文化祭の翌日。東峰高校は、前日の喧騒が嘘のようにいつも通りの風景を取り戻していた。
しかし、生徒たちの表情には、まだ夢から覚めきれないかのように、どこか浮ついたものが残っている。
迅は教室に入り、いつも通り席についた。
椅子の背もたれに体を預けながら、天井を見上げてつぶやく。
「……終わったな、色々」
「お前が女子達に囲まれてたせいで、展示より周りの空気のほうが暑かったけどな」
拓海がニヤリと笑う。
手には文化祭のパンフレット。
その表紙には、ちゃっかりレン(犬)の写真が載っている。
「……これ、副会長が載せたんだろ?“地域との交流”ってやつでさ」
迅はパンフレットを見て、微かに眉を寄せた。
(観察ついでに写真まで撮ってたのか……ぬかりねぇな)
「で? どうなん? 誰かといい感じになったとか?」
「なってねぇよ。てか、なる気もなかったし」
「でもまあ……悪くなかったんじゃね?」
迅は、少しだけ目を細めて黙った。
誰とも“特別な何か”が始まったわけじゃない。
けれど、たしかに――
誰かと“何かが始まったような気がする”。
***
昼休み。
静かな図書室の隅。
詩織は、机に広げたノートの端に、小さな文字で何かを書き込んでいた。
(あの人は……変わったんじゃない。きっと、最初から優しい人だった)
彼女の視線の先には、ペット飼育本の背表紙があった。
迅が、それを読んでいたのは――文化祭の準備期間の、とある昼休み。
無骨な指先で、慎重にページをめくっていた姿が、まだ詩織の記憶に鮮明に残っていた。
(真剣だったな……レンくんのことで。……ううん、それ以上に)
ページの合間に付箋を挟み、しっかり読んで、何かを考えているその横顔。
詩織は声もかけず、ただ静かに見ていただけだった。
でもあの時、ふと、迅がわずかに視線を動かし、一瞬だけ詩織のほうを見たような気がした。
(……不器用で、まっすぐで。恋はまだ知らない人)
詩織がノートに書き足した一文。
> 『犬を育てるように、誰かとの関係を大切にしようとする人――』
そして、ページの隅にもうひとつ。
> 『好きです』――の前に必要なのは、“信頼”かもしれない。
***
放課後。
階段の踊り場で、瑠璃は迅の姿を見つけた。
「桐ヶ谷くん。ちょうど良かったわ。文化祭の片付け、ありがとう」
「いや、手伝ったのは俺だけじゃないし」
「それでも、あなたがいたから回った。……だから、お礼はちゃんと言いたかった」
瑠璃は視線を逸らす。
表情は穏やかで、でもどこか張りつめていた。
「昔、あなたに助けられたとき。……ありがとうって言えなかった。
でも、今は言える。だから――ありがとう」
「……俺、覚えてないけどな。そういうの」
「うん、知ってる。でも、それでいいの」
沈黙が落ちる。
けれど、瑠璃の胸の奥では、何かが確かにほどけた気がした。
(今の桐ヶ谷くんを見ていられるなら、それで十分だって――思いたかった。けど)
ふと、下の階段から甘い声が響く。
「せ〜んぱぁい♡ 放課後のヒロインタイム、忘れてませんかぁ?」
当然のように現れたのは九条伶奈。
制服の胸ポケットには、何故か手作りの“迅先輩専用おやつ”が突っ込まれている。
「おい、来んな」
「ふふっ♡ 文化祭が終わっても、私たちの物語は終わりませんよ?」
「……そもそも始まってねぇよ」
「えぇ〜〜? でも“犬拾いイベント”で出会って、“共同飼育ルート”突入中じゃないですか♡」
迅が眉間を押さえてため息をつくと、階段の影から拓海が顔を出す。
「ジンジン、モテモテで大変だな〜」
「お前まで来んな。しかもその呼び方、文化祭でだいぶ広がったぞ」
「いいじゃん、浸透してる証拠!」
――その様子を見ていた瑠璃は、ふと視線を伏せた。
(……軽い。全部が軽すぎて、笑ってしまいそう)
けれど、胸のどこかがずっとチリチリと焼けていた。
あのとき自分は、ちゃんと“伝えた”はずだった。
あの人が変わったことも、ちゃんと見ていたつもりだった。
(……それでも、彼女はああやって躊躇いなく踏み込んでいく)
(私のほうが、ずっと長く見てきたつもりだったのに)
小さく深呼吸をして、瑠璃はかすかに笑った。
「……勝てないな、あの子には」
それは、自分に向けた皮肉であり、
同時に、長らく閉ざしていた感情が、ようやく外に解き放たれたような、心の底に生まれた小さな悔しさの告白でもあった。
***
夕暮れの空は、少しだけ冷たかった。
住宅街の端を歩く二人の高校生と、一匹の子犬。
小さな足音と、落ち葉を踏む軽い音が交互に響く。
「……で、結局、誰とくっつくの? ヒロイン候補3人、全部脈アリじゃん」
拓海が、レンのリードを片手で持ちながら軽く問いかけた。
「くっつくとかじゃねぇよ。つーか俺、よくわかんねぇし。そういうの」
「らしーな。でも逃げなかったじゃん。ちゃんと向き合ってた。前なら、話しかけられる前に睨み返して終わってたろ、お前」
「……それは、まあな」
「で、今は?」
迅は少しだけ歩みを止めた。
レンが草むらの匂いをかぎながら、のんびりとリードを引っ張る。
「正直、まだ“好き”とかは分かんねぇ。でも……誰かが俺をちゃんと見てくれてるってのは、悪くなかった」
「全部うまく返せたわけじゃねぇけど、それでも逃げなかった。誠実でいようとは、思った」
「誠実な不良って……なんか矛盾してるな」
「ほっとけ。それにもう不良じゃねぇ」
ふっと風が吹いた。
落ち葉が舞い、レンがくしゃみを一つした。
「でもさ、すごいよな」
「なにが」
「お前、犬拾っただけだったのに――」
迅は肩をすくめて笑った。
「……気づいたら、人生ルート変わってた気がするわ」
拓海も同じように笑って、レンの頭を軽く撫でた。
「つーかさ、モテルートで修羅場って、何その青春。小説かよ……あ、詩織ちゃんが書いてたっけ、そういうの」
「……まさか、続きあるのか?」
「さあな。でも、物語って、続くんじゃねぇの?」
拓海がそう言って、夕焼けに染まる道の先を指差した。
その先には、レンが楽しそうに尻尾を振りながら、何か新しい発見を求めて駆けていく姿があった。
迅はその背中を、しばらく黙って見つめていた。
でも、気づけば――
誰かと話して、笑って、感謝されて。
思ったより悪くない時間を、過ごしていた。
夕焼けの道はまだ遠く、明日のことなんてわからない。
けれど――
きっとそれでも、進んでいける気がした。
そのとき。
遠くから、ここ最近でずいぶん聞きなれた甘ったるい声が響いてくる。
「せ〜〜んぱぁ〜〜い♡ 今日も犬散歩ルート、ご一緒していいですか〜〜♡♡」
振り返らなくても分かる。その声と足音は、すっかり日常の一部になっていた。
迅は小さくため息をついた。
けれど、その足は止まらなかった。
> ――俺、犬拾っただけだったはずなんだけどな。
それでも、今日もまた、誰かとの物語が続いていく。