「なん……なんなのですかあああああ!? その生き物はあああああああ!?」
自慢のカースゴブリン二匹をミノコによって瞬殺され、悲鳴のような声を上げるカストール領主の膝は、生まれたての小鹿よりもぷるぷると震えている。
オレは拳で自分の胸を、ドン! ……とではなく、ぽよんと叩き、戦慄に忙しいクソ野郎の質問に答えてやる。
「こいつの名前はミノコ。ミノタウロスのタフネスだけじゃなく、その他いろいろチートな乳牛で、オレの大事な相棒だ!」
ドヤァァ、と言い放ってから、ちょっと自信なさげにミノコを横目に見やると、少しばかり憮然とした顔をしているものの、特に否定はされなかった。
よっしゃ、よしゃよしゃ!
とと、顔を緩めている場合じゃない。
「観念しろ。今すぐスミレナさんを解放して、これまでのことをちゃんと謝るなら情状酌量の余地くらいは与えてやる」
「……謝る? ……わたしが?」
ぎりっと歯を噛み鳴らしたカストール領主は諦め悪く、スミレナさんを力任せに引っ張って、わざわざ逃げ場の無いバルコニーへと移動していく。
「グンジョーさん!! グンジョーさあああん!! 聞こえますかあああ!?」
カストール領主が、半壊したバルコニーの柵に身を寄せ、もう一人のクソ野郎の名前を階下に向かって叫んだ。
姿が見えないと思ったら、あのちょびヒゲ、外にいやがったのか。
「ええ、そうです!! やっちゃってくださぁい!!」
「おいっ、何をしようとしてる!?」
既に指示を終えたのか、カストール領主は余裕の無い顔を、無理やり笑みの形に変えた。その必死さには、常軌を逸した凄みすら感じさせる。
「うふ、うっふふ、サキュバスのお嬢さん、まずはその生き物をさがらせなさい。でないと、この女を下に突き落としますよぉ?」
カストール領主は脅すように言った後、ミノコが壊した柵の前にスミレナさんを立たせた。わずかでも後ろに体を傾ければ、10m下に真っ逆さま。スミレナさんの立ち位置を見ているだけで、ひょっ、と気持ち悪い浮遊感に見舞われる。
「こんの……ゲスめ! 堕ちるとこまで堕ちやがったな!」
「うふふ、大丈夫ですよぉ。ちゃぁんと、下で受け止めてくれるはずですからぁ」
「誰が、グンジョーがか!?」
「いえいえ。ほぅら、聞こえてきませんかぁ?」
オレにもそうしろと言うかのように、カストール領主が耳に手を当てた。
…………声がする。
「ゲッ、ゲッ」「ゲギャ」「ゲギギ」「ギャッ、ギャッ」「ギギャッ」
地上から聞こえてくるその声は、人のそれじゃない。
さっきもこの部屋で聞いていたのと同じ。錆びついた窓を強引に開けようとした時に生じる怪音のような、聞くに堪えない酷い声。
「下にもゴブリンが!?」
しかも一匹や二匹じゃない。
「カースゴブリンではありませんが、ただのゴブリンでもありませんよぉ。捕えてから今まで一ヶ月間、一度も雌を見ていない、そんな飢えた雄ゴブリンたちです。わたしの指示で、外に放すよう言ってありました」
「……ゴブリンも……人間の女を襲うのか?」
「うふ、ふひひ、ご想像にお任せしましょうかぁ」
「アンタ、そこまでやるってのか!?」
「できないと思いますかぁ!? できますよぉ! わたしの目的をお忘れではありませんよねぇ!? わたしは、この女を辱められればそれでいいんですからねぇ!」
歪みきってる。
いつからそうだったのか。
スミレナさんへの嫉妬が積もり積もってそうなったのか。
ゴブリンたちを飼い慣らしていくうちにそうなったのか。
オレが魔物だという確信を持ったことでそうなったのか。
――カストール領主はもう、正気を失っている。
「アタシは、そこまでアナタのことを追い詰めていたのね……」
絶壁に立たされているスミレナさんが悲しそうに言った。
