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第1話 犬を拾ったら、暴走女子がヒロインしにやってきた件

 翌朝、空にはまだ重く灰色の雲が残っていた。

 通学路に吹く風は少し湿っていて、制服の袖をそっと撫でていく。


 東峰高校の校門前に立ち止まった桐ヶ谷迅は、制服の襟を軽く整えながら、小さくため息をついた。


 制服の着こなしは、以前よりずっと整っている。

 黒く戻された髪は自然に前髪を下ろし、整った顔立ちと引き締まった体格は目を引く。

 だが数日前は――金髪にオールバック、うっすらソリコミにピアス。  

 肩で風を切る姿は完全に“昔の不良”だった。


 とはいえ、姿勢の良さと無駄のない動き、無意識の眼光の鋭さはまだ残っている。


 今では、“ちょい悪イケメン”なんていう言葉が噂としてささやかれているらしい。

 だが本人は、そんな風評には一切気づいていない。ただ、静かに目立たず生きたい。それだけだった。



 昨日、裏山で拾った子犬は「レン」と名付けられた。

 名前をつけたのは、あの謎の黒髪少女――九条怜奈だった。


 勝手に自己紹介をして犬に名前を付け「運命です♡」とか言ってたが、迅としては意味がわからなかった。

 家までついてこようとしたが、迅は何とか追い返した。

 とはいえ、子犬が元気でさえいれば、あえて気に病むこともない――そう判断していた。



 校門をくぐり、曇り空を仰ぎつつ昇降口へ向かった。

 下駄箱で上履きに履き替え、軽く足を鳴らす。

 その瞬間、甘ったるい声が奥から響いてきた。


 「迅先輩〜〜♡ おっはようございまーすっ♡ あなたのヒロインの九条怜奈ですっ♡」


 校舎の廊下をハイテンションで手を振りながら、黒髪の美少女が一直線に駆け寄ってくる。


 「……お前は、昨日の……てか、なんで名前呼びなんだよ」


 「えっ? ダメでした? でも、昨日あんな濡れた子犬を優しく包み込む姿を見せつけられたら、呼び方くらい縮まりますって♡」


 「縮まねぇよ。てか俺、お前に名前なんて教えてねぇだろ」


 「ふふふ、調べました♡ 先輩、有名ですもん! 苗字だけでも簡単にヒットしました♡ “東峰高校 不良 桐ヶ谷”って検索したら、伝説が山ほど出てきましたよ〜♡」


 「……やめろ、その検索ワード」


 「でも安心してください♡ 今の迅先輩は、“犬と共に更生中の元不良イケメン”って、私の中で再評価されてますからっ♡」


 迅は無言で眉間を押さえた。


 「……で、なんで“ヒロイン”なんだよ」


 「はいっ♡運命のヒロインです♡覚えてくれて嬉しい〜〜〜♡私の事は怜奈って呼んでくださいね♡」


 「いや、だからヒロインって……何の話だ」


 「ふふ、分かってないですね〜。不良だった男が雨の中で犬を拾って――そこに現れた美少女と運命的に出会う……これは完全に第1話の導入じゃないですか♡」


 「導入?」


 「昨日からもう第2話突入気分なんですけど♡ 攻略率が足りないので、今日から毎朝ご挨拶に来ることにしました〜〜っ♡」


 笑顔で言ってのける怜奈。

 周囲の生徒たちはざわつき始めていた。


 「何言ってんだお前……」


 制服はきっちり着ているのに、どこか少女漫画のキャラのように眩しい。

 だがその目の奥には、キラキラを通り越してギラつきすら感じる何かが潜んでいた。


 「え、誰?」

 「あの子、1年の子じゃない?」

 「めっちゃかわいいけど……あれ?桐ヶ谷くんと仲良かったっけ?」


 いつの間にか、好奇の視線が迅と怜奈に集まっていた。


 「……おい、あんま近づくな。目立つ」


 「えっ、まさかもう照れモードですか? 先輩、そういうとこですよ、モテるんですから♡」


 迅が一歩下がると、怜奈が一歩前へ。

 迅が目を逸らすと、怜奈が“その目線の先”にまで回り込む。


 まるで誘導ミサイル。


 「そう言えば先輩、レンくんは元気ですか? 昨日から気になって気になって……あ、あの子犬ちゃんですよ♡」


 「元気っつうか……まあ、無事だ。朝は犬用チュール食ってた」


 「わぁ〜♡それってもう完全に**“共同生活開始”**じゃないですか♡」


 「……俺と犬がか?まぁ、確かに共同生活だが」


 「も~!違いますよ~!私と先輩の愛の結晶がですよ♡」


 「は?」


 迅は全く意味が分からないと困惑する。


 「んもうっ!昨日2人で名前つけたじゃないですか! レイナのレと……あの時はなんとなく“レン”って響きが可愛くて選んだんですけど……」


 嬉しそうに語る伶奈は、指先を小さく胸元で組んでクルクル回っている。

 そのテンションに、迅は額に手を当てて呟く。


 「……なんとなく、な」


 「でも、後から気づいたんです! 先輩のお名前がジン……つまり『ン』! レとンでレンくん! ――これはもう、私たちの運命の愛の証ですよ♡」


