礼央のクラスの劇が終わった後、少し休もうと中庭へと向かった。しばらくは校内を巡回する必要もない。一人になれる時間が欲しかった。心の中のざわめきを静める時間が。
――あぁ……、なんか、疲れたな……。
しかし、学校にいる間は疲れた表情など見せられない。心の中で呟きながら顔はいつもの仮面を貼り付けて疲れを見せないように心がけた。だが、自然と顔は俯きがちだ。中庭を通り抜ける風は爽やかなのに、心の中は暗雲が立ち込めているかのようにどんよりとしている。
「凪、お疲れ〜!」
突然、明るい声が後ろから聞こえて振り返ると、そこには礼央が立っていた。クラスの劇が終わった彼は、豪奢な衣装からいつもの制服に着替えを済ませていた。まだあの王子様ファッションを見たかったな、と少し残念に思った。彼の髪はまだセットされたままで、額に少し汗が光っている。舞台の熱気が残っているのか、頬は上気していた。
「凪、劇、見てくれた?」
「もちろん見に行ったよ。リハーサルの時より、キラキラ輝いてて素敵だった。すごくかっこよかったよ」
僕は自然と本音が出た自分に驚いたが、礼央の前なら自分らしくいられる気がして取り繕うことをしなかった。いつもの完璧な生徒会長ではなく、ただの志水凪として話しているこの瞬間が、どこか心地よかった。
「そっか! そう言ってもらえると、嬉しいな」
礼央は首を傾げて僕に満面の笑みを向けた。その笑顔が眩しくて、僕は目を細めた。彼の笑顔には太陽のような温かさと、人を惹きつける力があった。
「そうだ。凪、これから時間ある?」
礼央は僕の横に腰掛けながら聞いてきた。次の巡回までは少し時間があるから、ここで休むつもりで中庭にやってきたのだ。彼が隣に座ると、肩と肩がほんの少し触れそうになり、僕は微かに身体を強張らせた。
「しばらくは巡回もないし、ここで休もうと思っていたんだけど……。何かあった?」
「よかったらさ、俺と一緒に文化祭、回ってくれない?」
突然の礼央の誘いに僕は戸惑った。だって、彼には彼女がいるからだ。そのことを思い出した瞬間、胸に小さな痛みが走る。
「……僕じゃなくて、他に一緒に行きたい人がいるんじゃない?」
遠回しに伝えてみたが、礼央は真剣な眼差しを僕に向けて言った。彼の瞳には迷いがなく、まっすぐに僕を見つめていた。
「凪と回りたいんだよ。それとも、誰かと約束してる?」
僕には学内に友人はいない。幼馴染の蓮は僕のことを気にかけてくれてはいるが、それほど一緒にいる間柄ではないし、僕の忙しさを知っているからか、あまり蓮からは誘ってこない。完璧な生徒会長は、いつも一人で孤独だった。
「別に、誰とも約束してないけど……」
「だったら、一緒に行こ!」
礼央は嬉しそうに僕の腕を引いた。その仕草には子供のような無邪気さがあった。彼のこの純粋な喜びの表現が、僕の心を少しずつ溶かしていく。
――本当は、一緒にいたかったから、嬉しい……。
心の中で本音を呟いて、礼央と並んで校内を歩き始めた。二人で並んで歩く景色は、初めて見るものではないのに、今日はどこか特別に思えた。
ちょうど昼時で、礼央がお腹が空いたと嘆いていたので、模擬店の立ち並ぶ校門へと向かった。そこにはお腹を空かせた生徒や近隣住民で人だかりができていて、賑わっていた。活気に満ちた声や笑い声、食べ物の匂いが混ざり合い、お祭りの雰囲気を一層盛り上げていた。
「すごい賑わいだな」
純粋に楽しんでいる礼央の姿を見て、僕も自然と笑顔になった。彼の感情は伝染するようだった。誰よりも正直に、誰よりも全力で楽しむ姿が、心を明るくする。
「どの模擬店も繁盛してるみたいだね」
「ねえ、凪。焼きそば食べていい?」
礼央ははしゃぎながら焼きそばを買いに行った。まるでその姿は子供のようで微笑ましかった。彼の後ろ姿を見ていると、胸の中が温かく溶けていくような感覚に襲われる。
「うまっ! これ、めちゃくちゃうまい! ほら、凪も食べてみて」
礼央が焼きそばを挟んだ箸を僕に向けてきた。彼は何の躊躇いもなく、自分の箸を差し出してくる。その仕草に一瞬戸惑った。