「な、なんですかぁ? 今さら反省したって遅いですよぉ?」
「反省? 反省なんてしていないわよ。しようがないもの。だって事実じゃない。アナタが無能だってことは。アナタの無能はアタシの責任じゃないわ」
「無、能?」
いつ爆発したっておかしくない。
そんな相手にスミレナさんは強気の姿勢を崩さない。
カストール領主は、寒さに凍えるようにして小刻みに肩を震わせた。
その様子を見て、スミレナさんは怯えるでもなく、苦労の滲む溜息をついた。
これ以上は弱い者いじめにしかならない。そう言わんばかりに。
「今のは半分憂さ晴らしだったから、一つだけ撤回するわ。領主としてのアナタは大嫌いだったけど、経営手腕には尊敬できるところもあった。だから、無能は言い過ぎだったわ」
「そ、尊敬? 嘘を言わないでくださいよぉ。アナタは、わたしを見下す目でしか見たことがないじゃないですかぁ!」
「見下してたんじゃないわ。ただ軽蔑していたのよ。どこまで行っても自分のことしか考えていないから。アタシは、アナタを下に見たことなんてないわ。アナタが勝手にアタシを見上げていただけじゃない」
「そんな……ことは、ありません。わたしは、思い知らせてやるんです! 上から見下ろされる屈辱が、どれほど耐え難いものかをねえええ!」
ここでもう一度、スミレナさんは深く溜息をついた。
「そこまで言うなら、その希望を叶えてあげるわ」
「何を言
スミレナさんが、カストール領主の足を思い切り踏みつけた。
その刹那、わずかに拘束が弱まる。
「好きなだけ見下ろせばいいわ。アタシも、人質に取られるなんて御免だから」
スミレナさんの体が、後ろへと傾いていく。
なのに慌てるどころか、スミレナさんはオレに微笑みかけた。
「リーチちゃん。ちょっと下へ行って、ゴブリンを手なずけてくるわね」
声にならない声を上げてカストール領主が手を伸ばしたが、その手は空を掴む。
気づけばオレも走り出していた。
でも、間に合わない。
スミレナさんの姿が、バルコニーから消えた。
それでもオレは走り、さらに追いかけた。
飛び降りることに一瞬の躊躇も無かった。
視界が一気に開け、再びスミレナさんの姿を捉えた。
地上では十数匹ものゴブリンが、落ちてくる獲物を見上げて蠢いている。
スミレナさんがオレに気づき、驚愕に目を見張った。
空気抵抗を受けて落下するスミレナさんに対し、オレは頭から飛び込む直滑降。
その差はすぐゼロになった。
「リーチ、ちゃ!?」
離すかよ。絶対離すもんかよ。
何があっても離さないよう、スミレナさんの腰に両手をしっかりと回した。
メロリナさんが言っていた。
――ある程度レベルが上がると、サイズを調整できるんす。
ある程度って、いくつだよ。いつの話だよ。
そんなもん。
「今しかないだろッ!!」
手に魔力を集める感覚は完璧に覚えた。
その要領で、オレは背中にありったけの魔力を集めていった。
「ひ……ら……けええええええええええええええええええええ!!」
投下された獲物に悦ぶ醜悪なゴブリンの顔が4m先に近づいたところで、オレは地面に映った自分の影を見た。
その影は、今まで見たことがないシルエットをしていた。
大きく、大きく、何倍にも成長した翼の形だ。
「ん、が、ぎ、ぐ……!!」
翼を動かすことに慣れていないだけでなく、二人分の自由落下を持ち上げる筋力だってない。羽ばたくことはできず、オレはスミレナさんを抱きしめたまま、グライダーのように斜め下へと滑空していった。
ゴブリンの指先が足に触れた。そんなぎりぎりのラインを飛行する。
超々低空飛行はあっという間に終わった。
チリッ、と肘が地面を
オレは衝撃に備え、いっそう強くスミレナさんを抱きかかえた。
頭だけは打ち付けないように顎を引き、オレとスミレナさんは、ごろんごろんと地面を激しく転がった。
