とうとう文化祭前日となった。準備が全て終わり、放課後に僕は屋上へと足を運んだ。フェンス越しに下を見ると、運動部の練習が終わったようで、部員たちが後片付けをしている姿が小さく見えた。
文化祭の準備は完璧に整っていた。あとは明日の本番を待つだけだ。
「どれだけ多くの人が来てくれるか、楽しみだな」
夕焼けでオレンジ色に染まった空を見上げた。天気予報では明日は晴れとのことだった。僕の心は晴れやかで、高校最後の年の生徒会最後のイベント。持てる力を全て注ぎ込んだという充実感があった。
そのとき、誰かが屋上へとやってきた。逆光で顔がよく見えない。その人が近づいてようやく、礼央だとわかった。
「凪、やっぱりここにいたんだ」
礼央は爽やかな笑顔で僕に話しかけてきた。その横顔が夕陽に照らされて、まるで絵画のように美しかった。
「今日のリハーサルはうまくいった?」
「うん、凪が練習に付き合ってくれたおかげで、バッチリだったよ。ありがとうな」
太陽のような笑顔を僕に向けてくる。ただお礼を言われただけなのに、胸が高鳴った。
「大したことしてないよ……」
頬に熱がこもっているのがわかったが、夕陽のおかげでそれがばれずに済みそうだった。
「文化祭の準備、順調に終わってよかったな」
「みんな頑張ってたからね……」
礼央はふふっと笑って、僕の顔を覗き込んだ。
「凪のおかげだよ」
夕陽が二人の影を長く伸ばしていた。下校する生徒たちの楽しげな声が屋上まで届いてくる。二人は並んでフェンスに寄りかかり、沈みゆく太陽を見つめていた。
「準備は大変だけど、やりがいはあるよ」
「凪はいつも前向きだな」
礼央がははっと快活に笑った。彼の笑い声は、いつも僕の心を温かくする。
「ところでさ、凪の将来の夢って何?」
礼央が突然真剣な顔をして、僕を見つめた。唐突な質問に僕は戸惑い、言葉に詰まった。
「……夢?」
「うん。凪が本当にやりたいこと」
僕は顎に手を当てて考えてみた。だが、やりたいことなど、ない。僕は自分の気持ちを抑えて生きてきたのだから。
「特に……ないな。ただ家業を継ぐだけで」
「それは夢じゃないだろ」
礼央が間髪入れずに反論した。その言葉に、僕はハッとした。言われたことをするのが当たり前だと思っていた。それは確かに、夢とは呼べない。
「俺は前にも凪に言ったと思うけど、プロバレー選手になる。この前のインハイでもいい成績が出せたし、大学のスポーツ推薦もほぼ確定した」
未来を見据える礼央の目は、夕陽を映してキラキラと輝いていた。そんな彼の表情を僕は思わず見入ってしまった。
「母さんを楽にさせてあげたいしな。それに何より、俺がバレーを愛してるから」
本心を曝け出している礼央を僕はじっと見つめた。僕には……僕の夢は……。
「礼央はすごいな」
「凪にも、本当にやりたいこと、あるでしょ?」
「……分から……ない」
僕は恥ずかしくなって俯いた。夢を持てない自分が情けなかった。
「探したらいいよ。自分の人生なんだから。自分で決めていいんだよ」
――自分で決める……そんな選択肢、今まで考えたこともなかった。
礼央の言葉が心の中の何かを崩していくのを感じた。まるで長い間閉ざされていた窓が、少しずつ開いていくような感覚だった。
「……そうだね」
僕は礼央に微笑んだ。それはもう、仮面をかぶった笑顔ではなかった。
夕陽に染まる空の下、二人は言葉を交わさずに並んで立っていた。この瞬間が永遠に続けばいいのに――そう思いながら、僕は礼央の横顔を盗み見た。彼の存在が、少しずつ僕の凍りついた心を溶かしていくように感じた。
きっと明日は、素晴らしい一日になるだろう。そんな予感とともに、僕たちは屋上を後にした。