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第6章

 覚はもうとっくに夢を見ない。そんな物はこの世界には不必要だからだ。それにそんな物がなくても世界はこうして今も歪に回り続けている。死んだ者はそこに在り、生きていた者が消えていく。

 ふと、昼夜が分からなくなった洗面所の鏡に映った自分が目に入った。

 そこには映し出されていた顔は物理的に酷く歪んでいる。鏡の世界でさえも、もうまともに何かを映すことを止めてしまったのだろうか。

 それとも覚の自我が保てなくなってしまっているのだろうか? そもそも自分とは、誰だろう? 覚とは、何だったのだろう?

 漠然とした思いは心の中に沈み込んで、重く横たわる。

 その答えを探そうと、図書館に向かうと、あれだけあった本棚の本が半分以下にまで減ってしまっていた。

 何気なく一冊を手に取りページをめくると、そこには文字だった何かと記号だけが記されている。それでも覚は片っ端から文字を探して本をめくった。

 そしてとうとう見つけたのだ。文字の痕跡を。『祠』があった痕跡を。

 本は焼け焦げていた。まるで火事現場から持ち出されたかのように。そこには焼けてはいたが、確かに祠の写真と「ほこ——」と書かれている。それは正にあの祠だった。

 あの石で出来た、苔むした、汚くて寂れた、屋根に大きな亀裂が入ったあの祠。

「なんでこんな……ちっぽけなもん壊したぐらいで……」

 何もかもが消えた世界に残された、その写真と文字を見て初めて、覚ははっきりと認識した。

 自分は、絶対に触れてはいけない物に触れ、壊してしまってはいけない物を壊してしまったのだ、と。

 けれど、どうしてあの祠が自分の前に現れたのか、それは未だに分からない。


 結局何の解決にもならないまま、世界は終焉を迎えようとしていた。


 月日という物が無くなってからというもの、正確な日時はもう覚にも分からなかった。信用できる物がもうここには何もないからだ。

 太陽は昇る日もあれば沈まない日もある。月だって同じ。

 数字も意味が無い。文字も無い。そんな中、とうとうテレビに映し出される世界すら変わり始めた。

 看板の意味が分からなくなり、道路は同じ所を何度も何度も繰り返し、それでも先へと続いていく。建物は紙のように薄く気持ちよさげに風になびき、今にもどこかへ吹き飛んでしまいそうだ。

 そんな景色を背景に、リポーターが意味不明な言語を羅列している。誰かあの言葉を理解しているのだろうか? そう思う程度には、ワイプに映っている人たちも困惑顔だ。

 もちろんこの村も例外じゃない。むしろ全てはこの村から始まった事で、他の場所よりも少しだけ症状が進んでいる。

 今も空から白い雪よりもずっと細かい粒子が降り続け、目に映る物全てを音もなく静かに、淡々と白く塗り潰し、まるで消しゴムで消すかのようにその存在を消していく。車も、畑も、学校も、家も。

 覚はいつの間にか誰も居なくなった村をブラブラと何をするでもなく歩いていた。

 ふと前方に何かがきらりと光った気がして近寄ると、そこはあの祠があった場所だ。そこにほんの小さな祠の欠片が、鈍い太陽の光を受けて光っている。

 一縷の希望も無いまま、覚はそれを拾い上げると、最後の欠片が音もなく砕け散ってしまう。

 その途端、覚は何もかも全てを忘れてしまった。何かを忘れているはずなのに、それが何だったかも、どうして思い出したいかも分からなくて困惑する。

 けれど思い出したいと強く思う。この衝動は何だろう? この悲しみは何だろう? そもそも悲しみとは何だった? 

 時間は消え去り、真っ白で空虚な世界が広がり続ける中、目の前にどこか懐かしいような気がする公園が見えた。

 もう元の形は留めてはいないし、そこで何をしたのかも、誰と居たのかも分からないけれど、何だか酷く、無性に心が揺さぶられた。

 空に向かって延びる滑り台、湾曲したジャングルジム、ぶら下がる所の無い鉄棒、大きな石が詰まった砂場、揺らそうとしても動かないブランコ——。

 音のない世界。誰も居ない公園。もしかしたらここには何も無かったんじゃないだろうか。

「俺……もしかしたら、ずっとひとり……やったんかな……」

 最後の希望が消えたその時、世界の幕も静かに下りる。

 まるでテレビのスイッチを切るように、スマホの電源を落とすように、一瞬にして世界が、覚が、音もなく閉じた。



 遠い昔に聞いた誰かの音。


『ええか、◯◯◯。——には世界の真ん中があるから、その調和を絶対に乱したらあかんよ。もしその調和を乱したら、全部の事がひっくり返って取り返しがつかへんなる。◯◯◯、あんたもよう覚えときや。世界っちゅうのは、ほんの小さな小さな——の中に詰まってるんやで』


 祠はこの世界を人々の心に繋ぎとめていた、最後の概念だ。物が重要な訳ではない。

 そこに祀られている物が何であれ関係ない。

 祠という概念そのものが、この世界を、記憶を、文化を、全てを形取っている。


 最後に、あなたの世界は、あなたという存在は、本当に『在り』ますか? それを証明する事が、出来ますか?


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