セルジュは、ボッセオ公爵家の跡取り息子だ。
銀色の髪に青い瞳、肌の色は白く、体は細くて小さい。
まだ4歳の跡取り息子は、頼り甲斐よりも可愛らしさが勝る。
そんなボッセオ公爵家の跡取り息子は、両親と共に馬車に乗り、領地へと視察に来ていた。
「雨、やまないね」
馬車の小さな小窓から外を眺めて、セルジュは両親に言った。
青い瞳に残念そうな落胆の色を浮かべて、空を見上げている。
そして分かりやすく尖った小さな口元には、明確に不満な感情が表れていた。
「そうね、雨が止まないわね」
ふふふと柔らかく笑いながら、セルジュの横に座る母は答えた。
顎を上げたセルジュの短く整えられた銀髪が、子どもらしさの残るふっくらとした頬にかかる。
手入れが行き届いた銀髪はキラキラと輝くが、不満げに膨らんだ頬はそのままだ。
それでもセルジュはお行儀よく馬車に座っているので、貴族の子息らしい服は乱れてはいない。
4歳の幼い令息とはいえ未来の公爵は癇癪を起こしたりしないのだ、という意思の表れだ。
それでも4歳の幼い貴族は小さな抵抗の証として、ブリーチズに白いタイツを合わせた足をブランブランと揺すって、不満を表明した。
「お天気が悪い日の馬車は、退屈ね」
優しい笑みを浮かべたボッセオ公爵夫人は可愛い息子を抱き寄せると、銀色の髪を細くしなやかな白い右手で撫でた。
「だけど止まない雨はないというからね。時には我慢も必要だよ、セルジュ」
セルジュの正面に座っているボッセオ公爵は、おどけた表情で息子に言った。
4歳になったセルジュを伴って領地への視察に来たボッセオ公爵一家であったが、あいにくの天気である。
領地の景観は楽しめないし、馬車の乗り降りをするだけでびしょ濡れだ。
このまま回っていても目的は果たせないし、まだ幼いセルジュが病気にでもなっては大変と、早々に帰宅の途へ着くことになった。
ボッセオ公爵はセルジュを元気づけるように笑顔で言う。
「思っていたよりも滞在が短くなってしまったが、セルジュにとっては貴重な体験となっただろう」
「でもボク、牧場で食べるソフトクリームを楽しみにしてたのに……」
不満を言葉にすれば、セルジュのほっぺはよりぷっくりと膨らむ。
幼い息子の可愛らしい不満を、母は笑いながらなだめる。
「ふふふ。この雨ではね。売店も開いていないから仕方ないわ」
「ちぇっ」
セルジュは拗ねたように呟いて下を向くと、限界を見極めながら慎重に足をぶらぶらと揺すった。
「はは。また来ればいいよ、セルジュ。領主さま特権でソフトクリーム食べ放題だ」
「本当⁉」
父に魅惑的な提案をされて、セルジュはパッと顔を上げて表情を輝かせた。
母は息子を励ますように笑う。
「ふふ。なら、それまでの間に大きくなっておかないとね」
「んっ、ボク頑張る!」
セルジュは両腕の肘を曲げ、両手を握って小さな握りこぶしを作ると力強く言った。
両親は可愛らしいその仕草に一瞬だけ見入ると、次の瞬間には声を立てて笑った。
セルジュはムッとした表情を浮かべてちょっとだけ両親を睨んだが、次の瞬間には両親と共に声を立てて笑った。
馬車の座面からは、ガタゴトと舗装されていない悪路の振動がそのまま伝わってくる。
雷鳴がとどろき、激しい雨が馬車を叩いていても、4歳のセルジュにとっては両親が側にいる場所は安全地帯だ。
だからセルジュは次の領地訪問までには大きくなって、ソフトクリームを少なくとも2つ、調子がよければ3つ食べたいな、などと呑気に考えていた。
御者の悲鳴を聞くまでは。
「何だっ。貴様たちはっ! 護衛は⁉ えっ⁉ うわぁぁぁぁぁぁ!」
セルジュの両親は異常にすぐ反応した。
「一体何が⁉」
母は隣に座るセルジュを素早く抱きしめた。
父は馬車の小窓から外を窺う。
「あぁ、黒い馬に乗った黒づくめの奴らに囲まれているっ!」
父は側に置いていた剣を手に取った。
そして状況を確認しようと小窓に顔がくっつきそうなほど近付いてキョロキョロとあたりを確認する。
「護衛……護衛が見当たらないっ。既にやられたか?」
ボッセオ公爵は呟くように言った。
事態の深刻さを表すように剣を持つ手に力が入り、ボッセオ公爵の右手の甲には筋がギュッと浮いた。
「お母さま……」
「大丈夫よ、セルジュ」
セルジュは怯えるように母に縋りつく。
母は息子を安心させようと、震える背中を柔らかく撫でた。
だがその効果は限定的だ。
「あっ、馬車がっ⁉」
セルジュが叫ぶのと同時にグラリと馬車が大きく揺れた。
「馬車につかまれ!」
「はいっ! セルジュッ!」
「……っ」
セルジュは息を呑んで母の胸にしがみついた。
しっかりと抱きしめてくる母の温もりを感じながら、剣を握って馬車の中で体を突っ張るボッセオ公爵を見る。
セルジュは恐怖に震えながら、天地がひっくり返るのを感じていた。
悲鳴。
怒声。
血の臭い。
馬車が倒された衝撃で、セルジュの意識は朦朧としていた。
セルジュは倒れた馬車の中から、外に飛び出て戦う父の背中を見た。
「何だ貴様らはっ!」
かすむ視界の先では、ボッセオ公爵は家族を守るために、額から血を流しながら剣を握っている。
黒装束の男たちは、手に持った様々な刃物をセルジュの父へ向けた。
(お父さま……お父さま……)
刃物が冷たく煌めくたびに父の体には傷が増え、赤い血が流れていく。
(お母さま……怖いよ……)
大きく開いた馬車の扉の向こうでは雨は降り続けている。
馬車のなかにも雨が降り込んで、セルジュの体は冷えていく。
縋りつく母の体はピクリともしない。
母の体越しにセルジュは息をひそめて黒装束の男たちを見ていた。
雲に太陽光を遮られてあたりは昼間だというのに暗い。
黒装束の男たちは、何処かから次から次へと湧いて出るように増えるばかり。
(護衛は……味方は……どこ?)
父は剣を振るって黒装束の男たちに立ち向かうも、多勢に無勢。
1人奮闘するボッセオ公爵は、やがて膝をつき、さらに切りつけられて地面へと倒れた。
赤い血が、雨に打たれて流れていくのをセルジュは震えながら見ていた。
黒装束の男の1人がボッセオ公爵を足で蹴り、ピクリともしないのを確認する。
声も出さずに頷き合う黒装束の男は、どこかへと消えていった。
(お父さま! お父さま!)
セルジュは叫びながら、父の側へと駆け寄りたかった。
しかし声は出ないし、体も動かない。
(お父さま……お母さま……怖いよ……痛い……寒い……)
やがてセルジュは。痛みとショックのなかにスウッと飲み込まれるようにして気を失った。