目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第9話 (最終話)犬を拾っただけ、なのに

 文化祭の翌日。東峰高校は、前日の喧騒が嘘のようにいつも通りの風景を取り戻していた。

 しかし、生徒たちの表情には、まだ夢から覚めきれないかのように、どこか浮ついたものが残っている。


 迅は教室に入り、いつも通り席についた。

 椅子の背もたれに体を預けながら、天井を見上げてつぶやく。


 「……終わったな、色々」


 「お前が女子達に囲まれてたせいで、展示より周りの空気のほうが暑かったけどな」


 拓海がニヤリと笑う。

 手には文化祭のパンフレット。

 その表紙には、ちゃっかりレン(犬)の写真が載っている。


 「……これ、副会長が載せたんだろ?“地域との交流”ってやつでさ」


 迅はパンフレットを見て、微かに眉を寄せた。


 (観察ついでに写真まで撮ってたのか……ぬかりねぇな)


 「で? どうなん? 誰かといい感じになったとか?」


 「なってねぇよ。てか、なる気もなかったし」


 「でもまあ……悪くなかったんじゃね?」


 迅は、少しだけ目を細めて黙った。

 誰とも“特別な何か”が始まったわけじゃない。

 けれど、たしかに――

 誰かと“何かが始まったような気がする”。



***



 昼休み。

 静かな図書室の隅。

 詩織は、机に広げたノートの端に、小さな文字で何かを書き込んでいた。


 (あの人は……変わったんじゃない。きっと、最初から優しい人だった)


 彼女の視線の先には、ペット飼育本の背表紙があった。

 迅が、それを読んでいたのは――文化祭の準備期間の、とある昼休み。

 無骨な指先で、慎重にページをめくっていた姿が、まだ詩織の記憶に鮮明に残っていた。


 (真剣だったな……レンくんのことで。……ううん、それ以上に)


 ページの合間に付箋を挟み、しっかり読んで、何かを考えているその横顔。

 詩織は声もかけず、ただ静かに見ていただけだった。

 でもあの時、ふと、迅がわずかに視線を動かし、一瞬だけ詩織のほうを見たような気がした。


 (……不器用で、まっすぐで。恋はまだ知らない人)


 詩織がノートに書き足した一文。


> 『犬を育てるように、誰かとの関係を大切にしようとする人――』




 そして、ページの隅にもうひとつ。


> 『好きです』――の前に必要なのは、“信頼”かもしれない。



***



 放課後。

 階段の踊り場で、瑠璃は迅の姿を見つけた。


 「桐ヶ谷くん。ちょうど良かったわ。文化祭の片付け、ありがとう」


 「いや、手伝ったのは俺だけじゃないし」


 「それでも、あなたがいたから回った。……だから、お礼はちゃんと言いたかった」


 瑠璃は視線を逸らす。

 表情は穏やかで、でもどこか張りつめていた。


 「昔、あなたに助けられたとき。……ありがとうって言えなかった。

でも、今は言える。だから――ありがとう」


 「……俺、覚えてないけどな。そういうの」


 「うん、知ってる。でも、それでいいの」


 沈黙が落ちる。

 けれど、瑠璃の胸の奥では、何かが確かにほどけた気がした。


 (今の桐ヶ谷くんを見ていられるなら、それで十分だって――思いたかった。けど)


 ふと、下の階段から甘い声が響く。


 「せ〜んぱぁい♡ 放課後のヒロインタイム、忘れてませんかぁ?」


 当然のように現れたのは九条伶奈。

 制服の胸ポケットには、何故か手作りの“迅先輩専用おやつ”が突っ込まれている。


 「おい、来んな」


 「ふふっ♡ 文化祭が終わっても、私たちの物語は終わりませんよ?」


 「……そもそも始まってねぇよ」


 「えぇ〜〜? でも“犬拾いイベント”で出会って、“共同飼育ルート”突入中じゃないですか♡」


 迅が眉間を押さえてため息をつくと、階段の影から拓海が顔を出す。


 「ジンジン、モテモテで大変だな〜」


 「お前まで来んな。しかもその呼び方、文化祭でだいぶ広がったぞ」


 「いいじゃん、浸透してる証拠!」


 ――その様子を見ていた瑠璃は、ふと視線を伏せた。


 (……軽い。全部が軽すぎて、笑ってしまいそう)


