祠・神を祀るための小規模な建物や場所、または神を祀る行為。
小さな村から始まった、ほんの些細な出来事が、やがて世界を閉じてしまう。
祠という概念を人々が忘れ去った時、世界には何が起こるのか。
それは、だれもしらない。
その小道が一体いつからあったのか、
いつも通りの通い慣れた学校の帰り道、何となく視線を向けたその先に、木々の間の隙間に、小さな獣道が見えた。
周りには誰もいない。陽は傾きかけていて、冷たい風が覚の袖を揺らす。
帰らなければ。そう思うのに、足が勝手に動いた。枯葉を踏み小枝を鳴らしながら覚は小道の奥へと入っていく。
林の中はしんと静まりかえっていた。鳥も虫も、一切の音を立てない。そこだけがまるで覚の世界からぽっかりと切り離されているかのようだ。
一歩、進む事に音が消えていく。林に入る前まで聞こえていた犬の鳴き声も、肌を撫でていたあの冷たい風の音も、まるでこの場所に吸収されてしまったかのようだ。今は自分の足音すらも耳に届かない。
林の中央に位置する場所にそれはあった。
——祠。
小さくて古い、長い間誰の手も入っていないであろう苔むした石の祠だった。
しめ縄は朽ち果て、屋根の石には今にも割れてしまいそうな程大きなヒビが入っている。何かを祀っていたはずの内部は扉も外れ、中を覗き込んでも黒ずんでいてよく見えない。
覚が祠の前にしゃがみこむと、とうとう最後の風がやんだ。
それはまるで世界が、星が呼吸を止めたかのようだった。
「……こんな所にこんなんあったっけ? ボロいなぁ。すぐに壊れんちゃう?」
覚は小さく呟き、祠にそっと手を伸ばした。別に壊そうとした訳じゃない。誰がこんな所にこんなモノを置いたのか、不思議に思っただけだ。
ところが覚の指先が祠に触れた瞬間——世界が揺れて何かが響き渡った。
地震じゃない。もっと感覚的な何かだ。実際に揺れた訳でもないのに、身体の内側を何かが通り抜けていく。響いた音も耳で聞いた訳じゃない。身体で聞いた、音の無い音だった。
はっと気づいた時には指先に触れた石の祠が『壊れて消えた』。
覚は立ち尽くした。
さっきまで祠があった場所にはもう地面しか無い。その地面もなぜだか酷く不安定に思える。
ぞくりと背中を冷たいものが這い上がった。
足をもつれさせ、転びそうになりながらも覚はその場を離れようと駆け出した。
けれどようやく見慣れた道に戻りふと振り返ったその先に違和感を覚える。
木々の枝の角度や陽の差し込み方、風のにおい。全部がほんの少しずつ、覚が知っている世界とはずれていたのだ。
この世界は偽物だ。不意にそんな思いが脳裏をよぎる。
覚は走って家に戻り、キッチンで天ぷらを揚げていた母に先ほど起こった事を告げた。
「おかん! あんな、あの学校の帰り道の林の奥にな、変な祠があって——」
ところが覚の必死な形相を見ても母は笑いながら答える。
「ホコラ? 漫画かアニメの話?」
「ちゃうよ! 祠やってば! 石でできててな、中が黒くて空洞で……」
「……覚、あんたまた勉強もせんと変な動画ばっか見てんちゃうやろうね?」
いつもならもう少し真面目に話を聞いてくれる母だが、今回ばかりはまるで会話が噛み合わない。
その夜、覚は祠のことをノートに書き残そうとしたが、『ほこら』の文字を書いた瞬間、鉛筆の文字がにじんで潰れた。
その光景に驚きながらも消えかけた文字を指でなぞりながら覚は考える。あの祠は本当にあそこにあったのか? 一体いつから?
毎日通っていた場所。見慣れない突然現れた獣道。その先にあった小さな傷んだ祠。その祠に覚が触れた途端、祠は何の音も立てずに壊れて消えてしまった。
もしかしたら夢か何かを見たのだろうか?
でも確かに聞いたし感じたのだ。あのとき、音のない音を。揺れのない振動を。
その夜、覚が眠りに落ちる直前、ふとある音が耳に響いた。それは風の音でも、家の軋む音でもない。何かが遠くで『外れた音』だった。
自分の知らないこの世界にヒビが、最初の一筋が、入った気がした。