月光が、こぼした水のようにリビングの床を静かに照らしていた。
羽瀬川朱音は、半開きのドアの向こうで息を潜めたまま、微動だにせず立ち尽くしていた。
――見ているのが、御門宗一が梨花の唇に口づけを落とす瞬間。
荒く乱れた呼吸、
細く長い指が梨花の腰を掴み、
まるで六年間押し殺してきた感情を、いま全て注ぎ込むような激しさで。
「梨花……梨花………」
その声は、朱音が一度も聞いたことのない、甘く湿った声音だった。
切なさと、欲望と、どうしようもない愛が滲んでいた。
どれほどの時が過ぎただろうか。
ようやく我に返った宗一は、梨花の唇の端を指でそっと拭い、手首に数珠を巻き直す。
そして顔を上げたその瞬間には――まるで何事もなかったかのように、"あの"御門宗一に戻っていた。
――人間離れした、浮世離れした、聖人のような顔で。
朱音は、拳を握りしめていた。
指先が、掌に食い込んでいる。
その痛みだけが、現実を証明していた。
ドアを静かに閉じ、布団に潜り込む。
耳を澄ませば、彼の足音が遠ざかっていく。
――きっとまた、禅房に籠もるのだろう。
目を閉じた瞬間、記憶が洪水のように押し寄せた。
――セクシーなネグリジェを着て、読経中の彼の膝に“うっかり”倒れ込んだあの日。
――風呂上がりにパジャマを届けに行き、期待しても彼は腰に巻いたタオルすら微動だにせず開けた扉。
――酔ったふりをして彼に抱きつこうとしても、額を指一本で押されただけ。
あらゆる努力が、彼の無反応に飲み込まれてきた。
どれだけ努力しても、彼は一片たりとも靡かなかった。
――でも。
たった一言。
あの子が夢の中で甘く囁いただけで、
彼は壊れた。
自分には一度も向けられなかった、その熱。
その声。
涙が止まらなかった。
けれど、すぐに袖で拭った。
(もういい。
あなたが妹を愛するのなら、私は私で、自由に生きてやる。)
*
翌朝。
朱音がダイニングへ向かうと、宗一と梨花がすでに朝食をとっていた。
梨花は唇を指でなぞりながら、呟くように言った。
「……なんか唇が腫れてる。ねぇお兄ちゃん、この家、虫とかいるの? 寝てる間に刺されたっぽい」
宗一の手が止まり、低く言う。
「……後で、薬を持ってこさせる」
朱音はテーブルの上に置かれた箱を開ける。
――病院で彼が言っていた“補償”だ。
中にあったのは、億単位の価値があるとされる、重厚な骨董品だった。
「へぇ……ずいぶん派手なことするのね」
梨花が身を乗り出し、のぞき込んで皮肉めいた口調で笑った。
「朱音さんにそんな高価なプレゼント? お兄ちゃん、優しいじゃん。
私なんて、お兄ちゃんから何ももらったことないのに。
仏様ばっか拝んで、奥さんのこと全然気にしてないのかと思ってた~」
朱音が宗一を見ると、彼は目を伏せたまま、何も言わなかった。
その箱が“謝罪”――
梨花が彼女の頭を割ったことへの補償だということを、彼は黙っていた。
彼は、本当は朱音が何を好むかなんて、これっぽっちも知らない。
この骨董も、ただ“価値”で済ませるためのもの。
形式だけの、形ばかりの慰め。
「……会社に行ってくる」
御門家は寺を継いだ宗一を残し、両親が事業を起こした。
いまや企業グループへと拡大し、宗一も時折、後継者として顔を出すことがある。
短く告げて立ち上がると、宗一は玄関に向かう前に、梨花に向かって言った。
「今日は寺院でおとなしくしていろ。どこに行っても構わないが……禅房には入るな」
「え~、なんで?」
梨花が首をかしげる。
「……掃除中」
苦し紛れの言い訳だったが、朱音にはわかっていた。
――あの禅房は、宗一が"欲望"を封じる場所だった。
*
朝食を終えて部屋に戻った朱音は、そのままベッドに倒れ込んだ。
梨花と同じ空間にいるのも、もううんざりだった。
だが、昼過ぎに目を覚ましたとき――
鏡に映った自分を見て、息を呑んだ。
髪が、切られていた。
腰まであった黒髪は、今や不揃いに、無惨に短くなっていた。
慌てて部屋を飛び出すと、リビングのソファに座った梨花が、彼女の髪を手にとって編み物をしていた。
「……っ!」
――見るなり、すべてが理解できた。
「……私の髪切った?」
声が震える。
梨花は顔を上げ、あどけない笑顔で言った。
「うん。大学の手芸課題でね。ウィッグ作ろうと思って」
髪の束を振って見せる。
「朱音さんの髪、すっごく綺麗なんだもん。黒くて、ツヤツヤで、ちょうど良かった~」
ぞくり、と背筋が粟立つ。
――この子、正気じゃない。
その瞬間。
朱音の中で、何かが――ぷつりと、切れた。
バシッ!
乾いた音が室内に響いた。
彼女の手のひらが、梨花の頬を打っていた。