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5-4

 全ての模擬店を回って食べ歩きをした僕たちは中庭に戻り、ベンチに腰掛けた。夕暮れ前の柔らかな光が木々の間から漏れ、二人の周りを温かく包み込んでいた。


「ふぅ……。さすがに食べすぎたか……」


 礼央はお腹をさすりながら、背中をベンチの背もたれに預けながら言った。彼の横顔は夕日に照らされて、柔らかく輝いていた。僕はくすりと笑って言った。


「礼央は鉄の胃腸じゃなかったのか?」


 すると礼央は照れくさそうに首の後ろをかきながら僕の方を向いた。その仕草には何とも言えない愛らしさがあった。


「だと思ってたんだけどな……。やりすぎた」


「そうだね」


「でも、楽しかったぁ」


 礼央は満足そうに微笑んでいた。その顔を見ると僕も嬉しくなって頬がほころんだ。彼の素直な感情表現は、僕の心の壁を少しずつ崩していく。


「僕も楽しかった……」


 二人で座っているベンチに木漏れ日が差し込む。僕の心を秋の爽やかな日差しが包み込んだ。この瞬間が永遠に続けばいいのにと、密かに願った。


「凪はさ、普段は何してるの?」


 急な質問に僕は驚いて礼央の顔を見た。彼は本当に純粋な好奇心からそう尋ねているようだった。


「何って……。特に、何も。読書とかしか……」


「へぇー、読書かぁ。俺、あんまり本読まないんだよな。どんな本読むの?」


「えっと……、小説。それから、心理学の本とか……」


 他人から僕のことを聞かれたことがないからか、恥ずかしくて仕方がない。俯いてもごもごと口ごもった。自分の趣味や好きなことを話すのは、こんなにも難しいものなのかと驚いた。いつも完璧な答えを用意している僕なのに、こんな簡単な質問に戸惑うなんて。


「心理学? 意外!」


 礼央は目を見開いて驚きを露わにしていた。その反応に、僕は少しだけ自分の興味を話してもいいのかもしれないと思えた。


「うん……。人の心理ってすごく興味があって……」


 それを聞いた礼央は僕の顔をじっと見つめていた。その目は何か僕の中を見てやろうという意思が見て取れた。彼の真っ直ぐな視線に、僕は少し動揺する。普段は他人の視線など気にならないのに、礼央だけは違った。彼に見られると、心の奥まで覗かれているような、でも不思議と怖くない感覚があった。


「なるほど。だから凪は俺の心を見抜くのか……」


 なぜか納得した様子の礼央だが、僕は彼の心など見抜いたことは一度もない。むしろ、彼こそが僕の心を見透かしているんじゃないかという気さえしていた。


「僕はそんなことしたことないよ」


 僕がくすりと笑うと、礼央は「そうか?」と言いながら朗らかに笑った。彼の笑い声は風のように爽やかで、聞いているだけで心が軽くなる。


 しばらく二人で他愛もない話を続けていた時、礼央がふと僕の頭に目を向けた。夕暮れの光が差し込み、僕の髪に何かが輝いたのかもしれない。


「あっ、凪、髪の毛に……」


「何かついてる?」


「うん、落ち葉。動かないで」


 礼央が体を少し近づけて手を伸ばした。落ち葉を取ろうとする礼央の指先が、僕の髪の毛に触れた。髪の毛に神経はないはずなのに、触れられたと思っただけで、背中にビリビリと電気が走った。鼓動が一気に速くなり、息が詰まりそうになる。


 礼央の指が必要以上に長くとどまっている。それは僕がそう感じているのか、それとも、礼央がわざと長く指をそのままにしているのか、分からなかった。でも、この一瞬が長く続いてほしいという気持ちが、胸の奥から湧き上がってくる。


 ――……近い。


 僕の心臓は爆音を立てて鳴り響いていた。それを悟られないように、自然を装って礼央から目を逸らした。だけど、顔が熱くなっているのは確かだった。この状況を冷静に受け止められるほど、僕はまだ強くなかった。


 礼央は落ち葉を摘んで、僕の髪からゆっくり手を離した。その手が僕の頬に微かに触れる。その一瞬の接触で、僕の全身に温かな波が広がるような感覚があった。


「取れた……」


 しかし、僕の頬に触れているその手は、一向に離れる気配はなかった。まるでそこに留まるべきもののように、自然な感覚で。僕の頬に触れた礼央の指先からは、かすかな震えが伝わってきた気がした。


 僕は思わず礼央を見た。視線が絡み合う。まるで時間が止まってしまったかのような感覚に陥った。礼央の瞳の奥が揺れているのが分かった。その瞳には困惑と、何か言いたげな感情が混ざり合っていた。


「……凪」


 礼央の声はいつもの明るいものではなく、慈しみのこもったものであるようにも感じられた。囁くような、優しさに満ちた声音。


 その声に、僕の鼓動は早鐘を打つ。全身が熱くなり、頭がぼんやりとしてくる。礼央の存在だけが、今の世界のすべてに思えた。


 ――どうしよう……。僕の、気持ち、気づかれたら――。


「おーい、鳴海―。セット運ぶの、手伝ってくれー」


 その時、遠くから礼央を呼ぶ声が聞こえ、まるで魔法が解けたように、ハッと現実に引き戻された。二人の間にあった不思議な空気が一気に消え、日常の時間が戻ってきた。


「俺、行かないと……」


 礼央は名残惜しそうに立ち上がった。一歩踏み出し、僕の方へ振り返りながら言った。彼の表情には複雑な感情が交錯していた。


「また後で……、会える?」


 その問いかけには、何か約束を求めるような切実さがあった。僕は心臓の鼓動を抑えられないまま、頷いた。


「……うん」


 僕は頬が熱くなるのを感じ、俯いて頷いた。この会話がどんな意味を持つのか、僕にはまだ分からなかった。ただ、もう一度礼央に会いたいという思いだけは、はっきりとしていた。


 僕は、そっと礼央が触れた方の頬に手をやった。礼央が去った後も、僕の頬には彼の温もりがいつまでも残っていた。それはまるで、心に刻まれた印のように消えることはなかった。


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