朝日が歪み、太陽や月の形もすっかり変わり果て、アルバムから友人たちの姿が一人、また一人と消えていく。
学校に行くとアルバムと同じように空席が出来始め、クラスメイト達の半分ぐらいが居なくなってしまった。
とても悲しいのに覚はもうその友人たちの名を、顔を、声を思い出す事も出来ない。
ただ『誰かが居た』という記憶があるだけだ。そして彼らは友人だったはずだ。そんなぼんやりとしか思い出せないあやふやな物になってしまっていた。
それでも学校は毎日あった。
けれど教師たちはどんどん消えていく物語や歴史、数字、法則に困惑した様子もなく、ただ同じ言葉を、同じ音をずっと繰り返すだけだ。
いずれ学校という場所が無くなるのを時間の問題だ。
覚は唇を噛み締めて肩を震わせ、俯いて喉の奥から今にも溢れ出しそうな嗚咽を堪えた。
今までのにじり寄るような恐怖や後悔が毎日少しずつ積み重なり、覚のまだ幼い心に重く伸し掛かる。
「なんでやねん……祠壊しただけやん……わざとちゃうのに……なんやねん、これ……なんやねん……」
俯くと教科書の上に涙が落ちた。ノートがすかさずその涙を吸い込み、最後の文字が滲んで消えた。
それでも覚が正気を保っていられたのは、家族がまだ無事だったからだ。
心の拠り所は何も神だけではない。幼い頃であればなおさら。
ところがある土曜日の昼下がり、とうとうそれは容赦なく、例外なく覚に襲いかかった。
母親がいつものように洗濯物を取り込み、覚にお小言を言いながらリビングで畳んでいた。
覚はソファに転がってそんな母親のいつものお小言を聞いていたけれど、突然母親の声が中途半端な所で途切れた。
ハッとしてそちらに目を向けると、母親は透けている。
母親はその事に気付いていないのか、今も洗濯物を畳みながら時折こちらを見て眉根を寄せるが、口は動いているのに何の音も聞こえない。
「おかん!」
嫌な感じがする。
覚はすぐさま母親に駆け寄って、洗濯物を畳むその手に触れようとした。
ところが徐々に透明になっていく母親に触れる事は出来ず、そのまま空を掴んだかと思うと、母親は透明になって覚の目の前から消えていく。
「……嘘や……嘘や! こんなとこ違う! ここ、俺の世界とちゃう!」
叫んでもその声はただの音に変換され、虚しく辺りに響いただけだ。
世界に何が起こっているのか。たった一つの祠を壊しただけで、世界はこうも姿を変えてしまうのか。大好きだった人や友人達は呆気なく消えていくのに、どうして覚だけが全てを覚えていなければならないのか。
理不尽なほどの重責を背負った覚には、まだ五年生の少年には、あまりにも重い罰だった。
覚はまだ無事な祖母の部屋の襖を開けると、祖母に泣きついた。いずれ祖母も消えるのだろう。そんな諦めが脳裏を過る。
「どうしたん、覚」
「ばあちゃん、おかん、おらんねん」
「何や、急に。あんたはここに預けられた時からずっとばあちゃんと二人暮らしやろ?」
その言葉が覚に追い打ちをかけた。祖母ですらもう母親の事を、自分の娘の事を覚えていないのだ。その事実は、誰が消えた時よりも苦しかった。この事態を招いたのが、もう自分だと知っていたからだ。
「ごめんな、ばあちゃん。ごめんやで……俺が悪いねん。俺が……俺が……」
「おかしな子やな。あんたが何したんか分からへんけど、何も悪いことあらへん」
「……せやろか」
耳の遠い祖母には聞こえなかったかもしれない。そんな優しい祖母の手が消えたのは、それから3日後の事だった。
これがきっかけだったのかは分からない。とうとう覚も色んな事を忘れ始めた。
覚は一人ぼっちになった部屋の中で、顔も思い出せない母親がよく座っていた場所で、声も思い出せない祖母がいつも仏壇に向かって話し込んでいた場所で、蹲り、その姿を思い出そうとした。
けれどやっぱり何も思い出せない。覚えていたいのに、忘れたくないのに、何にも残せない。
祈りが無くなるという事は、希望が無くなるという事。夢が無くなると言う事。
それは今、現実という無慈悲な形でこの世界を支配しようとしている。
文字は次第にただの線に戻り、数字はもう何の意味を成さない。
消えた友人、同じことを繰り返すだけの教師、死んだはずの人たち、大好きだった血縁者。それらは全て曖昧になって今も現実に流れ込んでくる。
この村の祠は、世界の理だったのだ。何かを祀っていた訳じゃない。あの祠こそが、この世界そのものだったのだ。
けれどそれを証明する手段など何もない。証明する相手も居なければ、した所で何かが戻る訳でもない。