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第5話

月光が、こぼした水のようにリビングの床を静かに照らしていた。


羽瀬川朱音は、半開きのドアの向こうで息を潜めたまま、微動だにせず立ち尽くしていた。


――見ているのが、御門宗一が梨花の唇に口づけを落とす瞬間。


荒く乱れた呼吸、

細く長い指が梨花の腰を掴み、

まるで六年間押し殺してきた感情を、いま全て注ぎ込むような激しさで。


「梨花……梨花………」


その声は、朱音が一度も聞いたことのない、甘く湿った声音だった。

切なさと、欲望と、どうしようもない愛が滲んでいた。


どれほどの時が過ぎただろうか。

ようやく我に返った宗一は、梨花の唇の端を指でそっと拭い、手首に数珠を巻き直す。


そして顔を上げたその瞬間には――まるで何事もなかったかのように、"あの"御門宗一に戻っていた。


――人間離れした、浮世離れした、聖人のような顔で。


朱音は、拳を握りしめていた。

指先が、掌に食い込んでいる。

その痛みだけが、現実を証明していた。


ドアを静かに閉じ、布団に潜り込む。

耳を澄ませば、彼の足音が遠ざかっていく。


――きっとまた、禅房に籠もるのだろう。


目を閉じた瞬間、記憶が洪水のように押し寄せた。


――セクシーなネグリジェを着て、読経中の彼の膝に“うっかり”倒れ込んだあの日。

――風呂上がりにパジャマを届けに行き、期待しても彼は腰に巻いたタオルすら微動だにせず開けた扉。

――酔ったふりをして彼に抱きつこうとしても、額を指一本で押されただけ。


あらゆる努力が、彼の無反応に飲み込まれてきた。

どれだけ努力しても、彼は一片たりとも靡かなかった。


――でも。

たった一言。


あの子が夢の中で甘く囁いただけで、

彼は壊れた。


自分には一度も向けられなかった、その熱。

その声。


涙が止まらなかった。

けれど、すぐに袖で拭った。


(もういい。

 あなたが妹を愛するのなら、私は私で、自由に生きてやる。)



翌朝。

朱音がダイニングへ向かうと、宗一と梨花がすでに朝食をとっていた。


梨花は唇を指でなぞりながら、呟くように言った。


「……なんか唇が腫れてる。ねぇお兄ちゃん、この家、虫とかいるの? 寝てる間に刺されたっぽい」


宗一の手が止まり、低く言う。

「……後で、薬を持ってこさせる」


朱音はテーブルの上に置かれた箱を開ける。

――病院で彼が言っていた“補償”だ。


中にあったのは、億単位の価値があるとされる、重厚な骨董品だった。


「へぇ……ずいぶん派手なことするのね」

梨花が身を乗り出し、のぞき込んで皮肉めいた口調で笑った。


「朱音さんにそんな高価なプレゼント? お兄ちゃん、優しいじゃん。

私なんて、お兄ちゃんから何ももらったことないのに。

仏様ばっか拝んで、奥さんのこと全然気にしてないのかと思ってた~」


朱音が宗一を見ると、彼は目を伏せたまま、何も言わなかった。


その箱が“謝罪”――

梨花が彼女の頭を割ったことへの補償だということを、彼は黙っていた。


彼は、本当は朱音が何を好むかなんて、これっぽっちも知らない。

この骨董も、ただ“価値”で済ませるためのもの。

形式だけの、形ばかりの慰め。


「……会社に行ってくる」


御門家は寺を継いだ宗一を残し、両親が事業を起こした。

いまや企業グループへと拡大し、宗一も時折、後継者として顔を出すことがある。


短く告げて立ち上がると、宗一は玄関に向かう前に、梨花に向かって言った。

「今日は寺院でおとなしくしていろ。どこに行っても構わないが……禅房には入るな」

「え~、なんで?」


梨花が首をかしげる。

「……掃除中」


苦し紛れの言い訳だったが、朱音にはわかっていた。

――あの禅房は、宗一が"欲望"を封じる場所だった。



朝食を終えて部屋に戻った朱音は、そのままベッドに倒れ込んだ。

梨花と同じ空間にいるのも、もううんざりだった。


だが、昼過ぎに目を覚ましたとき――

鏡に映った自分を見て、息を呑んだ。


髪が、切られていた。


腰まであった黒髪は、今や不揃いに、無惨に短くなっていた。


慌てて部屋を飛び出すと、リビングのソファに座った梨花が、彼女の髪を手にとって編み物をしていた。


「……っ!」

――見るなり、すべてが理解できた。


「……私の髪切った?」

声が震える。


梨花は顔を上げ、あどけない笑顔で言った。

「うん。大学の手芸課題でね。ウィッグ作ろうと思って」

髪の束を振って見せる。

「朱音さんの髪、すっごく綺麗なんだもん。黒くて、ツヤツヤで、ちょうど良かった~」


ぞくり、と背筋が粟立つ。

――この子、正気じゃない。


その瞬間。

朱音の中で、何かが――ぷつりと、切れた。


バシッ!


乾いた音が室内に響いた。

彼女の手のひらが、梨花の頬を打っていた。


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