「……この人、斬れる」
春の光が差し込む体育館の隅で、私は立ち尽くしていた。
ただ一本の、空気を裂くような剣筋を見て。
剣先は確かにエアーソフト剣――つまりスポンジ素材の剣なのに、
それでも私は“斬られた”気がしたのだ。
黒ジャージ、長めの前髪からのぞく切れ長の目。
音もなく動き、構えたその瞬間。
世界が、ピンと張り詰めた。
(……なに、この人)
剣王会のエース――
その存在感は、ただ立っているだけで周囲の空気を変えるほど。
そして、私の入部の理由も……この人だった。
「えっ、スポーツチャンバラって、あのチャンバラごっこみたいなやつ?」
春休みの終わり。何気なく体育館を覗いたときの、友達の言葉。
その“ごっこ”という響きに、私は黙って首を振った。
「違う。……あれは、本気だよ」
もちろん、茉莉奈も最初は物珍しさから体験会に行った。
だが違った。
だって、その瞬間見たのだ。
藤井先輩の、無駄のない構え。風みたいに滑らかなステップ。
音を立てずに間合いを詰め、わずかな動きで一閃――
一拍置いて、相手の肩に“剣”が当たる。
決して乱暴ではない。むしろ静かで、洗練されていて、美しかった。
心臓が――ドン、と跳ねた。
それが、全部の始まりだった。
「構えてー、始めっ!」
莉乃先輩の声が響く。剣王会の主将で、男子からも女子からも人気の麗人。
私は先輩の背中越しに、今日も藤井先輩を見ていた。
先輩は今日も一言も喋らない。
でも、その一挙手一投足がすべてを語っていた。
練習のとき。手を抜くことは絶対にない。
相手が初心者だろうと、主将だろうと、全力で一本を取りにいく。
そんな姿が、私は、たまらなく好きだった。
(って……違う、違うから! 憧れ! 尊敬! それ以上じゃない!)
いや、でも最近ちょっと変な夢見るし、先輩が水飲むだけで謎にドキドキするし――
「茉莉奈、集中」
「わっ、莉乃先輩っ!? す、すみません!」
ぎゃー! すっかり妄想の世界にトリップしていた私に、主将から鋭いツッコミ。
「次、藤井。……相手、茉莉奈」
「……えっっっ!!?」
ちょ、ちょ、待って。私、今日の朝ごはんヨーグルトだけだよ!? 体力ないよ!?
「……構えて」
いつの間にか、体育館の中央。
気づけば、藤井先輩が、無表情でソードを構えていた。
(ああもう……逃げられない……!)
でも。
その目が「ちゃんと見てる」ってことだけは、確かにわかった。
「始めっ!」
息を止めて、私は飛び出す。
まだ技も何もない。勢い任せ。でも、だからこそ全力で――!
「甘い」
ふわ、と風が吹いた。
次の瞬間、私の手首に先輩の剣が触れた。
「一本!」
莉乃先輩のコールが響く。
たった一瞬。
なのに、世界が静止したような感覚だった。
動いてないように見えたのに、いつの間にか距離を詰められていて、
無駄なく、迷いもなく、正確に打ち込まれた一本。
(……これが、藤井先輩)
すごい。
すごすぎて、かっこよすぎて、もう、言葉が出ない。
震える手でソードを握り直す。先輩はまた、何も言わずに構えた。
「……もう一本」
低く、でもまっすぐ響く声に、胸がぎゅっとなる。
練習が終わる頃、私はもう、へろへろだった。
体力ゼロの私には、スポチャンの練習は地獄……でも、やめたくない。
なぜなら――
「……下手だけど、目、逸らさないの、いい」
体育館の裏手で水を飲んでいると、後ろから声がして、びくっとした。
藤井先輩だ。
「あ、ありがとうございます……!」
え、え? 今、褒められた? 私、藤井先輩に褒められた?(語彙力迷子)
「……でも、動きが雑。膝、浮く。重心、浅い。詰めが甘い」
「……あれ? やっぱり厳しい!!」
なのに、ちょっと嬉しいとか思っちゃう自分が怖い。
先輩がバッグを肩にかけたとき、私は見つけてしまった。
あのチャーム。ふわふわの、丸いキャラ。
「……それって、モコモンですか!?」
「……あ?」
「私も大好きなんです! あの、もっこもこ感と無垢な目がたまらなくて!!」
「……俺は、カゲモン派」
「えぇー!? あの陰キャモン!? いつも隅っこで地面掘ってるじゃないですか!」
「……うるさい。……黙ってるほうが、かわいい」
\ドゴォォォォン!!!/
やられた。今のは完全にやられた。
静かに歩き去る先輩。
だけど、去り際に見えた、赤く染まった耳――
(え、ちょっと待って。ずるくない?)
私まだ、恋愛レベル1なんですけど?
そんな高等テクニック使ってくるの、反則では!?
これはまだ憧れ。尊敬。恋なんかじゃない。
……でも。
この胸の高鳴りは、きっと、物語の始まりの音だった。