夕立の匂いがまだ残る午後、どこかで遠く、雷が鳴っていた。
その空気の中、桐ヶ谷迅は一人、過去を思い返していた。
俺は昔から、ガタイだけは良かった。
運動神経もまあまあ、喧嘩も強い方。
だけど、誰かに注目されたり、群れるのは性に合わなかった。
中学の頃までは、どちらかというと一人でいるのが好で。
恋愛? 興味なんてなかった。
女子に話しかけるタイミングなんて分からなかったし、
こっちを怖がって避けるような目も、いつからか見慣れていた。
――きっかけは、ただの偶然だった。
放課後の校舎裏。
雨がしとしとと降るなか、三人がかりでクラスメイトを殴っている現場を見つけた。
そいつは小柄で、目も合わせず、ただ蹲っているだけだった。
通りかかったやつらも、誰も止めようとはしなかった。
けれど、俺はーー足を止めた。
「やめろ」
振り向いた連中が、最初に言ったのはこうだ。
「は? なんだお前、生意気だな」
──そこからは、もう止まらなかった。
やられたらやり返す。
数で来るなら、何倍にして返す。
気づけば、俺は「ケンカが強いヤツ」として周囲に見られるようになっていた。
「一緒にいれば安心」だの、「あいつに話せばなんとかなる」だの――
言ってくるやつが増えて、いつの間にか、俺の周りには“仲間”ができていた。
不良になりたかったわけじゃない。
でも、慕ってくるやつを突き放すのが苦手だった。
放っておけなかった。
「迅さん、マジ惚れるっす!」
「背中、でけぇ……」
そんな言葉をかけてくるのは男ばかりで、女子からはますます距離を置かれた。
……けどまあ、それでもよかった。
「俺にできることがあるなら」って、思ってた。
――あの日までは。
高校二年の春。
梅雨が始まりかけた頃の放課後、腐れ縁であり親友の拓海から電話がきた。
『……ケンジがやられた。けっこう、酷ぇ。』
「……誰がやった?」
『城南の連中。一年が何人か行ったらしい。……ケンジが“迅のため”に、って。お前の名前、バカにされたって言われたら止まんなくて――』
俺は、無言で立ち上がった。
クローゼットから、昔のジャージとスニーカーを引っ張り出す。
最後に、引き出しの奥からナックルを手に取る。鉄製の無骨な武器。
俺はそれを暫く見つめ――元の場所に戻した。
***
河川敷にある古びた倉庫。
そこにいたのは、五人。
俺は、一人だった。
でも、それで十分だった。
仲間が俺の為に血を流した。
それが全てだった。
「迅〜、仲間やられて一人で乗り込んで来たってかぁ?」
「……ああ。落とし前、つけに来た」
拳は、痛かった。
けど、それ以上に重かったのは、背中にのしかかる罪悪感だった。
“俺の名前で、誰かが怪我した”
それだけで、拳に乗せるものが変わる。
五人を倒したあと、俺はゆっくりと拳を下ろし、意識のあった一人に告げる。
「これで最後だ。俺は……不良をやめる」
「はあ? 意味わかんねぇよ……!」
「仕返ししたきゃ、来いよ。俺はもう、手は出さねぇ」
振り返らずに背を向けて、一言だけ、残した。
「……でもな。俺の大切なモンに手ぇ出したら、地の果てまで追って、ぶっ飛ばす」
***
数日後。
雨が止んだばかりの朝。
ぬかるんだ裏山の登校路で、小さな声が震えていた。
「……くぅん……」
俺の足元に、泥まみれの子犬が蹲っていた。
「……なんでこんなとこにいんだよ」
視線を子犬の背後に移すと、空の段ボール箱が置かれていた。
そこには、ご丁寧に**「拾ってください」**と書かれている。
ただし、雨に濡れて段ボールはへこみ、文字は滲んで読みづらくなっていた。
「ひでぇ事しやがる……」
俺は上着を脱ぎ、そいつを包み込んだ。
その時だった。
耳に届いたのは、やたら通る女の声。
「あぁぁぁっ!!」
振り返ると、制服を着た黒髪の女が立っていた。
艶やかな黒髪は背中まで伸びていて、前髪は斜めに整えられている。
肌は透けるように白く、ぱっちりした瞳は異様なほど真っ直ぐで、俺と犬をじっと見つめてくる。
制服は校則通りきっちり着こなしているのに、まるで少女漫画から飛び出してきたような完成度がある。
その見た目に反して、口にした第一声がすでにどこかズレていた。
「不良が犬を拾うって、これ、完全に少女漫画の導入ですよね……!」
「……は?」
「これは……運命です! 私、先輩のヒロインになります♡」
こうして、
俺の平和な日常はーーきれいさっぱり終わった。
---
(つづく)