インターホンの音が、静まり返った部屋に響いた。
咲の心臓が小さくドキリと跳ねた。……志帆だ。メッセージの通り本当に来てくれたんだ。しかしドアを開けるべきか迷っていた。
今の、こんな酷い姿、親友とはいえ見せたくない。でも、無視するわけにもいかない。彼女は、私のために、わざわざ来てくれたのだから。
咲は、重い足取りで玄関に向かいドアを少しだけ開けた。
「……しほ……」
「咲! 大丈夫!? 心配したんだから!」
志帆は、ドアの隙間から咲の顔を見るなり、勢いよくドアを開けて部屋に入ってきた。その手には、有名パティスリーの箱が握られている。
「ほら、ケーキ買ってきたよ! あんた、甘いもの好きでしょ?」
彼女は努めて明るい声で言った。でも、その目は、咲のやつれた姿を見て、一瞬、痛ましげに歪んでいた。
「……ありがとう……。でも、今、あんまり食欲なくて……」
咲は、力なく答えた。
「何言ってんの! ちょっとでも食べなきゃダメだよ! ほら、座って!」
志帆は、有無を言わさず咲をリビングの小さなテーブルの前に座らせると、買ってきたケーキを箱から取り出し始めた。色とりどりの、美しいケーキ。今の咲には、それがひどく、場違いなもののように見えた。
「……咲、無理しないでいいから、少しずつでいいから、話してごらん? 何があったの?」
ケーキを並べ終えると、志帆は咲の隣に座り、優しく声をかけた。
咲は、俯いたまま、何も話せなかった。何を、どう話せばいいのか、分からなかった。
三度目の同じような結末。でも、今回は「別れ」ですらない、もっと屈辱的な……。
「……一真くんに……もう、近づかないでほしいって……言われちゃった……」
途切れ途切れにそう呟いた。声が震え涙がこみ上げてくる。
「は……!? 何それ! どういうことよ!」
志帆は、驚きと怒りで声を上げた。
「……私が近くにいると、仕事に影響が出るから……イメージが、悪くなるからって……」
咲は、一真に言われた言葉を、そのまま繰り返した。言葉にするだけで、再び心が抉られるようだった。
「……ひどい……! 最低……!」
志帆は言葉を失い、怒りに肩を震わせた。
「成功した途端に、手のひら返しやがって……! あんないい子だったのに!」
「やっぱり私なんかじゃ……」
咲は、涙声で言った。
「咲!」
志帆は、咲の言葉を遮るように、強い口調で言った。
「絶対に、そんなことない! あなたは、何も悪くない! 悪いのは、あなたの価値を分からずに、そんな酷いことを言った、あの男の方よ!」
志帆は、咲の肩を掴み、まっすぐに咲の目を見つめた。
「いい? 咲。あなたは、すごく素敵な女性よ。優しくて、真面目で、思いやりがあって……。あなたの魅力は外見だけじゃない。……ううん、外見だって、私は好きよ」
「……でも」
「でも、じゃない! 自信持って! あんな男たちに、あなたの価値を決めさせちゃダメ!」
志帆の言葉は、力強くて、温かかった。
それは、咲の固く閉ざされた心に、少しずつ、染み込んでいくようだった。
「……咲を振るなんて、彼らも本当に見る目がないっていうか、もったいないことしたわよねぇ。……まあ、おかげで、最近、高橋くんも山本くんも、散々みたいだけど。自業自得よ、あんなの」
志帆は、少しだけ皮肉を込めて付け加えた。咲が彼らの転落を知っているかは分からなかったが、志帆としては、溜飲が下がる思いだった。
本気で怒ってくれる志帆の姿を見て、咲の心がほんの少しだけ軽くなったようだった。
「ほら、ケーキ食べよ! たくさん買ってきたんだから好きなの選んで!」
志帆は、そう言って、フォークを咲に手渡した。咲は、まだ食欲はなかったけれど、志帆の気持ちに応えたいと思い、
モンブランを取ると、ゆっくりとケーキを口に運んだ。
甘い栗のクリームが、口の中に広がる。
「……美味しい」
咲は、小さな声で呟いた。
「でしょ? ここのケーキ、最高なんだから!」
志帆は、嬉しそうに笑った。
それから、ふたりは他愛もない話をした。
志帆の仕事の話、最近見た映画の話。いつものように、明るく、楽しく、話してくれた。
その声を聞いているうちに、咲の心の中に溜まっていた重たいものが、少しずつ、溶けていくような気がした。
しばらくして、志帆は、「じゃあ、そろそろ帰るね」と言って、立ち上がった。
「咲、あんまり思い詰めちゃダメだよ。あなたは、一人じゃないんだから。私だって、大野くんだっているんだし」
志帆は、帰り際に、そう言って、咲の頭をポンと撫でた。
「……うん。ありがとう、志帆」
咲は、心からの感謝を込めて、そう言った。
志帆が帰った後、部屋には、再び静寂が訪れた。でも、それは、以前のような、息苦しい静寂ではなかった。どこか、温かさが残っているような、そんな静けさだった。
咲は、テーブルの上に置かれた、食べかけのケーキを見た。そして玄関から音がした。なんだろうと思ってドアを開けると、いつの間にか置かれていた、小さな紙袋に気づいた。
(智也くん……来てくれてたんだ)
袋の中には、咲が好きなお店のパンがこれでもかと入っていた。
(……私、一人じゃないんだ)
咲の目から、再び、涙がこぼれ落ちた。でも、それは、絶望の涙ではなく、感謝と、そして、ほんの少しの、希望の涙だった。
(……このままじゃ、ダメだ……)
いつまでも塞ぎ込んでいるわけにはいかない。心配してくれる、大切な人たちがいるのだから。