「いや……、僕は大丈夫だから……」
「いいから、いいから。ほら、あーん」
有無を言わさず、焼きそばの箸を僕の口元に持ってくる。僕は慌ててしまい、思わずオロオロとしてしまう。頬が熱くなるのを感じた。
「え? いや……こんなとこで?」
僕は周りの目を気にして、辺りを見渡した。だが、僕たちのことを気にしている人など誰もいないように見えた。みんな自分たちの楽しみに夢中で、僕たちに注目している人は一人もいない。
「遠慮すんなって。はい、あーん」
僕は断りきれずに、礼央が差し出した焼きそばをパクッと食べた。ソースの甘辛さと鰹節のうまみが口いっぱいに広がった。キャベツのシャキシャキした食感が心地よい。温かい麺がのどを通る感触に、ほっとするような安らぎを感じた。
「美味しい……」
「だろ?」
礼央は満足げに僕に微笑みかけてきた。その笑顔が僕にだけ向けられていると思うと恥ずかしくなって頬が熱くなった。心臓がまた早鐘を打ち始める。
焼きそばを食べ終えると、また別の模擬店へと向かった。二人で寄り添いながら食べ歩きをする。まるで恋人との時間のようで心がふんわりと温かくなった。時々、人混みで身体が触れ合うたび、僕は小さく息を呑んだ。
「次、かき氷食べたい!」
礼央は僕の手を引っ張ってかき氷を販売している模擬店まで連れて行った。彼の手は大きくて、包まれるように握られた僕の手は、恥ずかしいほど小さく感じた。
「まだ食べるの? 食べすぎるとお腹痛くなるんじゃ……」
「大丈夫、俺の胃腸は鉄でできてるから」
自信満々にお腹をポンと叩いてみせる礼央がなんだか可愛くて、思わず僕は吹き出してしまった。その無邪気な仕草に、心が軽くなる。
「じゃあ、僕も食べようかな?」
「そうこなくっちゃ!」
二人で店の前に並び、僕はいちご味、礼央はマンゴー味を頼んだ。手に取ったかき氷は普通のシロップがかかったものとは違い、果肉が入っているソースがかかっていて、氷もふんわりと削られていてまるでカフェで提供されるようなものだった。その見た目の美しさに、思わず感嘆の声が漏れる。
「この、いちご味、すごく美味しい……」
僕は一口食べて、思わず唸った。これほど美味しいかき氷が文化祭の模擬店で提供されているとは驚きだ。甘酸っぱいいちごの風味が、口の中いっぱいに広がる。
「俺にも、ちょうだい!」
礼央は僕がもうひとくち食べようとスプーンですくっていたかき氷をパクッと食べた。彼の顔が突然近づいてきて、その距離の近さに息が止まりそうになった。
「あっ……」
僕は礼央の顔が近くに寄ってきたのに驚いて、肩をびくつかせてしまった。彼の唇が一瞬、僕の指先に触れた気がして、電流が走ったような感覚に襲われる。
「うわー! めちゃくちゃうまいな、いちご。俺のマンゴーも美味しいよ。はい」
礼央はまた焼きそばの時のように僕にスプーンを差し出してきた。僕は少し戸惑ったが、美味しそうなマンゴーの芳醇な香りが鼻をくすぐり、興味を逸らすことができずにスプーンを口に含んだ。今度は迷いなく、彼の差し出したスプーンを受け入れる。
「すごく濃厚だね」
「うん、美味しいよな」
美味しさのあまりに頬が綻んだ。純粋に「美味しい」と感じる気持ちと、礼央と共有している時間の幸せが混ざり合って、僕の表情を自然と明るくする。その時、少し離れたところから、声がした。
「おー、志水と鳴海、デートみたいじゃん」
僕は咄嗟に否定しようとそちらへ振り向いて言った。心臓がどきりと跳ねる。
「い……や、そんなんじゃ……」
すると僕の言葉を遮るように礼央が言った。彼の声は明るく、まったく動揺している様子はなかった。
「そうだよ。デートだから邪魔すんな」
ハハっと笑いながらさらりと答えた礼央に、僕は言葉を失った。だけど――。
――デート、だと、いいんだけどな……。
悪い気がしなくて、小さく微笑んだ。礼央のこの言葉に、胸の中で温かな感情が広がっていく。たとえ冗談であっても、その言葉が嬉しかった。