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第5話 三度目の“サヨナラ”、閉ざされた心

 咲の胸に刺さった、小さな不安の棘は、日を追うごとに無視できない痛みを伴って存在感を増していった。


 グランプリ受賞後、鈴木 一真の生活は、咲の予想をはるかに超えるスピードで変化していった。


 彼は文字通り、シンデレラストーリーを駆け上がっていた。

 雑誌のインタビュー、テレビ出演、有名ブランドとのコラボレーション……。彼の名前とイラストを目にしない日はないほどだった。

 それに伴い、彼の生活も驚くほど派手になっていった。高級マンションに引っ越し、服装もブランド物で固め、夜な夜な業界関係者とのパーティーに繰り出す。


 咲との時間は、ほとんどなくなった。たまに連絡があっても、それは決まって、彼の自慢話か、愚痴だった。


「咲さん、聞いてくださいよ! また新しい仕事が決まったんです!」

「今日のパーティー、マジでだるかった……。でも、行かないと仕事に響くし……」


 彼の言葉には、以前のような、咲への配慮や純粋な喜びは感じられなかった。あるのは、成功者の驕りおごりと、世間への不満だけ。


 写真サークルにも彼は顔を出さなくなった。咲が、サークルのメンバーから、「鈴木くん、最近見ないけどやっぱり忙しいわよね?」と聞かれるたびに、胸が痛んだ。「忙しいみたい」と答えるのが、精一杯だった。


 そして、咲が恐れていた日は、思ったよりも早くやってきた。ある夜に一真から久しぶりにメッセージが届いた。

 咲の心臓がドクンと跳ねる。……嫌な予感しかしない。


『咲さん、突然ごめん。大事な話があるんだ。明日、少しだけ時間作れないかな?』


 咲は、「分かった」としか返信することができなかった。


 翌日、指定されたのは、ホテルのラウンジだった。

 咲が、場違いな場所に戸惑いながら席に着くと、少し遅れて一真が現れた。高価そうなスーツを着て、髪も以前とは比べ物にならないほど、おしゃれにセットされている。


「ごめん、待たせた?」


 彼は、悪びれる様子もなく、咲の向かい側に座った。


「……ううん」


 咲は、かろうじて、そう答えた。


「……単刀直入に言うよ」


 彼は、コーヒーを一口飲むと、切り出した。


「知り合いって言うのやめてもらえないか。俺の女性関係は美人ばかりでね……あの、言いにくいけど……君のような人が近くにいると仕事に影響が出ちゃうんだ」


 ……やっぱり。咲は、唇を噛み締めた。涙がこぼれないように、必死で上を向く。


「……君には本当に感謝してるんだ。君がいなかったら今の俺はいない。それは本当だよ。君は、俺にとって、幸運の女神……いや、踏み台……って言ったら、怒るかな?」


 彼は、冗談めかして、そう言った。その目は、少しも笑っていなかった。


「……でも、正直に言うと。今の俺には、もう、君は必要ないんだ。もっと、大きな世界で生きていきたい。……分かるだろ? 君に俺の周りをうろちょろされちゃうと困るんだ。もう、住む世界が違うんだよ。」


 デジャヴュ。

 健介くんも、翔太くんも、同じことを言った。

 私とは、住む世界が違う、と。


「……分かりました」


 咲は、静かに、そう答えた。もう、涙も出なかった。


「……そっか。……分かってくれて、助かるよ。……じゃあ、俺、この後、打ち合わせがあるから」


 一真は、そう言って、あっさりと席を立った。彼は、最後まで、一度も咲の目をまともに見ようとはしなかった。


 一人残されたラウンジで、咲は、窓の外をぼんやりと眺めていた。

 街の灯りが、きらきらと輝いている。でも、その輝きは、今の咲には、ひどく空虚に感じられた。


 咲の心は、もう、何も感じなくなっていた。悲しみも、怒りも、悔しさも……。

 ただ、深い、深い、虚無感が、彼女を包み込んでいた。結局、自分はこの程度の人間なのだ。誰かにとって、都合のいい時だけの存在。愛され続ける価値など、どこにもないのだ。そんな冷たい諦めが、咲の心を完全に支配していった。



