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5-5

 文化祭一日目が終了し、二日目に向けて不備がないかを確認するために、僕は校内を巡回した。特に問題が起こることがなく、安堵しながら三年生の教室前の廊下を歩いていると、礼央の後ろ姿が見えた。彼の姿を見つけ、心が高鳴るのが分かる。一日中、彼のことを考えていた。あの時の触れ合い、交わした言葉、すべてが鮮明に記憶に残っていた。


『また後で、会える?』


 礼央の言葉を思い出して、口を開いた。彼に声をかけようとする胸の内には、期待と緊張が入り混じっていた。


「れ……」


 礼央の名前を声に出そうとした時、彼の向かいに小柄な女性が立っているのが見えた。あれは、確かバレーの練習試合で見た、礼央の彼女、伊藤紗奈だ。少し離れた場所から見ても、彼女の可愛らしさは際立っていた。きれいな黒髪、整った顔立ち、礼央にぴったりの女の子。


 恋人がいることも知っているし、二人でいる姿を見るのはこれが初めてではない。しかし、間近で見る礼央と彼女の存在が僕の心をざわめかせた。まるで胸に冷たい水を浴びせられたような感覚だった。二人の会話が嫌でも耳に届いた。


「もうっ! 礼央、なんで今日、あたしと回ってくれなかったのよぉ」


「ごめんって。明日は一緒に回るからさ」


 紗奈は礼央の腕を掴んで潤んだ瞳で彼を見つめている。女の子特有の甘えた仕草だけど、どこか本気の怒りを含んでいるようにも見えた。礼央は目を紗奈に合わすことをせず、彼女が掴んでいる手をゆっくり振り解いた。その仕草に僕は少し驚いた。


 僕が横を通り過ぎようと近づていくと、礼央は足音に気づいたようでこちらを向いた。彼の表情が一瞬で変わるのが見えた。


「あ、凪……」


 その表情はとても気まずそうで、笑顔を向けているがその顔は少し引き攣っていた。まるで何かを隠しているような、そんな表情。僕は自分が二人の間に割り込んでしまったことに申し訳なさを感じた。


「お疲れ様……」


 僕はそう言って二人の横を通り過ぎようとした。礼央が紗奈と一緒にいる姿を一分一秒でも見たくない。心臓が締め付けられるように痛み、早く立ち去りたいと思った。その時、礼央に呼び止められた。


「凪……。えっと――」


 礼央が何か言おうとした時、紗奈が口を開いた。彼女は僕をじっと見つめていた。


「志水先輩、こんにちは。あたし、伊藤紗奈っていいます」


 紗奈はにっこりと微笑みながら僕へと自己紹介をした。顔は微笑んでいるのに、その瞳はまるで氷のように冷たかった。彼女は何かを察したのかもしれない。女性特有の鋭い勘で、僕の気持ちを見抜いたのだろうか。


「伊藤さん、こんにちは」


 僕は生徒会長の仮面をピッタリと貼り付け、それが剥がれ落ちないように笑顔で答えた。しかし、僕を見つめる紗奈の眼差しが痛い。その視線は僕の心の奥まで貫き、脆さを暴き出しそうだった。僕は居た堪れなくてその場を後にしようとした。


「じゃあ、僕はまだ仕事が残ってるから、これで」


 そう言って立ち去ろうとすると、紗奈の声が耳に入った。その声には、何かを確かめようとする鋭さがあった。


「ねぇ、礼央」


「ん?」


 礼央の声がなんとなく僕に聴かれたくなように思えた。彼の声には緊張感が漂っていた。


「志水先輩のこと、好きなの?」


「えっ?」


 紗奈の突拍子もない質問に僕はその場から動けなくなり、驚きの声を小さく上げて礼央の方を向いた。心臓が喉元まで飛び上がるような衝撃だった。


「は? お前、何言ってんの?」


 礼央は少し上擦った声で紗奈の質問に答えた。その表情を見て、紗奈は目を釣り上げて礼央に食いついた。彼女の鋭い直感は、僕たちの間に生まれていた何かを感じ取ったのだろう。


「だって……、見てたら分かるもんっ!」


 その声は少し涙声にも聞こえる。僕の方からは紗奈の表情は見えない。そっと礼央を見やると、彼は目を泳がせながら必死に言い訳をした。礼央のそんな姿を見るのは初めてだった。いつも堂々としていて、臆することを知らない彼が、こんなにも狼狽えている。


「いや……凪とは、友達だよ。今日、一緒に文化祭、回っただけで……」


「ふうん。そう……」


 紗奈は俯いていたが、肩が上がり、怒っているようにも見えた。僕は何も言うことができず、その場に立ち尽くすしかなかった。気まずい沈黙が三人の間に流れる。


「あたし、飲み物買ってくる」


 そう言うと、紗奈は走り去っていった。彼女の足取りからは、怒りよりも悲しみが伝わってきた気がした。


 残された僕と礼央は、お互い目を合わせられずにいた。言いたいことは山ほどあるのに、どちらも口を開くことができなかった。


「ご、ごめん……。なんか、紗奈が変なこと言って……」


「いや、別に……」


 張り詰めた空気が漂い、気まずさが募る。言葉を交わしても、その緊張感は解けなかった。


 ――だけど、本当に、礼央が僕のこと好きだったらいいのに――。


 紗奈には悪いけど、そんなことを思ってしまう自分がいた。この感情は間違っているのだろうか。他人の恋人を好きになるなんて、もう取り返しのつかない過ちなのかもしれない。でも、止められなかった。礼央への想いは、もう僕の心に深く根付いてしまっていた。


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