――いったい何度目だっただろう。
夫をその気にさせようとして、結局一度も抱いてもらえなかったこと。
「お兄ちゃん、離婚することにした」
数秒の沈黙ののち、
「最初から言ったろ?
朱音は涙を滲ませながら、笑顔を作ろうとしたが、力なく顔を歪めた。
「……うん、私が馬鹿だった」
「こっちに来いよ、ドイツ。イケメンだらけだぞ! 宗一より上なんていくらでもいるし、俺の可愛い妹を大事にしない奴なんてもう放っとけ。大仏と添い遂げさせてやれ」
「……うん、手続き終わったら行く」
通話を切ったあと、朱音は大きく息を吸い込んだ。
ちょうど、廊下の突き当たりにある禅房の前を通りかかったとき――
ふいに、中から微かな呻き声が漏れ聞こえてきた。
扉はきちんと閉まっていなかった。
隙間から淡い灯りが漏れていて、朱音は思わず、その中を覗いてしまう。
お香の煙がゆらめく部屋の中、御門宗一は仏前に膝をついていた。
緩くはだけた法衣、手首にはいつもの数珠。
だがその身体は、微かに揺れていた。
彼の下には――
リアルな造形のラブドールがあった。
ろうそくの光が揺れるなか、その顔ははっきりと浮かび上がった。
杏色の瞳、さくらんぼのような唇、そして左目元のほくろ。
――それはまぎれもなく、彼の義理の妹・御門 梨花の顔だった。
朱音は唇を噛みしめ、じわりと鉄の味が舌に広がる。
――これで、三度目だ。
一度目は衝撃でその場を飛び出し、二度目は夜通し眠れず。
そして三度目の今、心に湧いたのは――ただ、虚しさだった。
――なんて滑稽なんだろう。
(欲を全て捨てたわけじゃない。ただその欲の対象が私じゃなかっただけ)
冷たい壁にもたれながら、朱音は彼と初めて出会った日のことを思い出した。
二十歳の誕生日。
兄に連れられて訪れた高級レストラン。
「俺の最高のダチを紹介する」と言われ、出会ったのが住職の御門宗一だった。
白いマオスーツ、蓮の花のブローチ、そして手首には数珠。
酒と女に溺れる男たちの中で、彼の前には一杯の茶だけが置かれていた。
静かに湯を注ぐ姿。長い指先からこぼれる湯の流れ。
ふわりと立ちのぼる湯気の向こうから、彼がこちらを見た、その瞬間。
心臓が一瞬、止まったような気がした。
尚人は笑って言った。
「おまえ、やめとけよ。 誰を好きになろうが自由だが、あいつだけはダメだ。
寺で育って、女の肌も酒の味も知らない。俺たちのなかで唯一、色欲に染まらない男だから」
朱音はその言葉を信じなかった。
この世で本当に欲のない人間なんているわけない。
そう信じて、彼を“落とそう”と決めた。
お経を読む彼の膝に無理やり座ったり、
お茶に媚薬を混ぜて飲ませたり、ただ「ちょっと熱い」としか言われなかったり…
彼の庫裏に忍び込んで白シャツ一枚で寝転がってみたこともあったが、
彼が入ってきた瞬間、ただ無言で踵を返し、翌朝に新品のシャツを一箱送りつけてきた。
「これでも使え。もう私の服着るな」
尚人には呆れられた。
「お前さ……ちょっとはプライド持てよ!」
「だって! あんな美形男が坊主なんて、社会の損失よ!?」
それでも、朱音は四年ものあいだ想い続けた。
すべてを尽くしても、彼の心どころか視線ひとつ動かせなかった。
希望が尽きかけたころ、誕生日の夜、まさか彼から電話が来た。
「下りてこい、今」
パジャマのまま駆け出した雪の夜。
肩に雪を積もらせ、風のなかで彼は言った。
――「結婚しよう」
指輪も告白もなく、ただその一言だけ。
それでも朱音は嬉しくて、泣きながら彼に抱きついた。
「やっと私のこと、好きになってくれたんだ……」
彼は抱き返さず、ただ「ああ」とだけ答えた。
――今思えば、あの「ああ」がどれほど無機質だったか。
結婚して二年——一度も、結ばれることはなかった。
どれだけ誘っても、最後には彼が背を向けて、ひとり禅房に消えていく。
——修行が長すぎて、心身の準備ができてないだけ。
朱音はずっとそう信じていた。
だが三日前、諦めきれず彼の後をつけ、禅房で目にしたあの光景。
……すべてを、悟った。
彼は“無欲”ではない。
欲の対象が“自分じゃない”、だけだった。
彼が愛していたのは、幼い頃から一緒に育った義理の妹、御門梨花。
仏に祈り、数珠を巻き、朱音と結婚したのは、彼女への欲を断ち切るため。
その瞬間、朱音の心の奥で何かが――ぽきりと、折れた。
――禅房の中で、彼はやっと動きを止めた。
「梨花……愛してる……」
そう囁きながら、ドールの首筋に唇を落とす。
――掠れたその声はあまりに優しく、サビついた針のように、朱音の壊れかけた心に深く突き刺さった。
彼女は静かに涙をこぼし、もう二度と振り返らずにその場を去った。
*
翌朝。
目を覚ますと、御門宗一はすでに黒のスーツを着て、家を出ようとしていた。
数珠はいつも通り手首に巻かれ、昨日の彼がまるで幻だったかのように、整然とした佇まいだった。
玄関の扉を開けようとした彼に、朱音は声をかけた。
「待って」
「今日は用事がある。もう付きまとうな」
冷たい氷のような言葉。
――その一言が、彼女の最後の希望を容赦なく削ぎ落とす。
自分は、いつまでも彼にとって“しつこい女”でしかない。
朱音はふっと笑って、こう返した。
「勘違いしないで。車の鍵を返してもらいたかっただけよ。
こっちの方が運転しやすいの。あなたは別の車を使って」
宗一はやっとこちらを見た。
「今日は出かけるのか」
「ええ」
「何の用事?」
朱音は彼の胸ポケットから鍵を抜き取り、微笑んだ。
「……あなたがきっと、嬉しくなるようなことよ」
——あなたの人生から永遠に、姿を消すこと。