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4-4

 文化祭まで残すところあと二日となった。この日はステージの設営や模擬店のテントの準備など、校舎の外での作業に追われていた。当日の天気は予報では晴れとのことで、屋外のイベントも賑わいそうだった。


 僕は一ヶ所ずつ設営の状況を確認して、書類に記載していく。


「何か変更点などがあれば、いつでも言ってください」


 生徒会長の仮面を貼り付け、柔和な笑みを崩さず、設営現場を担当している生徒に声をかけた。


「はい! ありがとうございます!」


 僕に声をかけられて嬉しそうにしている生徒を横目に、書類に目を落として見落としがないか確認した。


「外回りはこれで全部か。あとは体育館の舞台の設営状況を見に行こう」


 僕はバインダーを小脇に抱えて体育館へ足を運んだ。


 体育館の中はすでに舞台設営が完了していた。ステージは拡張されており、広々としたスペースが確保されている。これなら劇をするにも吹奏楽部が演奏するにも十分なスペースがあった。観客席には整然とパイプ椅子が並べられている。


 そのとき「今からリハーサルを行いまーす」という声が聞こえた。振り返ると、劇のリハーサルをするようで、生徒たちが舞台に向かって集まっていた。その中に礼央の姿を見つけた。彼は真剣な眼差しで台本に目を落としている。そういえば三年一組は「ロミオとジュリエット」の劇をするのだった。


 僕は資料を確認し、今日のすべき作業が完了していることを確認してからリハーサルを見学することにした。体育館の壁に寄りかかり、静かに舞台を見つめる。礼央はロミオ役のようだった。彼のロミオは板についていて、役作りが上手い。


「死んでもなお、美しきジュリエット……」


 クライマックスに差し掛かり、熱演する礼央に見入ってしまう。何をやらせても器用にこなす彼は、本当に素晴らしかった。


「お疲れ様でしたー! 本日のリハーサルはこれで終了します。明日のリハーサルもよろしくお願いしますー」


 文化祭実行委員が舞台上の生徒に声をかけると、「お疲れっしたー」「あざーす」と言う元気な声が溢れた。僕はみんなが体育館を出ていくのを確認してから、その場を去ろうとした。そのとき、背後から声をかけられた。


「凪!」


 振り向くと、そこには礼央が立っていた。


「見てくれてたんだ! どうだった? 俺の演技」


 僕は自然と微笑みながら答えた。


「礼央はなんでもできるんだね。すごく上手だったよ。役になりきっていて……」


「本当? でもまだ感情がうまく出せなくて、困ってるんだよな……」


 僕はふふっと笑った。


「役者さんは大変だね」


 悩んでいる顔をしていた礼央が、何か思いついたようにパッと顔を輝かせた。


「そうだ! 凪、ちょっと練習に付き合ってよ!」


「え?」


 礼央は有無を言わさず僕の腕を引っ張って、体育館の裏へと連れて行った。そこで二人きりになると、先日の号泣事件を思い出して恥ずかしくなり、思わず俯いてしまった。


「ねぇ、凪に聞きたいんだけど」


 礼央が僕の方を見ながら尋ねてきた。


「何?」


「どうやったら、本気で演技できるんだと思う?」


 僕は思いがけない質問に、不思議そうに礼央を見つめた。しかし彼の目は真剣そのものだった。


「それを……僕に聞くの?」


「うん。だって凪、いつも完璧に『演じている』じゃん」


 僕は息を呑んだ。礼央は僕がいつも仮面をかぶっていることに気づいているのだろうか。指先が冷たくなるのを感じた。だが先日、礼央の前で自分を晒けだして泣いてしまったことにより、彼には本当の僕を理解してほしいという気持ちも芽生えていた。


 僕は複雑な表情を浮かべながら答えた。


「僕は……本音と演技の境界が、もう、分からなくなってきた」


 思わず本音がこぼれ落ちた。


「どういうこと?」


 真剣な眼差しを向けてくる礼央に、僕は言葉を選びながら応えた。


「自分が何を演じているのか……分からなくなるときがある――」


「凪はいつも、演じてるの?」


 素朴な礼央からの質問が胸を刺した。そうだ。僕は常に『完璧』を演じている。家でも、学校でも。


「……そう……かも」


 小さな声でそう呟くと、僕は俯いた。


 そのとき、礼央が台本をスッと僕の前に差し出した。


「あのさ、ちょっと付き合ってくれない? ジュリエット役で」


「えっ? ぼ、僕は演技なんて……」


「大丈夫、大丈夫」


 そう言うと、その場で礼央はセリフを言い始めた。演技などしたことのない僕は、ただ台本を読むのが精一杯だった。


「星の瞬きにかけて誓うわ、ロミオ」


 恥ずかしさで顔を赤らめながらも、僕は必死に台本に目を落としてセリフを言った。


「愛しているよ、ジュリエット。この命に変えても……」


 礼央は情熱的にロミオを演じていた。彼のセリフには、どこか切実な響きがあって、僕の心をざわつかせる。次第に僕も役に引き込まれていき、ただ読むだけではなく感情を込めてセリフを言えるようになってきた。


「あなたのためなら、家名も捨てましょう……」


 役になりきった僕の声は、少し震えていた。するとそこで礼央が突然、アドリブでセリフを言ってきた。


「本当に……捨てられるのか?」


 礼央の問いかけに僕はハッと目を見開いた。彼の表情は愛おしい人を見るような、優しさに満ちた眼差しだった。


「そ、それは……ジュリエットに聞いたんだよね?」


 僕は思わず現実に引き戻され、慌てて礼央に尋ねた。


「俺は、凪の本音が聞きたいんだ……」


 礼央のまっすぐな眼差しに、言葉を失ってしまう。


 どくん。


 心臓がうるさく鳴る音が耳元で響いた。僕たちの間には、ほんの少しの距離しかなかった。礼央の瞳に映る自分の姿が、震えているのがわかる。


 その瞬間、体育館の扉が開く音がして、二人は反射的に離れた。そこには文化祭実行委員の生徒が立っていた。


「あれ? まだ練習してたんだ。ごめん、ちょっと忘れ物を取りに来ただけだから、そのまま続けてていいよ」


 生徒が去った後、先ほどまでの緊張感は消え、気まずい空気だけが残った。礼央は少し照れたように頭をかき、僕の方を見た。


「あー、なんか熱くなっちゃったな。付き合わせちゃってごめん」


「い、いや……僕も楽しかったよ」


 僕たちは互いに微笑み合った。礼央のおかげで、少しだけ、演じることではなく「在ること」の意味を感じられた気がした。


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