羽瀬川朱音は、痛みで目を覚ました。
ツンと鼻を刺す消毒液の匂い。
天井の白い蛍光灯が目に刺さり、瞼の裏がじんと痺れる。
反射的に手を上げて遮ろうとした瞬間――
点滴の針が手の甲を引きつり、「っ……!」と声が漏れた。
「やっと目を覚ましましたね」
看護師がちょうど包帯を取り替えていたところだった。
朱音が目を開けると、彼女は安心したように微笑んだ。
「一体、何があったんです? 酒瓶を二本もぶつけられるなんて……三十針近く縫ったんですよ。普通の喧嘩じゃないんですよね?」
朱音は無意識に、ガーゼでぐるぐる巻きにされた頭にそっと手をやった。
喉が焼けるように渇いていたが、それでも絞り出すように訊いた。
「……私を、病院に運んだのは誰ですか」
「ご友人の片瀬さんです。一晩中そばにいましたが、急に仕事が入って、先ほど戻られました」
(――そう。
やっぱ彼じゃなかった。
じゃあ彼は今、どこに…)
ぼんやりした視界の中でスマホを探し、手に触れた瞬間――
SNSの通知がひとつ、ポンと飛び込んできた。
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御門梨花:
「お兄ちゃんやさしい〜♡」
動画が添付されていた。
「見て、瓶を割ったとき指切っちゃった……」
梨花が甘えるように手を差し出す。
カメラが動き、画面に映ったのは――
梨花の前にひざまずく宗一だった。
「……痛い?」
そう呟いた宗一は、彼女の指先にそっと唇を落とした。
その声は、低く、かすれていて――
驚くほど優しかった。
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——脳天にまた瓶を叩きつけられたような痛みだった。
縫ったばかりの傷が開いて、そこにアルコールを流し込まれたような、全身が痺れる痛み。
朱音は深く息を吸い、震える手で番号を押した。
「はい、通報したいのですが……」
*
その夜。
病室の扉が重く開く音がした。
黒いロングコート姿の宗一が、冷えた空気とともに現れた。
端正な顔立ちには、微かに怒気が滲んでいる。
「通報したのは君か? 梨花を殺人未遂で訴えたのは――」
「そうよ」
朱音は一歩も引かずに彼の目を見つめた。
「明らかに傷害罪。……立派な刑事事件でしょ」
宗一は眉を寄せ、語気を強めた。
「……確かにあれはやり過ぎた。だが私はすでに彼女を罰した。もういいんだろう」
「罰した?」
朱音は鼻で笑った。
「どうやって?」
「彼女に悪意はなかった。……今日一日、外出を禁じた」
朱音は数秒間絶句し、
次の瞬間には――吹き出していた。
笑いが止まらず、傷が痛んで涙が滲む。
「……マジで言ってんの御門宗一? 30針も縫うケガを負わせておいて、罰が“一日外出禁止”?
それ、本当に罰なの? それとも――私に近づけないように、守ってるだけじゃないの?」
宗一の目が険しさを増す。
「違う、罰だ。……警察には、君が訴えを取り下げると伝えた。どの署に行っても、この件は受理されない」
朱音の手が、無意識にシーツを強く握った。
爪が掌に食い込むほど、力が入る。
本当は、言いたいことなんて山ほどある。
けれど、口から出たのは、たった一言だった。
「……御門宗一。私はこの六年、ずっとあんたの背中を追いかけてきた。
でも――あんたは、私のこと……何だと思ってたの?
興味もないくせに、どうして結婚なんかしたの?」
宗一は眉を寄せた。
「興味ないとは言ってない」
そして、深く息を吐き出しながら言った。
「とにかく、この件はこれで終わりにしよう。この数日は私が病院で看病する。
退院後の補償もする。……だから、もうこれ以上騒がないでくれ」
――まるで、“施し”でもす朱音のような言い方だった。
朱音は、静かに目を伏せる。
……そうだった。
ずっと彼を求めていたのは、ほかでもない自分だった。
愛してると泣きついたのも、
結婚をせがんだのも、
体を重ねようと必死だったのも――――
ぜんぶ、自分からだった。
だから、
彼が少しでも、朱音のために何かをしてくれるだけで。
それはきっと、施しにすぎない。