2-10 渓谷からの帰還
白笶に抱えられ、無明と竜虎が谷底から帰還した頃、外はもう陽がなく深い薄闇色の空へと姿を変えていた。
大きな滝がある碧水側の吊り橋の前辺りで野営の準備を整えていた清婉は、急に谷底から現れた影にびくっと肩を竦めた。
「竜虎様! ········それと無明様もっ!! 無事ですか!? け、怪我は? お怪我はありませんかっ!?」
地面に降り立つと、騒がしい清婉とは逆に、雪鈴と雪陽はおかえりさない、と同時に立ち上がって姿勢を正して頭を下げた。焚火から離れた場所で瞑想をしていた宗主と白冰も、瞼を開けて三人が無事なことを確認する。
「大丈夫だよ。心配かけてごめんね」
「衣が乱れてますよ。ほら、直してあげますから、」
「必要ない」
すっと無明の前に左腕を出し、清婉の手を遮る。代わりに白笶が丁寧に衣の歪みを直し、ほどけかけていた赤い髪紐を結び直そうと手を伸ばす。
「公子様、自分でできるよ?」
さすがに申し訳なく思ったのか、無明は逃げるように一歩後ろに下がって、へへっと誤魔化して笑って見せる。こほん、とわざとらしく竜虎が咳ばらいをし、髪紐を結び終えた無明の腕を掴んだ。
「遊んでないで、白漣宗主たちに挨拶しろ」
わかった、と無明は頷き、離れた所にいるふたりの元へと駆け寄った。
「ごめんなさい、迷惑をかけました」
そして宗主たちの前で跪くと、無明は拱手礼をして深く頭を下げた。宗主は首を振り無明の肩に手を置く。白冰も困ったような表情で声をかける。
「君のせいではないし、迷惑だとも思っていないよ。彼に、狼煙になにかされなかった? 見たところ怪我はないようだけど、」
「あ、ええっと、うん、平気だよ。狼煙? それがあの鬼の名前?」
「我々が勝手に呼んでいる、彼の通り名みたいなものかな」
「そう、なんだ····ええっと、俺はこの通り。白笶公子が来てくれたおかげで、まったくの無傷だよ」
色々あったが、一応無事ではあった。思い出した無明は半笑いを浮かべて視線をどこかへ向ける。なんとなく察した白冰はそれ以上聞くのを止めた。すぐ後ろで佇んでいる白笶が同じく何かを思い出したのか、眼を細めて谷底の方を睨んでいた。
「公子殿、我々の落ち度だ。鬼がいると知っていながら油断をしていたせいで、危険な目に合わせてしまった。後で飛虎宗主に報告し罰を受けよう」
「それは大丈夫です! むしろ俺が簡単にさらわれたのが悪いし、結果何事もなかったわけですし、」
何事もなかった? と竜虎は引きつる。あれがどうして何事もなかったと言えようか。だが蒸し返したところで恥しかない。出かかった言葉をなんとか呑み込んで、雪鈴が用意してくれた茶を一気に飲み干す。
本来ならもうひとつの吊り橋も越えて、滝の近くの村で宿をとる予定だった。無理をすれば橋を渡れないこともないが、あえて危険を冒すこともないだろうということで、今夜はこの場で野宿をすることになるのだった。