十数mを横転した
「ハッ……! ハッ……!」
断続的に小さな呼吸が漏れる。
生きてる。生きてる。
その実感を、腕の中のスミレナさんの体温と、ひりつく体の痛みで確かめた。
もし翼が開いていなかったらと思うと、遅まきに寒気がする。
「リーチちゃん……アナタって子は……無茶をして……」
スミレナさんが、オレの胸に顔を押しつけたまま声を震わせた。
「無茶はお互い様です」
オレとミノコの足を引っ張りたくない。そう思っての行動だったんだろうけど、あんな危険なことは二度としないでほしい。
それに、まだピンチは続いている。
「ゲギッ」「ギギャギャ」「ギギィ」
離れた場所に落ちたオレたちを、ゴブリンたちが追って来ている。
カストール領主の部屋で見た特大サイズではなく、オレの中にあったイメージと変わらない、人間の子供サイズのゴブリンたちだ。
奴らが全員雄だというなら【
だけど、如何せん多すぎる。スミレナさんを庇いながら捌き切れる数じゃない。
それに、初めての飛行であれだけの負荷をかけてしまい、背中がつっている。
オレ自身も満足に動けない。だったら、せめて盾になりながら。
スミレナさんを背にし、オレは向かってくるゴブリンたちの前に出た。
「オレから離れないでくださいね。必ず切り抜けますから」
不安にさせまいと言ったが、虚勢だった。
もうちょっとだったのに。
あとちょっとで助けることができたのに。
悔しさで、掌に爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。
その時だった。
「――カカ。一晩見んうちに、ずいぶんと成長したようでありんすなあ」
その声は、風と共に空から舞い降りて来た。
オレ以上に大きな翼を持ち、屋敷から零れる明かりを反射して、長い髪を白銀に煌めかせた彼女が、オレとスミレナさんの前にふわりと降り立った。
「来て……くれたんですね」
「友の窮地と聞かば、そりゃあ来んわけにはいかんしょや」
この町に暮らすもう一人のサキュバス――メロリナ・メルオーレ。
三百年もの時を生きてきた、オレの大先輩だ。
「我ながら魅せる登場よの。わちきが来たからには、もう安心せい」
来てくれた。こんなにも小さくて
「ゴブリンか。久しぶりに見たのう」
十匹以上もいるゴブリンたちを眺め、メロリナさんは懐かしむように言った。
口調と態度、どちらからも危機感を微塵も感じさせない。
その間にもゴブリンたちは距離を詰め、ご馳走に群がるようにして、一斉に飛び掛かって来た。一月振りに獲物を嬲れる興奮から、どいつもこいつも目が血走り、涎を撒き散らしている。
「揃いも揃って、ゴブリンは粗チンばかりでありんすなあ。何よりあれじゃ――」
溜息交じりに言ったメロリナさんが、面倒臭そうに両手を頭上に掲げて言った。
「――とうに食い飽きたわ」
妖艶に笑み、腕を左右に振り下ろした直後、彼女の全身から風が迸った。
「これは……魔力?」
「りぃちや、今はまだ無理でありんしょうが、この感じを肌で覚えておきなんし」
放たれた魔力はドーム状に広がり、襲い来るゴブリンたちを余さず包み込んだ。
「ガガガギャ!?」「ギョガガ!?」「グギ、ギゲギャ!?」
「【
言葉とは裏腹に、メロリナさんの表情はサディスティックそのものだ。
それに、ちょっとばかりの痛がり方じゃない。
魔力を浴びたゴブリンたちは悲痛に呻き出し、苦悶に顔を歪めていく。
跳び上がっていたゴブリンたちも次々と撃ち落とされ、同じ道を辿った。
「す、ご……」
触れることさえなく、かつ広範囲に。こんなことができるのか。
「
絶大な力を見せつけたメロリナさんは、泡を吹いて完全に沈黙している十数匹のゴブリンを見下ろし、容赦無く落第点をつけた。