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第五章 近づく距離、揺れる想い

 文化祭当日。秋の爽やかな風が校舎の中を吹き抜け、色とりどりの装飾がふわりとなびいていた。今か今かと開会式を待ち侘びている生徒たちのざわめきは、これまで時間をかけて準備してきた誇りと、楽しみに出会える期待で満ち溢れていた。窓から差し込む光は床に煌めく模様を描き、緊張と高揚が混ざり合う空気が体育館を満たしていた。


 待ち構えている生徒たちの期待に応えるように、開会式が始まった。僕はこの学園で最後の文化祭を取り仕切る生徒会長として緊張と責任感で体がこわばっていた。冷や汗が背中を伝い、呼吸を整えるのに集中する。いつものように、誰にも気づかれないよう表情を引き締めた。


「ただいまより、第四十七回北翔学園、文化祭を開会いたします」


 厳かな声が体育館に響き渡ると、生徒たちが「わーっ!」と歓声を上げた。今日この日のために、みんな協力し合って準備をしてきたのだ。生徒会役員に目を向けると、みんな感無量といった表情だ。特に一年生の役員たちは初めての文化祭で緊張と興奮が入り混じった表情を浮かべている。


 開会式が終了すると、生徒たちは一斉に自分たちのクラスの持ち場へと向かう。その表情はこの日を待ち侘びていたようで、笑顔に満ち溢れていた。体育館のステージではすぐに吹奏楽部員による演奏の準備が始まる。彼らの真剣な眼差しと緊張した面持ちが、これから始まる文化祭の空気を一層高めていた。


 僕は会場から全ての生徒が出たのを見届け、各クラスの状況を見て回った。この瞬間が僕の仕事、完璧な運営のための確認だ。どこかで不具合が生じていないか、予定通りに進んでいるか、細部まで目を光らせる必要がある。


「一年二組の皆さん、吹奏楽部の後のプログラムですが、準備はいかがですか?」


 僕が教室へと顔を覗かせると、クラス全員が色めき立った。女子生徒たちは小さく悲鳴を上げている。文化祭実行委員が僕の元へと走り寄ってきた。彼女の目はきらきらと輝き、頬は紅潮していた。


「志水先輩、ありがとうございます! 準備万端で今から体育館へ向かおうと思っています」


「そうですか。本番を楽しみにしていますよ」


 その言葉を聞いた一年二組の生徒たちは、キャーキャーと黄色い声をあげて「はい! がんばります!」と口々に答えていた。彼らの純粋な反応に、僕は内心微笑ましく思ったが、表情には出さない。生徒会長としての威厳を保ちながら、頷いて次の場所へ向かった。


 その後も舞台発表のクラスを一つずつ確認していった。最後の文化祭を生徒会長として完璧に仕上げたい。どのクラスも準備万端とばかりに、自信に満ち溢れていた。彼らの表情からは、この日のためにどれほど努力してきたかが窺える。その姿を見るたび、僕も静かな誇りを感じていた。


 最後に三年一組へと赴いた。廊下の前には所狭しとセットや備品がずらりと並べられている。人がひとり通れるかどうかの隙間を縫って教室の入り口へと向かったのだが、向かいから歩いていた人物とぶつかりそうになった。


「わっ!」


「おっと、危ない」


 よろけた僕の体を咄嗟に支えてくれたのは、礼央だった。息がかかるほど、顔が近い。僕の心臓は一気に跳ねた。時が止まったかのように、一瞬、世界が彼だけになった気がした。


 礼央は白いシャツにルネサンス風の豪奢な上着を身につけ、すでにロミオの衣装を纏っていた。普段から精錬された姿で人を惹きつける魅力がある礼央なのだが、髪の毛をオールバックにすると、整った顔立ちが強調され、とても綺麗だった。その姿はまさに舞台の上の王子そのもので、見る者の息を呑ませるほどだった。


 僕は数秒間、礼央に見惚れてしまった。彼の瞳は、舞台に立つ緊張感からか、普段より深い色に見えた。


「凪、忙しそうだな。大丈夫だったか?」


 礼央に声をかけられ、ハッと我に返った。少し頬に熱がこもっているのが分かった。自分の動揺を悟られないように、僕は一瞬目を伏せて心を落ち着かせた。


「うん。……ありがとう」


 礼央は太陽のような笑顔を僕に向けてきた。その笑顔が眩しすぎて僕は目を細めた。彼の笑顔には心を解きほぐす不思議な力があった。どんなに緊張していても、その瞬間だけは肩の力が抜けるような。


「ところで、うちのクラスに用だった?」


「えっと、文化祭実行委員に進捗状況を確認に……」


 そう言って教室の入り口を見たが、人とセットで溢れかえっていてそこまで辿り着けそうになかった。少し困って眉を下げると、礼央が気を利かせてくれた。彼は僕の表情の微かな変化にもすぐ気づくようだった。


「俺が聞いてこようか?」


「そんな……。主役は忙しいでしょう?」


「これぐらい、どうってことないよ」


 そう言うと礼央は踵を返して、教室の入り口に向かった。礼央が立ち去った後、僕は心臓の高鳴りを抑えるのに必死だった。間近で見た礼央の顔を思い返すだけでも顔が赤らんでしまう。胸の中で渦巻く感情を抑えるため、僕は深呼吸を繰り返した。


 しばらくすると礼央が戻ってきた。彼の足取りには軽快さがあり、どこか楽しげだった。


「特に問題ないようだよ。準備も全て終わってるから、そろそろ体育館にセットを運び込むって言ってた」


 その言葉に僕はホッと安堵した。この安心感は単なる仕事への安堵だけではなく、礼央が戻ってきてくれたことへの喜びも混じっていた気がした。


「そう……。何か問題があったら、僕に連絡するように伝えておいてもらえるかな?」


「おうっ! 任せとけ!」


 礼央は親指を立てて、請け負ってくれた。その仕草には彼特有の陽気さがあふれていて、見ているだけで心が軽くなる。


「じゃあ、本番、見に行くから……。頑張って!」


「ありがとう! 凪も頑張れよ!」


 僕は「じゃあ」とその場を立ち去ろうとすると、腕を掴まれた。急な出来事に思わずビクッとした。温かい感触が腕から伝わり、心臓が激しく鼓動する。


「……えっ?」


 振り向くと、礼央が少し照れくさそうに口を開いた。彼の頬がほんのりと赤く染まっているように見えた気がした。


「あのさ……」


 礼央がそう言った時、「おーい、鳴海―!」と礼央を呼ぶ声が教室の中から聞こえた。礼央は名残惜しそうに腕を離した。その指先が僕の肌を離れる瞬間、言いようのない寂しさが胸をよぎった。


「ごめん、行かなきゃ……」


「うん、頑張って」


 僕はそれだけ伝えると、その場から離れた。礼央に掴まれたところに熱がこもっているのが分かる。その温もりが消えないうちに、こっそりと自分の腕に触れてみる。


 ――ただ、腕を掴まれただけなのに……。


 胸の高鳴りを抑えるのに一苦労だった。こんなにも些細な接触で、ここまで動揺してしまう自分が恥ずかしくもあり、不思議でもあった。だけど、この感覚は確かに、僕の中で何かが変わり始めている証だった。

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