也くん。……話せて、良かった」


《俺の方こそ話してくれてありがとうな。……何かあったら、絶対に、一人で抱え込むなよ》


「うん、分かってる」


 電話を切った後、咲は、智也への信頼と愛情が、さらに深まっているのを感じていた。彼だけは違う。彼は私自身を見てくれている。


 過去との決別を果たし、咲の心は、少しずつ前向きな光を取り戻し始めていた。しかし、安堵したのも束の間、ポケットのスマホが、再びメッセージの受信を告げた。


 画面に表示された名前は……。


『久しぶり、咲。元気だったか? 山本翔太だけど。……ちょっと、話したいことがあるんだけど、近いうちに時間とれないかな?』


 山本 翔太……。二番目の元カレだった。


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