 言い切る怜奈の顔は、どこまでも無邪気だった。


 「は?いや、そんなわけあるか」


 迅は絶句するしかなかった。

 怜奈の満面の笑みに、何を返すべきかすら分からない。言ってる事の意味も分からない。


 「……お前、脳みそどうなってんだよ」


 「私の頭の中は先輩の事だけですよ♡そうそう、今日はですね、“教室前でドキッとするイベント”を狙ってます♡」


 「狙うな。あと、教室には入らなくていい」


 「えっ? でもここ、“主人公の隣の席にヒロインが座る展開”の伏線かと思って♡」


 「俺の隣は男子だ」


 「じゃあその子、消せばいいんですね♡」


 「物騒すぎるだろ。それにお前は1年だから消しても無理だ」


 迅は淡々とあしらいながら歩を進めた。

 元不良と、グイグイ来る美少女――その異様な組み合わせに、周囲の生徒たちは目を丸くして遠巻きに眺めていた。

 彼の通る廊下には、人が左右に割れるように道ができる。まるでモーゼのごとく。

 教室の前までついてきた怜奈を何とか振り切ると、やっと心からのため息をついた。



***



 一、二年の教室は校舎の別フロアにあるためか、午前中は怜奈が絡んでくることはなく、平穏な時間が流れた。

 ……少なくとも、迅にとっては。


 実際のところ、怜奈は短い休み時間のたびに、こっそり迅の教室を廊下の窓越しに覗いていた。

 端から見れば完全に不審者である。



 そして昼休み――


 屋上は曇り空の下でも心地よい風が吹き抜け、静けさだけは守られていた。


 迅はお気に入りの場所で、ようやく静かに弁当を食べようとしたところに、その不審者が堂々と現れた。


 食べかけの弁当の残りを見つめながら、迅は深くため息をつく。


 「なんで俺、こんな状況に巻き込まれてんだろ……」


 「はい、今日のお弁当♡ “レンくん”の形にしてみました♡」


 怜奈は迅の弁当の横に自分が作ったレンくん弁当を並べて説明する。


 「……レンってお前……この海苔、犬の顔になってるだけじゃねぇか」


 「わ〜! 気づいてくれて嬉しい〜〜♡ ちなみにこれ、“ふたりで飼うレンくん”がテーマです♡」


 「俺は別にお前と飼ってねぇよ」


 「えっ? 私が結婚するまで先輩の家で預かってるだけですよね?」


 「違ぇよ」


 そのとき、屋上の扉がバンッと音を立てて開いた。

 勢いよく風が巻き込み、弁当のナプキンがふわりと揺れる。


 「よっ、ジンジン〜〜!」


 現れたのは友坂拓海。

 明るめの茶髪を無造作に流し、シャツの袖は腕まくり、ネクタイはゆるく下げたまま。

 どこか遊び慣れた雰囲気の笑顔で、何の遠慮もなくそのまま駆け寄ってきた。


 その遠慮のない軽さに、迅は思わず眉をひそめる。


 「――って、何この光景!? リアルに“彼女ごっこ”始まってんじゃん!」


 拓海は弁当の様子を覗き込むと、ニヤリと笑った。


 「俺、昔からお前のこと知ってるけど、こんな女子力高めな女子と並んでるのお初ですわ」


 「タク、マジで黙れ」


 「いやいやいや、だってこれ、フラグ建設済みじゃん? 完成してんじゃん?」


 「うふふ……さすが、先輩のご友人ですね。“恋愛に理解のある親友キャラ”……物語では貴重なんですよ♡」


 「やばい、話が通じてるようで通じてねぇ!!」


 「……ちょっと怖ぇな、この子」

拓海が顔をしかめながら首を傾げる。


 「てか俺、親友ポジなの? 攻め? 受け?」


 「何言ってんだお前」


 「いやだって詩織ちゃんがさ、最近俺とジンのやり取り見ながら、鼻血出してたんだぜ? 完全に薄い本の準備入ってるぞ」


 「……薄い本ってなんだよ」


 その後も迅には理解できない会話が繰り広げられ、いつの間にか昼休みは終わっていた。

 ちなみに全員の会話が噛み合っていないというカオスであった。



***



 九条怜奈は、その後も迅の周囲に現れ続けた。


 朝の靴箱前、昼休み、放課後、購買前――

 どこにでも現れ、勝手に恋愛ルートを進行していく。


 「今日のルートはですね、“急接近イベント”です♡ちなみにサブヒロインポジ、増えそうな気配がしたら私、全力で潰しますので♡」


 「……それ言うやつがヒロインなわけねぇだろ」


 「ふふっ、ツン期ですね! そろそろ“急に甘くなるルート”が来ますね♡ そのギャップ、最高です♡」


 迅は心の中で頭を抱えた。

 (……こいつ、マジで止まんねぇ……!)


 (……正直、関わらない方がいいのかもしれない。けど、ああまで真っ直ぐな目を向けられると、無下にもできねぇ……)


 こめかみを軽く押さえ、ゆっくりと息を吐く。

 まるで収まらない暴走列車でも見ている気分だった。


 が――

 怜奈の妄想暴走は、まだ序章にすぎなかった。



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