それから数日。
混乱と修羅場の嵐の中でも、展示班の作業はどうにか形になっていった。
九条怜奈の奇行に如月瑠璃の冷徹な牽制、椎名詩織の密かな創作ノート――
それぞれの思惑が入り乱れながらも、展示は完成の日を迎えた。
そして、文化祭当日の朝。
教室のざわめきは、普段のそれとは熱気も響きもまったく違っていた。
甘いクレープの匂いと、ステージから漏れるバンドの音。
装飾された廊下、色とりどりのポスター、仮装姿の生徒たち。
高揚感に満ちた非日常の空気に包まれた学校に、桐ヶ谷迅はぼんやりとした顔で立っていた。
「……やっぱり人多いな」
「そりゃそうっしょ〜! 文化祭当日なんだから!」
背後から背中をどんと叩かれ、迅は顔をしかめる。
満面の笑みで現れたのは、もちろん友坂拓海。
片手に持ったパンフレットをパタパタ仰ぎながら、ハイテンションで続ける。
「いいねぇ、青春してる感じじゃん? なあジンジン、お前も今日はもっと笑おうぜ〜!」
「暑苦しいんだよ」
「そんなん言って〜、本心は『これ、ヒロイン全員集合フラグじゃね?』って思ってるんだろ?」
「思ってねぇよ、バカ」
迅はわざと冷たく返しながらも、無意識に周囲を見渡していた。
今日は――展示班全員での、本番の日だ。
***
展示ブースは予想以上に来場者が多く、開始早々に忙殺された。
ポスターの張り替え、資料配布、体験型展示の案内。
迅は、無駄のない動きで人をさばきながら、細かく視線を巡らせていた。
「迅先輩っ♡ ハイこれ、パンフレット補充しましたっ♡」
目を輝かせて駆け寄ってきたのは、当然のように怜奈。
目立つ位置に配置された立て看板には、“共同制作 by 展示班”の文字。
その下に、怜奈が勝手に貼った**「九条怜奈の愛と汗と妄想が詰まってます♡」**という付箋がきらりと光っていた。
「お前それ剥がせ」
「ええ〜〜!? じゃあ、“迅先輩と怜奈の共同結晶”って書けばバレませんか?」
「バレるし意味分かんねぇよ」
迅が呆れた顔をしていると、背後から本当に意味がわからない声が飛んできた。
「迅先輩っ、はいコレ!“ラブ度測定パネル”作っておきましたっ♡」
「……なにそれ」
「2人でボタンを押すと“相性パーセント”が表示されるんです♡ほらっ、今押してみましょう♡♡」
「いらねぇよ!!」
***
一方、詩織は展示ブースの片隅で手際よく資料を並べていた。
だがその手元とは裏腹に、意識は完全に別方向に向いている。
(……あのパネル、どう見ても桐ヶ谷くんと友坂くんの位置が近すぎない?距離20cm、視線交錯率80%……これもうほぼ告白シーンの間合い……!)
(まさか、意識して……いや、偶然……? それとも、これは“確信犯”!?)
気づけば、資料の隙間に小さくこう書き残していた。
> 「相手が無自覚なまま、修羅場に突入していく……」
→ 桐ヶ谷くん、策士説……(ただし天然)
彼女は頬を赤らめながら、展示物の説明を来場者に続けていたが、本の中のような修羅場が、今まさに自分の身に降りかかっていることには――あえて、目を逸らしていた。
***
瑠璃は、全体を統括する副会長としても働いていたが、目の端では迅の動向を常に追っていた。
怜奈の奇行に反応し、
詩織の照れた表情に目をやり、
拓海との軽口にも、自然に笑っている――
(……慣れてきたのね、ああいう空気に)
胸の内に、微かにざらつくものが走った。
(あのときは、“ありがとう”すら言えなかったのに)
文化祭という舞台の中で、迅が他の誰かと“関係を深めている”現実。
それを目の当たりにして、ようやく自分の心が、はっきりと――
(……悔しい、のかもしれない。でも、これを“分析”ではなく“感情”と呼ぶのは――まだ少し怖い。)
唇を噛んでそう呟いた瞬間、隣にいた詩織がふと声をかけてきた。
「副会長さんって、怒ってるんですか?」
「……怒ってません。むしろ、冷静に判断しようとしてるだけ」
「……ふぅん」
詩織は意味ありげに微笑むと、ゆっくりと背を向けて行った。
その背中を、瑠璃はほんの少しだけ睨むように見送る。
***
展示の後半。ついに問題が起きた。
大量の来場者によって展示物の一部が大きく傾ぎ、重い設営パネルが鈍い音を立てて倒れかける。
その標的は、パネルの真下で来場者の質問に答えていた怜奈だった。
誰もが息を呑む中、迅がまるで反射のように即座に動き、怜奈をかばった。
「バカ、危ねぇだろ!」
「ひゃ……♡ ごめんなさい、でも……迅先輩の胸板……硬い♡」
「硬い♡じゃねぇよ、怪我してたらどうすんだ……」
怜奈は小さく呟く。
「……でも、守ってくれましたね……嬉しい……」
その横顔を、瑠璃と詩織が同時に見ていた。
そして、気づけば三人の視線が――迅の背中に集中していた。
***
日が傾き、祭りの熱が緩やかに冷めていく中。
ブースの片付けを終えた迅は、しばらく空を見上げていた。
金色に染まった雲と、風に揺れる校舎の幕。
――わけがわからない。
誰が、何をどう思ってるのか。
自分が、どう応えるべきなのか。
けれど。
そのどれもが、なんとなく――悪くなかった。
「……ほんと、何なんだよ。俺なんか、ただ犬拾っただけなのにさ」
誰にも聞かれないように小さく呟いて、迅は背後の階段に座り込んだ。
その横には、展示班として――そしてそれ以上に、それぞれの胸に異なる感情を抱く少女たちの姿が、少しだけ、距離を取ったところにあった。
怜奈は迅を、瑠璃は怜奈と迅を、そして詩織は、その三人の関係性を、それぞれ見つめていた。