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第3話

羽瀬川朱音は、痛みで目を覚ました。


ツンと鼻を刺す消毒液の匂い。

天井の白い蛍光灯が目に刺さり、瞼の裏がじんと痺れる。


反射的に手を上げて遮ろうとした瞬間――

点滴の針が手の甲を引きつり、「っ……!」と声が漏れた。


「やっと目を覚ましましたね」


看護師がちょうど包帯を取り替えていたところだった。

朱音が目を開けると、彼女は安心したように微笑んだ。


「一体、何があったんです? 酒瓶を二本もぶつけられるなんて……三十針近く縫ったんですよ。普通の喧嘩じゃないんですよね?」


朱音は無意識に、ガーゼでぐるぐる巻きにされた頭にそっと手をやった。

喉が焼けるように渇いていたが、それでも絞り出すように訊いた。


「……私を、病院に運んだのは誰ですか」

「ご友人の片瀬さんです。一晩中そばにいましたが、急に仕事が入って、先ほど戻られました」


(――そう。

 やっぱ彼じゃなかった。


 じゃあ彼は今、どこに…)


ぼんやりした視界の中でスマホを探し、手に触れた瞬間――

SNSの通知がひとつ、ポンと飛び込んできた。


________________________________________

御門梨花:

「お兄ちゃんやさしい〜♡」


動画が添付されていた。


「見て、瓶を割ったとき指切っちゃった……」


梨花が甘えるように手を差し出す。


カメラが動き、画面に映ったのは――

梨花の前にひざまずく宗一だった。


「……痛い?」

そう呟いた宗一は、彼女の指先にそっと唇を落とした。


その声は、低く、かすれていて――

驚くほど優しかった。

________________________________________


——脳天にまた瓶を叩きつけられたような痛みだった。

縫ったばかりの傷が開いて、そこにアルコールを流し込まれたような、全身が痺れる痛み。


朱音は深く息を吸い、震える手で番号を押した。


「はい、通報したいのですが……」



その夜。

病室の扉が重く開く音がした。


黒いロングコート姿の宗一が、冷えた空気とともに現れた。

端正な顔立ちには、微かに怒気が滲んでいる。


「通報したのは君か? 梨花を殺人未遂で訴えたのは――」

「そうよ」


朱音は一歩も引かずに彼の目を見つめた。

「明らかに傷害罪。……立派な刑事事件でしょ」


宗一は眉を寄せ、語気を強めた。

「……確かにあれはやり過ぎた。だが私はすでに彼女を罰した。もういいんだろう」

「罰した?」


朱音は鼻で笑った。

「どうやって?」


「彼女に悪意はなかった。……今日一日、外出を禁じた」


朱音は数秒間絶句し、

次の瞬間には――吹き出していた。


笑いが止まらず、傷が痛んで涙が滲む。

「……マジで言ってんの御門宗一? 30針も縫うケガを負わせておいて、罰が“一日外出禁止”?

 それ、本当に罰なの? それとも――私に近づけないように、守ってるだけじゃないの?」


宗一の目が険しさを増す。

「違う、罰だ。……警察には、君が訴えを取り下げると伝えた。どの署に行っても、この件は受理されない」


朱音の手が、無意識にシーツを強く握った。

爪が掌に食い込むほど、力が入る。


本当は、言いたいことなんて山ほどある。

けれど、口から出たのは、たった一言だった。


「……御門宗一。私はこの六年、ずっとあんたの背中を追いかけてきた。

 でも――あんたは、私のこと……何だと思ってたの?

 興味もないくせに、どうして結婚なんかしたの?」


宗一は眉を寄せた。

「興味ないとは言ってない」


そして、深く息を吐き出しながら言った。

「とにかく、この件はこれで終わりにしよう。この数日は私が病院で看病する。

退院後の補償もする。……だから、もうこれ以上騒がないでくれ」


――まるで、“施し”でもす朱音のような言い方だった。


朱音は、静かに目を伏せる。


……そうだった。

ずっと彼を求めていたのは、ほかでもない自分だった。


愛してると泣きついたのも、

結婚をせがんだのも、

体を重ねようと必死だったのも――――


ぜんぶ、自分からだった。


だから、

彼が少しでも、朱音のために何かをしてくれるだけで。


それはきっと、施しにすぎない。


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