 けれど、胸のどこかがずっとチリチリと焼けていた。

 あのとき自分は、ちゃんと“伝えた”はずだった。

 あの人が変わったことも、ちゃんと見ていたつもりだった。


 (……それでも、彼女はああやって躊躇いなく踏み込んでいく)


 (私のほうが、ずっと長く見てきたつもりだったのに)


 小さく深呼吸をして、瑠璃はかすかに笑った。


 「……勝てないな、あの子には」


 それは、自分に向けた皮肉であり、

 同時に、長らく閉ざしていた感情が、ようやく外に解き放たれたような、心の底に生まれた小さな悔しさの告白でもあった。



***



 夕暮れの空は、少しだけ冷たかった。

 住宅街の端を歩く二人の高校生と、一匹の子犬。

 小さな足音と、落ち葉を踏む軽い音が交互に響く。


 「……で、結局、誰とくっつくの? ヒロイン候補3人、全部脈アリじゃん」


 拓海が、レンのリードを片手で持ちながら軽く問いかけた。


 「くっつくとかじゃねぇよ。つーか俺、よくわかんねぇし。そういうの」


 「らしーな。でも逃げなかったじゃん。ちゃんと向き合ってた。前なら、話しかけられる前に睨み返して終わってたろ、お前」


 「……それは、まあな」


 「で、今は?」


 迅は少しだけ歩みを止めた。

 レンが草むらの匂いをかぎながら、のんびりとリードを引っ張る。


 「正直、まだ“好き”とかは分かんねぇ。でも……誰かが俺をちゃんと見てくれてるってのは、悪くなかった」


 「全部うまく返せたわけじゃねぇけど、それでも逃げなかった。誠実でいようとは、思った」


 「誠実な不良って……なんか矛盾してるな」


 「ほっとけ。それにもう不良じゃねぇ」


 ふっと風が吹いた。

 落ち葉が舞い、レンがくしゃみを一つした。


 「でもさ、すごいよな」


 「なにが」


 「お前、犬拾っただけだったのに――」


 迅は肩をすくめて笑った。


 「……気づいたら、人生ルート変わってた気がするわ」


 拓海も同じように笑って、レンの頭を軽く撫でた。


 「つーかさ、モテルートで修羅場って、何その青春。小説かよ……あ、詩織ちゃんが書いてたっけ、そういうの」


 「……まさか、続きあるのか?」


 「さあな。でも、物語って、続くんじゃねぇの?」


 拓海がそう言って、夕焼けに染まる道の先を指差した。

 その先には、レンが楽しそうに尻尾を振りながら、何か新しい発見を求めて駆けていく姿があった。


 迅はその背中を、しばらく黙って見つめていた。


 でも、気づけば――

 誰かと話して、笑って、感謝されて。

 思ったより悪くない時間を、過ごしていた。


 夕焼けの道はまだ遠く、明日のことなんてわからない。

 けれど――

 きっとそれでも、進んでいける気がした。


 そのとき。


 遠くから、ここ最近でずいぶん聞きなれた甘ったるい声が響いてくる。


 「せ〜〜んぱぁ〜〜い♡ 今日も犬散歩ルート、ご一緒していいですか〜〜♡♡」


 振り返らなくても分かる。その声と足音は、すっかり日常の一部になっていた。



 迅は小さくため息をついた。


 けれど、その足は止まらなかった。


 > ――俺、犬拾っただけだったはずなんだけどな。



 それでも、今日もまた、誰かとの物語が続いていく。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?