窓の外には、秋の陽が柔らかく差し込んでいた。
ほんの少し冷たさを含んだ空気に、文化祭の準備期間らしい高揚感が混じる。
厚みのある書類の山と、色分けされたスケジュール表が整然と並ぶ机。
その中央に立つ少女の手元には、極細のシャープペンシルが軽やかに走っていた。
如月瑠璃は、文化祭の人員配置表に目を通していた。
生徒会副会長である彼女にとって、この祭りはただの学校行事ではない。
全体の進行管理、物品の申請、そしてもっとも厄介なのが――人手の不足だった。
「……やっぱり、展示ブースがネックね」
“未来と過去”をテーマにした特設展示。
各クラスの出し物とは別に、生徒会主導で企画された目玉コンテンツだが、予想以上に準備が煩雑で、担当生徒の数が圧倒的に足りていなかった。
どのクラスも出し物に人を割いており、余力など残っていない。
ただ、瑠璃の目が止まったのは一つのクラスだった。
2年C組――映像展示。人手がかからない出し物。
その中に、名前があった。
桐ヶ谷迅。
(……桐ヶ谷くんなら)
今ではその鋭さを隠し、制服を整え、まるで別人のように過ごしているが、彼の持つ“芯”は変わらないと、瑠璃は思っていた。
(少しだけ……距離を詰めても、いいわよね)
(この距離を詰めることが、観察者として正しいのか、あるいは……。この新しいノイズが、私にとって何をもたらすのか、確かめる必要がある)
机に手を伸ばし、一枚の紙を取る。
それは生徒会が作成した『展示ブース補助班 募集要項』だった。
丁寧な字で、彼女はそこに短い追記を加えた。
> ご都合がよければ、ぜひ手伝っていただけると嬉しいです。
副会長・如月瑠璃
***
数日後、放課後の教室にて。
迅は、受け取った書類に眉をひそめていた。
「展示班……?」
文面の下に書かれた名前を見て、微かに目が泳ぐ。
「へぇ〜、副会長から直々ってことは……ジンジン、ついに文化祭ラブストーリー展開か?」
横から覗き込んだのは、友坂拓海。ニヤニヤと肘で突いてくる。
「……タク、お前も行け」
「はぁ!? なんで俺!?」
「人手不足って書いてあるだろ。分担な」
「待て待て、それ完全に“道連れ召喚”じゃん!」
ぐだぐだ言いつつも、結局拓海も参加を了承する。
それを見て、近くの席で本を閉じた少女が立ち上がった。
「展示の資料、図書室にいくつかあると思います。……もしよければ、手伝います」
椎名詩織。
おっとりとした雰囲気で、それ以上何も言わなかったが――
彼女のノートにはすでに、**“展示班×恋愛群像劇”**という文字が、真新しいインクで記されていた。
(桐ヶ谷くん、友坂くん、如月さん……三角関係、いや四角……?)
静かな創作魂が、たぎっていた。
***
翌日、展示班の集合場所に現れたのは、その三人――だけではなかった。
「皆さ〜〜ん♡ お待たせしました〜〜♡ 今日から始まる『運命の共同作業』♡」
手を振りながら満面の笑みで駆け込んできたのは、九条怜奈。
学年も違うはずなのに、どういうわけかこの場にいた。
「……なんでお前がいるんだよ」
「立候補しました♡ “迅先輩のお役に立てるなら何でもします!”って、申請用紙にハート付きで♡」
「……書類選考どうなってんだよ、生徒会」
「これってつまり、『一緒に未来を作る』ってことじゃないですか♡ 先輩と、ね♡」
迅は本気で頭を抱えたくなった。
***
展示ブースの準備は、想像以上に大変だった。
模造紙や厚紙、布、絵具、段ボール――
材料は揃っているが、まとまりは一切ない。
迅は自然と班長扱いされ、眉間に深いシワを寄せながらも全体を見て動く羽目になった。
(……なんで俺が仕切ってんだこれ……)
「じゃあ、副会長は進行管理頼む。椎名は資料と掲示物のチェック。タクは……クラフト係な」
「おっけ〜! 切るだけなら俺に任せとけ〜!」
「九条は……なんか目立たない仕事しててくれ」
「つまり、迅先輩のそばで応援してればいいんですね♡ 了解です♡」
「違ぇよ」
***
作業が始まると、案の定、班内はカオスと化した。
模造紙や絵の具がそこかしこに散乱し、段ボールの山は今にも崩れそうに揺れている。
怜奈は展示物の一角に自分と迅の“共同写真スペース”を勝手に作り出し、ハート型の画用紙を量産しては迅の背中に貼り付けようとしていたが、
その手を鋭い視線で制止する瑠璃――。
二人の間に静かな火花が散り、怜奈と瑠璃の距離が、じりじりと縮まっていく。
「なんか……殺気すごくね?」
拓海がぽつりと呟いた。
迅は深いため息をつきながら周囲を見渡す。
詩織は模造紙の裏にBL展開をメモしているのを拓海に見られて全力で隠し、瑠璃は進行表を片手に静かに全体を見渡しながら、怜奈の動きを何度も牽制する。
迅は思わず頭を抱えたくなった。
「迅先輩のとなり席は譲りませんよ♡」
「そこ席っていうか、床だし」
作業の合間に、詩織が迅に小さく話しかけた。
「この資料、もう一度確認してもらえますか? 展示レイアウトの配置、念のため……」
「ああ、分かった」
迅が詩織に身を寄せて資料に目を通す。二人の距離が、自然とわずかに縮まった。
その様子に、怜奈の目が一瞬鋭く光る。
すかさず瑠璃の視線が飛ぶ。
怜奈は肩をすくめ、小さく微笑んだ。
(ま、今はこっちが優先かな♡)
そして、詩織に軽やかに矛先を向ける。
「椎名さんって、意外と積極的なんですね〜〜?♡」
「私はただ、班として機能させたいだけです。ええ、ただ……“班”として」
その“班”という言葉が、迅にはもはや意味不明に響いていた。
***
無言の火花が散る中、迅はひとつ深く息を吐いた。
「これ、展示班じゃなくて……修羅場構築班じゃねぇのか……?」
彼の嘆きは、誰にも届かなかった。
だが、混乱の中で誰にも気づかれぬまま、迅の口元がほんのわずかに緩んでいた。
それは疲労か、諦めか――あるいは、この騒がしい日々の片隅で芽生えつつある、静かな高揚だった。