ようやく図書室での騒動も収まり、迅はため息と共に校舎を後にしていた。
(……はぁ。今日は一段とカオスだったな……)
怜奈の暴走を何とか振り切り、校門のところで強引に別れを告げたのはついさっきだ。
「先輩♡一緒に帰りましょ♡」「来るな」
――そんなやり取りを何度も繰り返し、どうにか怜奈を撒いて迅は家へと帰宅した。
***
夕方、住宅街の裏道。
迅はレンのリードを軽く引きながら、ゆっくりと歩いていた。
裏山のぬかるみで震えていた小さな命は、今はもう元気に尻尾を振って歩いている。
「……ほら、レン。こっちだ」
チョコチョコと小走りに先を行くその姿に、自然と口元が緩む。
だが、その静けさも――長くは続かなかった。
「せ〜んぱ〜いっ♡」
背後から突然飛んできた、妙に甘ったるい声。
(……まただよ、やっぱりな……)
迅はゆっくり振り返る。
そこには当然のように、黒髪ロングの“あの少女”が立っていた。
「……お前、なにしてんだ」
学校で別れたはずの怜奈の姿に迅は顔を引きつらせる。
「校門でバイバイされたけど……先輩の行動パターンは予習済みですから♡ 散歩中の先輩も可愛かったです♡」
怜奈は笑顔のまま、ずいっと顔を近づけてくる。
「“おうち訪問イベント”、ついに解禁ですね♡」
「誰がそんな許可出したんだ」
「運命が、です♡」
迅は眉間を押さえ、短くため息を吐いた。
(……やれやれ、ほんと手のかかる……)
怜奈の表情は、あざといくらいに無垢だった。
いや、無垢“風”だった。
(……無理に追い返したら、またどこで待ち伏せされるか分かんねぇし……)
迅は観念して、静かに肩を落とした。
「……少しだけだぞ」
(……親は遅番だし、まあ少しくらいなら騒がれてもバレねぇだろ。……こいつ相手じゃ、妙な雰囲気になる心配もねぇし)
怜奈のペースに振り回されるのは面倒だが、恋愛とかそういう方向の気配は――迅の中では、最初から成立していなかった。
***
部屋に上がり込んだ怜奈は、手を合わせて感動の声を漏らした。
「わぁ〜♡ これが、先輩の部屋……!」
「人ん家でテンション上げんな」
「だって……この床、この空気、このカーテンの匂い、……全部“新婚生活シミュレーション”って感じがして……♡」
「妄想だけにしとけ」
「もう、照れちゃって♡あ、机の配置もバッチリですね! 勉強机とベッドの距離感もちょうどいいし……あ、クローゼットの収納力は……っと♡」
「やめろ、勝手に間取りのスペック調べんな」
怜奈は勝手に部屋の隅まで歩き、迅の本棚、収納ケース、そして――
「うわっ、ちっちゃい頃の写真……!えっ、やだ、これ超かわいい♡ これ、もらっていいですか?」
「やめろ!!」
「ふふっ、じゃあスキャンだけで我慢しときます♡」
そう言ってスマホを取り出した。
迅はもはや諦めの境地だった。
***
ようやく夜が近づき、怜奈が帰る準備を始めた。
いや、むしろ強制的に玄関へ追い出した。
「じゃあ、また明日♡ レンくんのためにも、明後日も、明々後日も来ますから♡」
「来るな」
「はいっ♡ その“強がりツン”も、最高です♡」
玄関のドアが閉まり、静寂が戻る。
「……勘弁してくれよ……」
迅は全身から力が抜けるようなため息をついた。
だがその頃――
向かいのアパートの屋上で、ひとりの少女が風にスカートをなびかせていた。
整った制服に身を包み、黒髪ストレートボブが風に揺れる。切れ長の冷たい目元――生徒会副会長、如月瑠璃。
瑠璃の手には『対象観察記録 第42冊目』と記されたノートがあった――。
「18:15、自宅前で対象に“女子生徒が接近”。
18:25、室内侵入確認。
19:42、退出。対象、著しく疲労の兆候」
彼女は静かにペンを仕舞うと、ぽつりと呟いた。
「観察対象、感情パラメータに微細な乱れ。……初めて、ですね。……ふふ」
***
翌朝――
普段通りの時間に登校したはずなのに、迅の足取りはわずかに重かった。
昨日の“強制訪問イベント”の疲れが、まだ抜けきっていないのだろう。
頭の片隅では、今日も怜奈が何を仕掛けてくるかを考えながら歩いていた。
校舎に入ると、既に生徒たちのざわめきが始まっている。
始業前の慌ただしい時間帯――その中で、静かに佇む少女が目に入った。
廊下の窓際で立ち止まり、手帳を閉じる仕草をしたのは――如月瑠璃。
切れ長の瞳が、迷いなく迅を捉える。
「……昨日、大変でしたね」
まるで監視カメラのような静けさで放たれたその言葉に、迅はわずかに肩をすくめた。
「は? なんでお前がそれを……」
「いえ。ただ、“対象”の行動に異常があったので。記録してるだけです」
迅は小さく眉をひそめた。
「……お前、俺の何を“記録”してんだ」
「全て。行動、視線、心拍、反応、そして――感情の揺れも」
淡々と答えるその姿に、迅は背筋をほんの少しだけ冷やす。
「それと、ひとつ質問を」
「なんだよ」
「……あの子より、私の方が静かに、正確に観察できますけど。……それじゃ、役不足ですか?」
その一言が、まるで機械に見えた少女からこぼれた“人間的な欲望”のようで、逆に一番、恐ろしかった。