 その日から、咲は、心を完全に閉ざしてしまった。

 図書館の仕事も長期の休みを取った。「体調不良」という、ありきたりな嘘をついて。本当は、もう、外に出る気力もなかった。


 部屋に閉じこもり、ただ、ベッドの上で、天井を眺めているだけ。時間が、ただ、無意味に、灰色に過ぎていく。

 食事も喉を通らず眠れない夜が続いた。鏡に映る自分は、生気を失い、まるで抜け殻のようだった。


 そんな咲の異変に、幼馴染の智也は、すぐに気づいた。咲が図書館を休んでいることを知り、何度も彼女のアパートを訪れた。


 インターホンを鳴らしても返事はない。ドアをノックしても反応はない。智也は、心配で、いてもたってもいられなかった。


 彼は、以前預かった合鍵で、そっとドアを開けた。


「……咲? 入るぞ?」


 部屋の中は薄暗く空気が淀んでいる。

 咲は、ベッドの上で毛布にくるまって丸くなっていた。


「……咲、大丈夫か? 何かあったのか?」


 智也は、ベッドのそばに近づき、優しく声をかけた。


 咲は、ゆっくりと顔を上げた。その顔は、ひどくやつれ、生気が感じられない。


「……ともやくん……?」


 咲の声は、か細く、消え入りそうだった。


「……何があったんだよ咲……。俺でよければ、話してくれ」


 智也は、胸が締め付けられる思いで、そう言った。


 しかし、咲は、首を横に振った。


「……なんでもない……。放っておいて……」


 彼女は、そう言って再び毛布の中に潜り込んでしまった。


 智也は、それ以上、何も聞けなかった。今の咲に必要なのは、言葉ではなく、ただ、そばにいてくれる存在だと感じたからだ。

 彼は、黙って部屋の換気をし、簡単な食事を作りテーブルの上に置いた。そして、「何かあったら、いつでも連絡してこいよ」とだけ言い残し、部屋を出た。


 それから智也は、毎日、咲のアパートを訪れた。何も聞かず、ただ、咲のそばにいる時間を作った。


 ドアの外に、温かいスープや、咲が好きだったお菓子を置いていったり。「元気にしてるか?」という、短いメッセージを送ったり。


 彼は、彼なりの方法で、咲を支え続けようとしていた。


 咲は、そんな智也の優しさに気づいていた。ありがたい、と思っていた。でも、素直に受け取ることができなかった。そして、智也からの連絡を無視し、彼が来ても、ドアを開けないこともあった。彼を、遠ざけようとしていたのだ。



 志帆もまた、咲のことを深く心配していた。

 咲が一真と別れ、心を完全に閉ざしてしまっているんじゃないかということを、途切れ途切れの連絡で察していた。


(咲って、ほんと、なんでこうなっちゃうんだろう)


 志帆は、咲が仕事も休み部屋に引きこもっていると聞いて、いてもたってもいられなかった。

 あの真面目な咲が仕事を休むなんて、よっぽどのことだ。このまま放っておいたら、本当に心が壊れてしまうかもしれない。


(よし、とりあえず顔見に行こう! 美味しいケーキでも買って!)


 志帆は咲にメッセージを送った。


『咲、大丈夫? 心配だから、今からそっち行くね! 美味しいケーキでも買ってくから!』


 返信はなくても構わない。とにかく、顔を見て、話を聞いて、少しでも元気が出るように、いつものように笑わせてあげよう。

 志帆はコートを羽織り、駅前の人気のケーキ屋に寄り道しながら、咲のアパートへと急いだ。


 一方、咲は、どん底の状態で、部屋のベッドに横たわっていた。生きる気力さえ失いかけていた時、スマートフォンの画面が不意に光った。


 志帆から届いていたメッセージだった。


『咲、大丈夫? 心配だから、今からそっち行くね! 美味しいケーキでも買ってくから!』


 いつもの明るく力強い口調。でも、その裏にある深い心配が咲にも痛いほど伝わってきた。


(……志帆)


 咲はスマホを握りしめた。一人でいたい。誰にも会いたくない。でも、心のどこかで、誰かにそばにいてほしい、とも思っていた。

 矛盾した気持ちの中で、志帆の変わらない友情が、冷え切った心に、ほんのわずかな温もりを灯したような気がした。


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