如月瑠璃は最近、自分の中に“ノイズ”が混じり始めたことに気づいていた。
それは、予定外の変化だった。
――昔、あれはまだ中学の頃。
放課後の路地裏で、不良に絡まれていた自分を救ってくれたあの少年。
金髪にソリコミ、制服はだらしなくて、見るからに近づいちゃいけない空気。
けれど、目だけは、なぜか優しかった。
「……大丈夫か?」
自分に手を差し伸べたときのあの声。
今でも、耳に残っている。
あの瞬間から、桐ヶ谷迅という人間を“観察対象”として記録し始めた。
それはただの感謝でも、憧れでもない。もっと冷静で、論理的な興味――
――だった、はずだった。
だが、あの子が現れてから、おかしい。
(九条怜奈。1年生。桐ヶ谷くんの生活圏に急激に介入。…不測の変数)
観察記録に乱れが生じ始めたのは、明らかに彼女が現れてからだった。
***
昼休み、いつも静かな屋上に、瑠璃の姿があった。
(……昼食は今日も屋上、予想通りです)
瑠璃は静かに扉を閉めると、少し歩み寄る。
(今日の観察は……もう少し近距離で)
迅は驚いたように顔を上げる。
(……また、か。……なんでだ。今日はやたら副会長と目が合うな)
生徒会副会長――如月瑠璃。
これまで迅とは特に関わる機会がなかった。
以前は遠くで姿を見るだけだったのに、今日は朝から何度も顔を合わせている気がする。
「副会長か……お前がここに来るとは、珍しいな」
「少し、確認したいことがあって」
瑠璃は弁当の手を止めた迅の目をじっと見た。
「昨日の桐ヶ谷くん、著しく疲労していました」
「……疲れてるのは毎日だけどな」
「違います。深いため息、朝の無言の立ち止まり、登校時の歩幅の乱れ。それらは“精神的ストレスの累積”によるものです」
「……全部見られてたのかよ」
迅が顔をしかめると、瑠璃は静かに頷いた。
「……あの子、昨日、あなたの家にいましたね」
「………………は?」
「間取り図から割り出した移動音、居住者以外の声量の差異。窓越しに確認しました」
迅は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(……監視カメラかよ……)
思わず眉間に深くシワを寄せ、無言で睨む。
瑠璃はそんな反応にも動じず、淡々と続ける。
「でも。……昨日のあなた、“少しだけ”笑ってました。戸惑いながらも、誰かを拒めない。あなたの、そういうところ、私は……」
言葉が一瞬、途切れる。
「……観察しがいがあると思っています」
(違う。それだけじゃない)
言えなかった言葉を、瑠璃は胸の奥に押し込めた。
――が、その時。 扉の向こうから、いつものハイテンションボイスが飛び込んできた。
「は〜〜〜いっ♡愛の急接近イベント、乱入しちゃいま〜〜すっ♡」
屋上のドアが、派手な音を立てて開いた。
九条怜奈だった。
「やっほー!迅先輩♡ナイスタイミングですねっ♡」
「……またかよ。昨日も来ただろ」
「えへへ♡先輩のルート進行は、もはや私の生活の中心ですから♡
今日も“お昼イベント”発生中ですっ♡」
怜奈が満面の笑みで近づいてくる中、瑠璃は静かに立ち上がった。
「……また、あなたですか」
「やだ、副会長さんもここに? 珍しいですね〜。もしかして、“隠れヒロイン枠”狙ってたりして?」
「私は“観察者”です。あなたのような“自称ヒロイン”とは違います」
「……でもね? “観察”って、結局、“見てるだけ”でしょ?それ、ヒロイン失格ですよ♡ 私はね? 見てるだけなんて無理。ヒロインってのは、行動する女なんですからっ♡」
「その“行動”が、他人の生活を壊しているという自覚はありますか?」
「そっくりそのままお返しします♡」
二人の間に、静かに火花が散った。
静と動。ロジックと衝動。冷静と狂気――
――タイプは違えど、どちらも“桐ヶ谷迅という存在”を中心に回っている。
迅は、心底めんどくさそうに弁当の蓋を閉じた。
「……頼むから、一人で飯くらい食わせてくれ」
(平和だった屋上……返してくれ)
***
昼休みの終わりのチャイムが鳴る中、瑠璃はひとり、階段を下りながらポケットの中の小さなノートに手を触れた。
(――私の中に芽生えてしまったこの“ノイズ”は)
(観察では、記録では、もう処理しきれない)
瑠璃が今までただ記録してきた迅の表情に、今日、自分の言葉で――
ほんの少し、揺れが生まれた気がした。
(……もしかしたら私は)
(彼の“対象”になりたくなってしまったのかもしれない)