目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第2話

朱音は言いかけた言葉を飲み込み、そのまま踵を返して車に乗った。

目指す先は、大使館。


ドイツの永住権申請――手続き自体は煩雑ではなかった。

特に彼女のような家柄の娘にとっては、むしろ形式的なものにすぎない。


数年前に、羽瀬川家の事業はすべて海外に移転していた。

両親も兄も、みな海外へ。


本に残っていたのは、御門宗一のためこの地に踏みとどまっていた、朱音だけだった。

そして今日、ついにその執着に終止符を打つ決意をした。


「完了までおよそ一週間ほどです」

スタッフが穏やかに伝える。


朱音は無言で頷き、手渡された受領票を受け取ると、静かに大使館を後にした。


(――やっと、終わる)

この六年に及ぶ、片想いという名の追いかけっこが。


御門宗一。

冷たく、どこまでも神聖で――まるで人間の愛など届かない高みにいる人。


初めて「恋」という言葉を知ったとき、朱音が心から捧げた唯一の相手。


朱音は彼のために、どれだけ自分を曲げてきただろう。

派手だった自分を抑え、肉も酒も絶ち、彼の隣にいるためだけに“清らか”を演じ続けた。


少しでも近づけたらと思っていたのに――結局、彼の欲望の核心に触れることは一度もできなかった。


手元の受領票を見つめ、朱音は小さく苦笑する。

「……まあいいわ、御門宗一。あんたが好きじゃなくたって、私を好きになる人、他にいくらでもいるんだから」



その夜。

朱音は久しぶりに女友達とクラブへ出かけた。


結婚してから、すっかり足が遠のいていた夜の街――でも、今日は違う。


黒のキャミドレスをまとい、スリットから伸びる脚が艶めかしく揺れる。

久々に解放されたその瞳には、以前のような強気な輝きが戻っていた。


「朱音、どしたのよ今日? いつもだったら『宗一さんが心配するから』って断ってたのに」

親友の片瀬夏実が驚いたように言う。


朱音はグラスを傾け、目元をわずかに潤ませながらも笑った。

「もう気にしない。今日は思いっきりハメ外すんだから!」


そう言って、フロアへ踊り出る。


音楽に身を任せ、朱音はまるで鎖を断ち切るように、自由に踊った。

視線を泳がせながら、モデルのような体格の男に近づき、腹筋にそっと指を這わせる。


男が笑って応じると、すぐに夏実が駆け寄ってきた。


「ちょ、ちょっと! 本気でどうかしちゃったの!?

さっきから何人も触ってるし、あんなに密着して踊って……旦那さんに怒られるんじゃないの!?」


「いるわけないっしょ、こんなとこに」

「――いんのよ!!」


夏実が小声で囁くように言った。

「ずっと言おうと思ってたんだけど……後ろのVIP席にいんのよ。さっきからずっとあんたのこと見てたの……!」


朱音の体が一瞬こわばる。

ゆっくりと顔を上げ、フロアの奥に視線を送る。


――そこにいた。


黒のスーツを纏い、群れることを拒むようにソファに座る御門宗一。

グラスの縁を細い指でなぞりながら、凍てついたような視線を真っ直ぐこちらに向けていた。


(……いつから、いたの?)


偶然か、音楽がピタリと止まる。


その沈黙の中、

「おいおい宗一、奥さんがあんな踊り方して、他の男の腹筋ベタベタ触ってんのに、普通ならぶちギレ案件だろ」

と、横の男が茶化すように言う。


宗一は視線を逸らさず、静かにお茶を一口。

「……朱音は、自分のすることを弁えている。ラインを越えるような真似はしない」


――その言葉は、毒針のように彼女の胸の奥へ突き刺さった。


(ラインを越えない?

“自分が愛されてる”と、彼が確信してるだけ?

……それとも、ただの無関心?


――どっちもある気がする)


「すげぇな……何があったらあんたの心が揺れるんだか逆に知りたいわ」

と、言ったその時。


「……って、宗一!? どこ行くんだよ!?」


男の驚いた声に、朱音も反射的に目をやる。

今までの沈黙が嘘のように、宗一の目には明確な怒りの色が浮かんでいた。


その視線の先にいたのは――御門梨花だった。


白いワンピースを身にまとい、ダンスフロアの片隅で、知らない男と連絡先を交換しているらしい。


御門宗一は一直線に歩み寄り、梨花の手首を乱暴に掴んだ。


「誰がこんな場所に来ていいと言った? 誰が勝手に連絡先を渡していいと?」


その声は、凍てつくような怒気をはらんでいた。


梨花は一瞬戸惑ったが、すぐに目を潤ませた。


「来ちゃダメなの? 連絡先交換しちゃダメなの? お兄ちゃん、もう私のことなんて放っておいてたくせに、何よ今さら……!」


宗一の指が深く食い込み、低く声が漏れる。


「……そんなこと一言も言ってない」

「言ったも同然よ!」


梨花は涙声で叫ぶ。

「だってずっと私のこと避けてたじゃん!全然会ってくれないし!

 前はあんなに優しかったのに、どうして急に冷たくなったの!? ねぇどうして!?」


その言葉に、宗一の喉が微かに動いた。

「それは……」


朱音の胸に、ぎゅっと何かが押し込まれたような痛みが走る。


——言えるわけがない。 


どうやって言えばいい?


“好きだから近づかないようにした”

“会えば自分を抑えられなくな朱音ら”

“妻とさえ交わらず、代わりに君に似たドールを抱いていた”


――そんな真実、口に出せるわけがない。


朱音は虚しく笑った。

――こんな茶番、もう見ていられない。


立ち去ろうとした、その時だった。


「お兄ちゃん……前みたいに戻ろ? 私、お兄ちゃんだけがいればいいの。あの頃みたいに、私だけを見て……!」

梨花の声が、必死に縋る。


「……私はもう結婚してる。君だけを見ることは……」


「じゃあ——その女がいなくなれば、また元通りになれるの?」


……その目に、狂気が宿った。


朱音がバッグを手にして帰ろうとした、その瞬間——

彼女の前に、酒瓶を握りしめた梨花が、まっすぐ突進してきた。


―――ガンッ!!


鋭い衝撃とともに、ガラスの砕ける音が頭を打った。

熱い液体が、朱音の額から頬を伝って流れていく。


「朱音!!!」


夏実の悲鳴が飛んだとき、もう遅かった。


視界がぐにゃりと歪み――

それでも、梨花は再び瓶を持ち上げた。


「死んでよ、あんたなんか――!」


―――ガンッッッ!!!


二発目は、さらに容赦なかった


倒れゆく意識の中、最後に聞こえたのは、叫び声と混乱が渦巻く、夜の悲鳴だった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?