地上六千メートルに、裸の少女が現れた。
意識は無い。墨を垂らした夜空に一人、白い裸体が落下を始める。鼓膜を震わす風切り音に、少女の瞼が開いたのは、落下開始から数秒後。
「っ!」
黒い双眸にまず映ったのは、見知らぬ星々と、大小二つの月だった。首を回せば、迫りくる地表が見える。だが裸の少女は冷静に、ただ自身の状況を把握する。
肉体に損傷無し。電磁気力消滅に伴う意識喪失は、おそらく数秒。
現在位置は指定高度付近。地中でも、海中でも、宇宙でもない。誤差は想定範囲内に収まっている。
成功だ。
ならば、次は。
身を切る冷気と薄い酸素をものともせず、少女は口と手だけを動かした。舌の鳴る音とハンドサインの直後、細く締まった身体を青い粒子が包み込む。
光が消えると、少女は服を着ていた。
無から生まれたその服装は、黒の長袖インナーとレギンスの上に迷彩柄のショートベストとショートパンツ。そして足には、無骨なブーツを履いている。
その身体は時速二百キロの風圧を不自然に弾く。風に乱れるのは、黒いショートヘアと衣服のみ。
腹ばい姿勢になった少女は、地上を見た。月下の大地はそれでも暗く、ほとんど何も見えはしない。だが目を凝らすと遠方に、橙色の光が瞬く。大小複数のそれはおそらく、街の灯りだ。
突然、視界を大きな影が横切った。一拍後、響く唸りに空気が揺れて、少女がその身を固くする。
「!」
月の光に照らされた何者か。その頭部には角が二本。赤い鱗に巨大な翼。四つ足で長い尾を持つ体躯は、全長二十メートルはあるだろう。
それはまさしく“竜”だった。
落下速度を合わせた竜は少女を睨みつけ、敵意を隠さない。それは、己の縄張りに侵入した不届き者を見る眼だ。
広げた翼が空を掴み、どん、と空気が爆ぜる音とともに、竜が突っ込んできた。鋭い牙が、少女に迫る!
――が、竜の
不満げに唸った竜は、その身をうねらせターンした。今度は、落下する少女を追いかける形だ。もう減速回避は通用しない。
少女は体を反転させ、迫りくる竜と相対した。その手元に青い粒子が集まり、何かを形作る。
銃だ。
小銃のように見えるが、形状や口径は既存銃器のどれとも違っている。その引き金にかかった指に、ほんの僅かな力が入る。
がしゅっ、という銃らしからぬ音とほぼ同時、竜が悲鳴を上げて悶えた。顔面に、少女が撃った散弾を浴びたのだ。
即座、少女は身体を地上に向け、重力への抵抗をやめた。ごう、と体が空気を破り、耳元で風が暴れる。落下速度は時速三百キロ超。地上まで三十秒とかからない。
背後から咆哮が轟く。怒り狂った竜が、瞼から血を流しつつ追ってくる。振り返った少女が顔をしかめた。
「仕方ない……」
銃が青い粒子になって消えた。代わりに少女の右掌から、細長い半透明の直方体が飛び出す。小さなそれを左手に突き刺すように両手を合わせ、捻った。
地上二千メートルに、鍵を回すような音が響く。そして少女は、呟いた。
「起動」
言葉が波紋を広げるように、周囲の空間が歪んだ。
青い粒子が渦を巻くように形をなし、
わずか数秒でパーツ群は少女を包み込み、頭と四肢と、長い尾を持つ巨大なシルエットと化した。それは竜を遥かに上回る、圧倒的な大きさだ。身を捩るだけで風が逆巻き、関節の
両眼に青い光を宿したそれは、各所から地上に向けて青白いプラズマを噴射する。甲高い噴射音とともに、巨影は地上千メートルでホバリングした。
追いついた竜が、周囲を旋回する。巨影に怯まず吠えた直後、その口内に炎が揺らめき、溢れ迸った。
竜を最強たらしめる灼熱の
必殺の炎を吐き切った竜は、しかしその目を見開いた。炎を弾いた灰銀色の体表は、月光を孕んで鈍く輝くのみ。焦げ跡すらも、付いてはいない。
「この生き物は……違う」
内部で少女が呟くと、今度は巨影の口が開いた。喉奥、左右二か所に光が集まり、その輝きが青から琥珀色、そして白へと変化する。
次の瞬間、光の二重螺旋が
軌道上にスパークが走り、空気の焦げる匂いと音。それは光跡のすぐ横にいた竜にも、確かに感じ取れただろう。直撃していれば、自分がどうなっていたかも。
「これで分かったはず。逃げてくれれば……」
地上まで数百メートル。威嚇射撃の意図を理解したのかは定かではないが、不満げに喉を鳴らした竜は翼を翻し、夜空の彼方へと飛んでいった。
竜が去ったのを見届けると、巨影は青い粒子となって消えた。
首元だった場所に、少女がいた。そのまま落下し、地表の目前でまたあの空中制動をかけた。
遥か高空から落ちた少女は、まるで階段でも降りるかのように着地した。夜の平原に一人立つ、その右胸には日の丸と、横線の上の一つ星。そして金字の刺繍がある。
“藤沢
名前だ。
少女……マナは再び銃を出し、何かをストックの下部に押し付けた。かしゃん、という音。装填された銃を構え、姿勢を低くして辺りを警戒する。前、左右、後ろ。動くものは見えない。上空も見るが、あの赤い竜はもうどこにも見えなかった。
マナは銃を構え、夜の平原を走った。まばらに生えた木の一本に、背中を預ける。ハンドサインの直後、ソフトボール大の球状物体が現れた。灰銀色の表面は、先程の巨影と似ている。かすかに聞こえる駆動音は、プロペラのもの。空中に浮遊するそれは、ドローンだった。
飛び立ったドローンは、地上千メートルで停止した。その視界は、マナと共有されている。
周囲は平原、少し離れて森、その遥か遠くに山脈が見える。視界を回すと、森の反対側にあの橙色の灯りが小さく見えた。
「……」
ドローンを戻して消すと、マナは目を閉じ、深呼吸する。
知らない世界の匂いを吸い込み、少女は思う。
――まずは、情報収集だ。そして、水と食料の確保。
マナは目を開けると、灯りの見えた方向へ歩き出した。ブーツが下草を踏む音だけが、夜空へと溶けていく。
二つの月は、沈み始めていた。