放課後。
太陽が傾き、校舎の廊下に長い影が落ち始める頃――
「桐ヶ谷くん、ちょうどよかった」
帰り支度をしていた迅は、職員室前の廊下で担任に呼び止められた。
先生は腕時計をちらりと見て、少し慌ただしい様子だった。
「椎名さんに渡してほしいプリントがあるんだ。図書委員の資料だけど、今すぐ職員会議に行かなきゃいけなくてさ」
そう言って差し出された封筒を、迅は無言で受け取った。
「図書室にいるはずだから、頼むよ」
「……わかりました」
断る理由もない。
むしろ、こうして先生に頼まれごとをされるのも、少し前の自分には無かったことだ。
不良をやめた――それだけで、周りの反応も少しずつ変わってきているのかもしれない。
自然と足が図書室へと向かう。
扉を開けた途端、紙の匂いと静寂が迎えてくれる。
こんな静かな空間が、こんなに落ち着くとは。
少し前まで、喧嘩と騒音の真ん中で生きていた自分が嘘のようだ。
「ご用件、ですか……?」
声が聞こえ、迅はそちらに顔を向けると、本棚の向こうから、ひょこっと顔をのぞかせる女子生徒がいた――
セミロングの栗色の髪をふわりと二つに結い、知的な眼鏡がよく似合う。
椎名詩織。迅とは同じクラスだが、これまで特に言葉を交わす機会は少なかった。
物静かで、教室ではいつも読書かノートに何かを書き込んでいる姿が印象的だった。
迅はプリントに目を落とし、相手の顔を確認してから言った。
「ああ、椎名。先生から渡してくれって頼まれた」
「あ……はい、お預かりします。桐ヶ谷くん」
「悪いな、頼んだ」
「最近桐ヶ谷くん、有名ですよ。“ちょい悪だけど実は優しい”って噂、図書室まで聞こえてきます」
「噂ってなんだよ……」
少女は、どこかおっとりとした空気をまとっていた。
話すテンポも、声のトーンも優しくて、耳に心地よい。
「同じクラスだけど、今まで殆どお話したことをなかったですよね。あの……私は椎名詩織っていいます。図書委員してます。……あと、小説書くのが好きで」
詩織はそう言いながら、制服のポケットに忍ばせた小さなメモ帳をそっと撫でた。
「あー……へぇ、すごいな」
「……実は、昨日の帰りに、あなたが子犬を連れて歩いてるのを見かけました」
「……見てたのか」
「はい。……可愛かったです、子犬。もちろん、あなたも、ですけど」
「は?」
「い、いえっ!? いまのは比喩で! 比喩っていうか、その、印象の話でっ……!」
慌てて本を抱きしめ、頬を赤く染める詩織。
その様子に、迅は思わず肩の力を抜いた。
――こういう子は、珍しい。
まっすぐで、よくわからん妄想もせず、普通の会話ができる女子。
「子犬の名前、なんて言うんですか?」
「……レン、だ」
「かわいい……。あ、もしよければ、レンくんの話、もっと聞かせてくれませんか?」
素直なその一言に、迅は珍しく、自然と頷いていた。
***
一方その頃、廊下の角――
ロッカーの影から黒髪の少女が顔を出す。
笑顔のままのその目には、ほんのわずかな棘が混じっていた。
怜奈の小さな声が漏れる。
「……遅い……遅すぎます、先輩。……もしかして、他の女と“仲良く”なんて……してませんよね?」
怜奈のヒロインセンサーが、ビビビと鳴る。
目元は笑っている。けれどその奥には、ひりつくような光が宿っていた。
「大丈夫。“他の女”なんて、全部削除すればいいんですから♡」
(……いや、冷静に。これはまだ“フラグ未確定イベント”……きっと偶然、きっとただの図書委員……)
だが次の瞬間、ドアの隙間から――
迅が椎名詩織と並んで本を覗き込みながら、何か話して笑っているのが見えた。
「……近い。近すぎます、その距離感♡」
冷静に見える怜奈の瞳が、キラキラを通り越してギラギラと光を帯びる。
(……ダメ……このままだと、ヒロイン枠に割り込まれちゃうっ♡)
ドンッ!
図書室の扉が勢いよく開いた。
「迅先輩っ♡ 遅くなってごめんなさ〜い♡まさか、先に誰かと“本棚イベント”してたなんて♡」
「……は?」
迅が呆けた顔で振り向くと、そこには“この場に最もふさわしくない少女”が立っていた。
「あなたは……九条さん、ですよね?」
「は〜い♡九条怜奈で〜す♡先輩のヒロインです♡」
「いや、ここ図書室だぞ。静かにしろ」
「ごめんなさーい……。でも……静かにしてる間にサブヒロインが攻めてきたら……殺意、湧いちゃいますよね♡」
「え、私……攻め……?」
「あなた、まさか図書室という名の“背景”を武器にして、文学系ヒロインポジ狙ってないですよね♡」
「ぶ、文学系ヒロイン……!?」
「先輩、私ちゃんと知ってますよ♡ 図書委員の椎名さんって、“創作好き”で“清楚”で“文学少女”っぽくて……あと、『BLにハマってる』って風の噂で聞きました♡」
「ふぇえええっ!? そ、それはっ、間違いでは……ないんですけどっ……!」
「椎名さんって……可愛いですよね♡おっとりしてて、真面目で、女の子らしくて……でもそれって、男を油断させるタイプって自覚してますか♡?」
あくまで笑顔で怜奈は続ける。
「ふふふっ♡ この私の前で、サブヒロインなど通用しませんっ♡」
怜奈のテンションに、図書室全体の空気がわずかに軋んだ。
思わず迅がこめかみを押さえ、詩織は胸元で抱えた本をぎゅっと握りしめる。
二人の反応をよそに、怜奈は満面の笑みを浮かべたまま――
図書室という静寂の聖域で、唯一テンションを爆上げしている少女――空気を読まないヒロイン(自称)、それが九条怜奈である。
***
放課後の静かな校舎に、不自然なざわめきがじわじわと漏れ始めていた。
普段はほとんど物音すらしないはずの図書室方面から、微かに声が響いてくる。
教室の隅では、友坂拓海がプリントを片手にぼんやり窓の外を眺めていた。
「……提出物まとめるのって地味に面倒だよなぁ……」
そんな拓海の独り言に、隣でノートを整理していた別のクラスメイトが小声で返す。
「あれ、今なんか聞こえなかった? 図書室の方……って、まさかまた桐ヶ谷か?」
拓海は苦笑し、肩をすくめた。
「だろうな。ジン、マジで波乱体質だよな。……つーか、またあの子絡みだろ?」
「図書室であのテンションなら、ほぼ確定だな」
「平穏に生きたいだけの男なのに、マジで哀れだわ……お祈りしとくか、ジンの平穏のために」
「……でもさ、多分、明日も何か起こる気がするんだよな……」
二人は静かに手を合わせた。もちろん冗談半分で。