朱音は言いかけた言葉を飲み込み、そのまま踵を返して車に乗った。
目指す先は、大使館。
ドイツの永住権申請――手続き自体は煩雑ではなかった。
特に彼女のような家柄の娘にとっては、むしろ形式的なものにすぎない。
数年前に、羽瀬川家の事業はすべて海外に移転していた。
両親も兄も、みな海外へ。
本に残っていたのは、御門宗一のためこの地に踏みとどまっていた、朱音だけだった。
そして今日、ついにその執着に終止符を打つ決意をした。
「完了までおよそ一週間ほどです」
スタッフが穏やかに伝える。
朱音は無言で頷き、手渡された受領票を受け取ると、静かに大使館を後にした。
(――やっと、終わる)
この六年に及ぶ、片想いという名の追いかけっこが。
御門宗一。
冷たく、どこまでも神聖で――まるで人間の愛など届かない高みにいる人。
初めて「恋」という言葉を知ったとき、朱音が心から捧げた唯一の相手。
朱音は彼のために、どれだけ自分を曲げてきただろう。
派手だった自分を抑え、肉も酒も絶ち、彼の隣にいるためだけに“清らか”を演じ続けた。
少しでも近づけたらと思っていたのに――結局、彼の欲望の核心に触れることは一度もできなかった。
手元の受領票を見つめ、朱音は小さく苦笑する。
「……まあいいわ、御門宗一。あんたが好きじゃなくたって、私を好きになる人、他にいくらでもいるんだから」
*
その夜。
朱音は久しぶりに女友達とクラブへ出かけた。
結婚してから、すっかり足が遠のいていた夜の街――でも、今日は違う。
黒のキャミドレスをまとい、スリットから伸びる脚が艶めかしく揺れる。
久々に解放されたその瞳には、以前のような強気な輝きが戻っていた。
「朱音、どしたのよ今日? いつもだったら『宗一さんが心配するから』って断ってたのに」
親友の片瀬夏実が驚いたように言う。
朱音はグラスを傾け、目元をわずかに潤ませながらも笑った。
「もう気にしない。今日は思いっきりハメ外すんだから!」
そう言って、フロアへ踊り出る。
音楽に身を任せ、朱音はまるで鎖を断ち切るように、自由に踊った。
視線を泳がせながら、モデルのような体格の男に近づき、腹筋にそっと指を這わせる。
男が笑って応じると、すぐに夏実が駆け寄ってきた。
「ちょ、ちょっと! 本気でどうかしちゃったの!?
さっきから何人も触ってるし、あんなに密着して踊って……旦那さんに怒られるんじゃないの!?」
「いるわけないっしょ、こんなとこに」
「――いんのよ!!」
夏実が小声で囁くように言った。
「ずっと言おうと思ってたんだけど……後ろのVIP席にいんのよ。さっきからずっとあんたのこと見てたの……!」
朱音の体が一瞬こわばる。
ゆっくりと顔を上げ、フロアの奥に視線を送る。
――そこにいた。
黒のスーツを纏い、群れることを拒むようにソファに座る御門宗一。
グラスの縁を細い指でなぞりながら、凍てついたような視線を真っ直ぐこちらに向けていた。
(……いつから、いたの?)
偶然か、音楽がピタリと止まる。
その沈黙の中、
「おいおい宗一、奥さんがあんな踊り方して、他の男の腹筋ベタベタ触ってんのに、普通ならぶちギレ案件だろ」
と、横の男が茶化すように言う。
宗一は視線を逸らさず、静かにお茶を一口。
「……朱音は、自分のすることを弁えている。ラインを越えるような真似はしない」
――その言葉は、毒針のように彼女の胸の奥へ突き刺さった。
(ラインを越えない?
“自分が愛されてる”と、彼が確信してるだけ?
……それとも、ただの無関心?
――どっちもある気がする)
「すげぇな……何があったらあんたの心が揺れるんだか逆に知りたいわ」
と、言ったその時。
「……って、宗一!? どこ行くんだよ!?」
男の驚いた声に、朱音も反射的に目をやる。
今までの沈黙が嘘のように、宗一の目には明確な怒りの色が浮かんでいた。
その視線の先にいたのは――御門梨花だった。
白いワンピースを身にまとい、ダンスフロアの片隅で、知らない男と連絡先を交換しているらしい。
御門宗一は一直線に歩み寄り、梨花の手首を乱暴に掴んだ。
「誰がこんな場所に来ていいと言った? 誰が勝手に連絡先を渡していいと?」
その声は、凍てつくような怒気をはらんでいた。
梨花は一瞬戸惑ったが、すぐに目を潤ませた。
「来ちゃダメなの? 連絡先交換しちゃダメなの? お兄ちゃん、もう私のことなんて放っておいてたくせに、何よ今さら……!」
宗一の指が深く食い込み、低く声が漏れる。
「……そんなこと一言も言ってない」
「言ったも同然よ!」
梨花は涙声で叫ぶ。
「だってずっと私のこと避けてたじゃん!全然会ってくれないし!
前はあんなに優しかったのに、どうして急に冷たくなったの!? ねぇどうして!?」
その言葉に、宗一の喉が微かに動いた。
「それは……」
朱音の胸に、ぎゅっと何かが押し込まれたような痛みが走る。
——言えるわけがない。
どうやって言えばいい?
“好きだから近づかないようにした”
“会えば自分を抑えられなくな朱音ら”
“妻とさえ交わらず、代わりに君に似たドールを抱いていた”
――そんな真実、口に出せるわけがない。
朱音は虚しく笑った。
――こんな茶番、もう見ていられない。
立ち去ろうとした、その時だった。
「お兄ちゃん……前みたいに戻ろ? 私、お兄ちゃんだけがいればいいの。あの頃みたいに、私だけを見て……!」
梨花の声が、必死に縋る。
「……私はもう結婚してる。君だけを見ることは……」
「じゃあ——その女がいなくなれば、また元通りになれるの?」
……その目に、狂気が宿った。
朱音がバッグを手にして帰ろうとした、その瞬間——
彼女の前に、酒瓶を握りしめた梨花が、まっすぐ突進してきた。
―――ガンッ!!
鋭い衝撃とともに、ガラスの砕ける音が頭を打った。
熱い液体が、朱音の額から頬を伝って流れていく。
「朱音!!!」
夏実の悲鳴が飛んだとき、もう遅かった。
視界がぐにゃりと歪み――
それでも、梨花は再び瓶を持ち上げた。
「死んでよ、あんたなんか――!」
―――ガンッッッ!!!
二発目は、さらに容赦なかった
倒れゆく意識の中、最後に聞こえたのは、叫び声と混乱が渦巻く、夜の悲鳴だった。